その三
「まさか、貴様が噂の寵姫だったとはな」
嘲るように鼻で笑ったのは、ヴァンズであった。
傷の程度は思ったより軽く、数日安静にしていれば治るという。
騎士団の宿舎に帰すのは危険という判断から、ユリアが一時離宮で預かることとなったのだが、ヴァンズはありがたく思うどころか、態度を横柄にしていった。
まるで己こそが主人だといいたげな態度は、エルファだけでなくほかの侍女たちの癇に障るものであったが、ユリアだけは従順に従っていた。
身についた癖はそう簡単に治るものではなかった。
ディオルン伯爵には三人の息子がいるが、ヴァンズはそこの次男である。国王直属の近衛兵に憧れ、騎士となったのだ。負けん気が強く、荒々しい気性だったことから、兄弟とはソリが合わなかったようだが、その分だれよりも妹であるファルファーナのことを可愛がっていた。
金がかった茶色の双眸が、好戦的に爛々と輝く。
母親に似て、線の細い高慢な顔つきであったが、さすがにファルファーナの兄だけあり華やかな容姿をしている。今は無惨にも頬にできたアザが痛々しいが、それがなければ近衛兵にも劣らない美貌の持ち主だろう。
「はっ、ずいぶん出世したもんだ。呪われたくせして、この神聖な宮殿に足を踏み入れるとはな。どうやって王子に取り入った? 色仕掛けか。それとも自分の言いなりになるようおぞましい魔術でも使ったか!」
部屋に閉じこめられている状態のヴァンズは、助けられた恩を忘れ、動けない苛立ちを容赦なくユリアにぶつけた。
「──そのように怒鳴っては、お体に触ります。さ、薬をお飲みください」
「嘘だ。その薬は毒だ! オレを殺すつもりだろ。ああ、お前はオレが憎いだろうな。そうさ。このオレを殺すくらい、今のお前には簡単だ。どうだ? 立場が逆転した感じは。ボロ切れをまとい、台所の隅で暮らしていた貴様が、今や時の人。方やオレは──……ッ」
ぎゅっと唇を噛みしめたヴァンズは、右の拳を振り回した。運悪く、朝摘んだばかりの花を生けた花瓶に当たり、高価な花瓶がゆっくりと床に落ちて割れた。
「ぁ……」
薬を台の上に置いたユリアは、反対側に回って陶器の欠片を拾おうとした。
しかし、それよりも早く、ユリアの胸元をヴァンズが掴んで引き寄せた。
「貴様のせいだ! 貴様がオレたちを呪ったんだ。そうでなければ、父上があのようなまねをするはずがないっ」
「ユリア様、何かございましたか!? 今、物音が──」
慌てたように入ってきたエルファは、目の前の惨状に言葉を失った。
駆け寄ろうとしたエルファを、ユリアは首を振って押しとどめた。そして、ヴァンズの手にそっと触れ、ゆっくりと口を開いた。
「ディオルン伯爵様ならば、そうなさっても不思議はありません」
「父上を愚弄するか! 陛下に忠義の篤い父上が、簡単に敵国に身を売るものかっ。きっと弱みを握られ……あぁ、そうだ。可哀想なファルファーナ……きっとあの子を守るために父上は仕方なく……」
「目をお覚ましください、ヴァンズ様」
頑としても現実を認めようとしないヴァンズに、ユリアが凛とした声を発した。
「これまでディオルン伯爵様の何を見ていらしたのです? ディオルン伯爵様に情など求めても無駄です。あの方は、自分の有益にならないことならば、驚くほど非情になれるのです。ファルファーナ様のこともそう。お相手の方が伯爵様ご自身になんかしらの利益があるからこそ、ファルファーナ様を見返りとして贈ったのでしょう」
「なにをでたらめなことを! 貴様になにがわかるっ。たとえ血が半分繋がっているとはいえ、貴様の母は流民。しかも妖しい術を使う女だったではないか。使用人のごとき扱いを受けてきた貴様が、父上のことで知った風な口を利くな! オレたちのほうがよほど詳しい。そうだろう? だって、オレたちは家族だ。貴様とは違うっ」
ヴァンズは、シーファスと同じ年だというのに、口から飛び出すのは驚くほど子供っぽい言動ばかりだった。
さすがに仲間からも厭われていたことはある。
ユリアは薄く笑った。
それを嘲笑と受け取ってか、カッと怒りに頬を染めたヴァンズが、首元の服を掴む手に力をこめた。
「くっ……」
「嗤うな! みんな馬鹿にしやがって。オレは違う。オレはなにも知らない!」
「ユリア様──っ」
さすがにまずいと悟ったエルファが駆け寄ろうとしたそのとき。
心地よい、けれど威厳に満ちた声が響き渡った。
「なにを、している?」
怒りを抑えた低い声音。
冷気をまとったその問いかけに、ヴァンズの手がわずかにゆるまった。
「我が寵姫と知っての狼藉か? いかにあなたがユリアの異母兄とはいえ、見過ごすわけにはいかない。ローディアンの者は、よほど王家に恨みがあるようだ」
「ぁ……ちがっ、」
姿を見せたのがシーファスであることを知ったヴァンズが、カタカタと震え出した。
先ほどまでの高慢さが嘘のような怯えっぷりだ。
「その汚い手をユリアから離せ」
鋭い命令に、ヴァンズの手がだらりと力なく落ちる。
軽く咳き込んだユリアを近寄ったシーファスが抱きしめ、ヴァンズの側から引き離した。
「怪我は、ない?」
「は、い……」
ヴァンズに対していた冷たい顔が嘘のように、ユリアに問いかける顔つきは優しい。
「エルファから君が異母兄君の世話をしていると聞いてね。いてもたってもいられなかったんだ。あぁ、けれどよかった。僕は間に合っただろうか?」
「はい、シーファス様」
シーファスの優しい香りに包まれ、ユリアは肩の力を抜いた。
とくん、とくん、と微かに聞こえる彼の心音が、ユリアの心も落ち着かせてくれた。
(気持ちが、あふれてくれる)
甘い痺れが、全身に広がっていくようだった。
彼に対する想いを自覚してしまえば、平静を保つことなど難しかった。恥ずかしさと嬉しさがひしめき、きゅっと胸が鳴った。
「ユリア様、わたくしが異母兄君様のお世話をいたしますわ。ユリア様がこうなったのには、わたくしの職務怠慢のせいでもあるんですもの。今の行為は万死に値しますが、ええ、ユリア様の大切な異母兄君様ですもの。それはもう優しく介抱いたしますわ」
笑みを浮かべているが、目は完全に笑っていない。ユリアにした仕打ちが、よほど腹に据えかねたのだろう。
静かに怒りをため込むエルファの姿は、先ほどのシーファスよりも恐ろしいかもしれない。
「さあ、ユリア。ここはエルファに任せて、僕たちは向こうへ」
シーファスは、戸惑うユリアの細い腰に手を当て、優雅に奥の部屋へ導く。
「あの、シーファス様にご迷惑がかかっているのでは?」
勧められるまま、長いすに並んで腰掛けたユリアは、意を決したようにそう切り出した。
「迷惑?」
「……ローディアンの名を伏せているということは、それだけ逼迫しているということではありませんか?
私は伯爵様がこの国を裏切ったという事実を知りませんでした。もし、私がローディアンの娘だと噂が広まれば、シーファス様も立場が危ういのでは?」
ユリアの鋭さに、シーファスが苦笑した。
「君がもう少し頭の回転が悪かったらよかったのに……。大人に頼らず生きてきたからなのかな。君はどこか達観したような言葉を口にすることがあるね」
「申し訳ありません……」
「いや、責めているんじゃないよ。その洞察力は称賛に値する。ただ、君を守り切れていない自分のふがいなさを痛感しているだけさ。そう、君の言い分は正しい」
「最初から予測していたのですね。こうなることを。だからこそ、私が伯爵様の娘であることは、まだ公には知られていない」
ユリアが静かにそう口にすると、シーファスが目を見開いた。
「困ったな。君はどこまで知っているんだろう」
「──すべてはただの憶測です。シーファス様が深手を負った意味をずっと考えていました。あそこにシーファス様の興味を惹くものといえば、境界線かディオルン伯爵様のどちらかと。けれど、ディオルン伯爵様の行動によって、点と点が繋がった気がします。シーファス様は、以前から隣国の動向を探っていらしたのですね」
「ああ、バル・ドゥーラの新しい国王が戦を仕掛けてくるかもしれないという噂は耳に入っていたからね。あのときちょうどオーラントと偵察に赴いていたんだ。けれど、運悪く見張り兵に見つかってしまってね。なんとか命からがら国境を越えたのはよかったけれど……」
「では……」
「ああ、こちらの準備も整っている。四日後に、兵を率いてディオルン伯爵領に向かう」
「……っ」
ユリアは息を呑んだ。
四日後!
あまりに早すぎる別れだ。
シーファスはこの準備のために忙しく動き回っていたのだろう。
「すまない……ユリア。これは王子である僕の使命なんだ。僕は、次期国王として民をしっかりと守らなければならない。バル・ドゥーラ兵に、この美しく平和な地を荒らされたくないんだ」
ユリアはきつく唇を噛みしめた。
世情には疎いユリアでさえ、バル・ドゥーラ大国がどれほど強敵なのか知っていた。領土が大国の半分もないアルトランディアに勝利はまずないだろう。
負け戦とわかっていて、シーファスは兵を率いて戦場へくり出すのだ。
「……争うしかほかに道はないのですか?」
ユリアの声が震えた。
「何度も使者をやって和平協定を申し出たんだけれどね……。国王は、使者の骸を放って寄越した」
「そ、んな……」
「バル・ドゥーラの王は、この国を掌握し、南へと勢力を伸ばしたいらしい。貪欲に領土を欲しているのさ。大地を血で汚しながら……。バル・ドゥーラに攻め入られた国の末路は悲惨だ。王家に連なる者たちの首はすべてはねられ、憐れな民は奴隷のように働かせられるという。敵兵は容赦なくアルトランディアを蹂躙するだろう。略奪、強姦、殺戮……あらゆる悪が蔓延り、地獄図のような光景が広がるんだ。僕は、大切な国民をそのような恐怖と屈辱にさらしたくない」
毅然と言い放つシーファスは、王子らしい気品と威厳にあふれていた。
そこで、ふっと表情を和らげたシーファスは、ユリアの髪を撫で、愛しげに見つめた。
「でも、それは建前。本当はね、君を守りたいんだよ。一国の王太子である僕には、守る命が多くあるけ
れど、一番失いたくないと思うのは君だけなんだ」
「なら、私を妻にして下さい! 私にもあなたの荷を背負わせて……っ」
ユリアは悲痛な思いで叫んだ。
「ユリ、ア……?」
シーファスが驚いたように目を見開いた。
そして、ゆっくりとユリアの言葉を噛みしめるように目を細めると、頬を緩ませた。
「本当に……? それは、僕の想いが通じたということかな? あぁ、嬉しいな。最高の気分だ」
「初めてあなたを見たときからきっと私はあなたに心を奪われておりました。でも、私はボンワット夫人に指摘されるまで、気づかなかったのです。私は知りませんでした。だれかを愛するということが、だれかに愛されることが、こんなに素晴らしいということを。シーファス様をもっと知りたくなるんです。ずっとお側にいたいんです。だからどうか、私をあなたの妻に」
ユリアの必死な願いに、けれど、シーファスは首を縦に振らなかった。
「君がもし僕の妃だと知れたら、君も殺されてしまう。それだけは耐えられない。もし、生きて帰れたのなら、そのときは式を挙げよう。だれにも反対はさせない。僕の初陣が勝利を飾れば、父上も文句は言わないだろう。いや、言わせない」
シーファスは最初からそのつもりだったのだろう。
ユリアの気持ちを待つと言ったのは偽りで、戦争が終結するまでユリアと結婚するつもりはなかったのだ。
けれど、自分一人生き残ることに、ユリアは納得できなかった。死ぬならば、シーファスの妻として死にたかった。
「そ、んなこと、言わないでっ」
堪らずユリアはシーファスに抱きついた。
「絶対、何かほかに策があるはずですっ。私はあなたを失いたくありません! もう…、もう独りは嫌……。嫌です……。あなたが私に愛する喜びを教えてくれたのに……あなたが私に自由を教えてくれたのに……私の中には、あなたしかいない。……いなく、ならないで。私を置いて、いかないで……っ」
ユリアの心の叫びが哀愁を帯びて響き渡った。
体を震わせ、激情をぶつけるユリアの背に手を回したシーファスは、きつく抱きしめた。
「ユリア……僕が初めて愛した人。ねぇ、何度だって囁くよ。君の心に、深く…深く刻まれるくらい。愛してるって。大丈夫。記憶は永遠にあせることはないよ。さあ、笑って? 僕に元気な声を聞かせてよ。僕にも君という存在が魂にまで刻まれるくらい。愛してるよ、ユリア。僕のすべて……だから悲しまないで。心はいつでも君の側に在るから」
「シーファス、様……」
ユリアが嗚咽を漏らす。
涙はでてこない。
呪いを受けたあの日から、ユリアの涙はかれてしまったのだ。
(ああ、なぜ……なぜ愛してる人まで……っ)
ユリアの心はちぎれそうに痛んだ。
「離れていても、心は一つ。ユリア、僕は君をずっと想っているから」
シーファスはゆっくりと顔をユリアに近づけた。
そっと重なる二人の唇。
ユリアは、目を閉じ、シーファスを感じた。
それは一瞬だったのか、それとももっと長い時間だったのか。
ユリアはこのまま刻が止まってしまえばいいと思った。
(私は忘れない。彼の温かさを……匂いを……優しさを……。絶対に)
これが最初で最期の口づけだったとしても、ユリアの記憶にはいつまでも色あせずに残り続けるだろう。




