その二
その日、天気がいいからと、押し寄せてくる貴族たちの目を避け使用人が出入りする裏戸から抜け出したユリアは、エルファに案内されながら薔薇園を歩いていた。顔の半分ほど隠れる帽子を被っているので、ユリアだとばれる心配はないだろう。
花の甘い匂いを乗せた風が、軽やかに髪を揺らしていく。
「良い風ね、エルファ」
「ええ、本当に。やかましい声が届かなければ、もっとよろしいんですけどね!」
エルファの主張はもっともであった。
せっかくの美観も、周囲のざわめきが大きくては浸ることもできない。
青空の下で見事に咲き誇る大輪の赤薔薇を愛でるのもそこそこに、ユリアたちは喧噪から逃れるようにもっと奥へと進んでいった。
まるで迷路のように複雑に入り組んだ薔薇園は、姿を隠してくれるにはちょうどよかったが、道に迷ってしまわないかと不安になってしまう。
けれどユリアの戸惑いなどお構いなしに、エルファは平然と先を歩く。
「あ、ユリア様。こちらには、珍しい青薔薇が咲いておりますわ! なんて綺麗なんでしょ」
目を輝かせたエルファは、子供のように無邪気に笑ってユリアを手招いた。
ユリアは思わず笑ってしまった。
エルファを見ていると、悩んでいる自分が馬鹿らしくなった。せっかく薔薇園に来たのだから、楽しまないと損であろう。
ユリアが近づこうとしたそのとき、どこからか怒号が聞こえてきた。
「──……がっ! 売国奴はさっさと帰れ!」
不穏な言葉に、エルファと顔を見合わせると、彼女はぎゅっと眉間に皺を寄せていた。
「ユリア様、ここはあまり居心地がよくありませんわ。さ、部屋へ戻りましょう」
巻き込まれてはいけないとエルファに促され、来た道を引き返そうとしたユリアだったが、次の瞬間足が止まった。
「ディオルン伯は陛下を裏切ってなどいない! 間違っているのは貴様らのほうだっ」
ひゅっと息を呑んだユリアは、エルファが必死にこの場所から連れ出そうとしているのにも気づかず、耳を澄ました。
「なんだとっ。ハッ、父親が父親なら、息子も息子だな! もう正体はばれてるんだ。敵国から送り込まれた卑しい間諜めっ。お前が我が国の情報を流したせいで……っ」
「俺はなにもしていない。勝手な思いこみは止めろ」
「この野郎ッ。まだ白を切るか。証拠はあがってるんだ。……だいたい、前々から気にくわなかったんだ。たかが地方貴族のくせに、えばりやがって。はんッ、この機会にきっちり性根をたたき直してやる。おい、お前ら、殺っちまえ!」
二人だけではなかったのだろう。
複数の声が聞こえてきた。
(いけない……っ)
地面に縫い取られていた足が、自然と動き出す。
「ユリア様――――っ!?」
エルファの焦った声を背に聞きながら、どうか間に合いますようにと祈っていた。
争う声を頼りに、視界を埋め尽くす薔薇と緑の間を右に左へと曲がっていく。
「……っ、や、止めてください!」
はぁ、はぁっと乱れる息を整えながら、ユリアは飛び出した。
視界が開けた先は、ちょうど薔薇園の出口だったようで、広場のような場所に大柄な男たちが六人もいた。
ユリアの登場に驚いたのか、囲んで暴行を加えていた男たちの動きが止まった。
「そこから、離れてっ」
ユリアがそう命じると、男たちは頬を引きつらせながら後じさった。
まずいところを見られたとばかりに、その顔からは血の気が引いていた。
上等な布地を使ったドレスに身を包むユリアを上流階級の令嬢であると勘違いしているのか、姿勢を正した彼らは、あきらかに狼狽していた。
「いや、これは……」
言い訳を口にする彼らに目を向けず、殴られて血を流している青年のもとへ駆け寄った。
「ヴァンズ様!」
「……ッ、ぅ、…貴様は……」
服は土や血で汚れ、顔は腫れ上がっていた。青紫に変色したあとが痛々しい。
それでも、命に関わるような重傷を負っているわけではないようで、苦しげに息を吐きながらも瞳は爛々と輝いていた。
「動かないでください。傷にさわります」
うずくまる彼には、ユリアの仮面が見えているのだろう。
ファルファーナと同じ金がかった茶色の瞳に、ユリアの姿が映し出されていた。
なぜ、ここに……と驚愕した顔つきで、ユリアを凝視していた。
「失礼ですが、そこの者とお知り合いですか? こんな虫けらと付き合っていては、お父君が悲しまれますよ」
「! なにを……」
振り返ったユリアは、ようやく平静を取り戻したらしい男たちを見つめた。
よく見れば、彼らはみな紅翼騎士団の制服をまとっていた。多少着崩してはいるが、赤薔薇とは違う、もう少し暗みを帯びた紅の腰布がその証であった。剣を差し、紅翼騎士団の紋章の入った外套を羽織れば、それこそ近衛兵にも引けをとらない輝きがあるだろう。
乱れた髪をなでつけ、襟を正した彼らは、慇懃な姿勢でユリアに接した。
「そのご様子では、ディオルン伯の黒い噂をご存じないのでしょう」
「黒い噂?」
「ああ、やはりご存じでない。ディオルン伯は、アルトランディアの情報を敵国バル・ドゥーラに売ったんですよ」
「嘘、だ……ぅっ」
青年が痛みに顔をしかめながら、否定の声を上げる。
「ならどうしてアルトランディアの真珠であるファルファーナ姫が、敵国のベルナンティス公爵の元へ嫁ぐことになった。ディオルン伯爵領は、バル・ドゥーラとの国境沿いにある。自分の命を守る代わりに、姫君を差し出したともっぱらの噂だぞ」
「──!」
ユリアの顔から血の気が引いた。
今聞いた話が信じられなかった。
(ファルファーナ様が嫁ぐ……?)
政略結婚ということだろうか。
貴族の間では珍しいことではなかったが、溺愛しているファルファーナをまさかバル・ドゥーラの人間に嫁がせるとは思っていなかった。
だが、ディオルン伯爵の性格を考えれば、十分あり得る話だ。
自分の利益になるならば、愛している者の命でさえ簡単に差し出す。
それがディオルン伯爵なのだ。
「どうやらご理解いただけたようですね。逆賊に関われば、あなたも罪に問われますよ」
――逆賊。
その一言が重くユリアの両肩にのしかかった。
「そこで、なにをしているのです!」
鋭さを滲ませた声が、緊張の走った空気を一刀両断した。
いつもの穏やかさは脱ぎ捨てたエルファの強ばった声に、ユリアはわずかに肩の力を抜いた。
息せき切って現れたエルファは、一目で状況を把握したようで、きつく両の目を眇めた。
「ここが、今もっともときめくお方の御所付近と知っての狼藉ですか。騎士同士の喧嘩は固く禁じられて
いるはず。それを破った者をわたくしも見逃すわけにはまいりません。この件については、紅翼騎士団の団長殿に伝えます。処罰については、団長殿からお聞きなさい」
エルファが怒りを押し殺しながら淡々と告げると、目に見えて顔色を変えた男たちは、顔を覚えられてはまずいとばかりに慌てて去っていった。
さすがにシーファスの乳兄弟であるオーラントの妹の言葉は重く響いたのだろう。
なにも言い返せずしっぽを巻いて逃げていくさまは、先ほどまで強気だった態度が嘘のようだ。
それでも危険が去ったことに、ユリアはつめていた息をゆるりと吐き出した。
気持ちが落ち着いてくると、男たちの台詞が脳裏を過ぎた。
ちらりとエルファに視線を投げたユリアは、彼女の表情が複雑そうなのに気づいてきゅっと唇を引き結んだ。
「エルファは、知っていたの? 知っていて私に隠していたの?」
「ユリア様……」
エルファは気まずそうに口ごもった。
男たちが言い放った言葉は、彼女にも届いていたのだろう。
罰が悪そうに俯くエルファに、知らなかったのは自分だけなのだと悟った。
(考えてみると、すべてが繋がる。シーファス様が、なぜ伯爵領にいたのか……)
バル・ドゥーラか、伯爵のことを偵察していたのだ。
それならば護衛がオーラントだけというのも頷けるし、あの酷い傷も理由がつく。きっとバル・ドゥーラか伯爵の兵士に嗅ぎ回っていることがばれて襲われでもしたのだろう。
(私も、逆賊の娘なのね……)
暗澹たる思いでいると、起き上がろうとしたらしい青年が呻いた。
ハッと思考を切り替えたユリアは、とっさに彼の背に手をやると、エルファに言った。
「エルファ、手伝って。この方を離宮へ」
「助けてよろしいのですか? ユリア様のお家のことはまだごく一部の者しか知りません。シーファス様が伏せておいででしたから。けれどここでヴァンズ・ローディアンと関わったら、ユリア様もただではすみませんよ。もしなにかのひょうしにお家柄のことが宮廷中に広がれば……」
「エルファ、この方は、たとえ半分しか血が繋がっていないとしても私の異母兄なのです」
「ですが、ユリア様は……」
エルファは言いにくそうに語尾を濁した。
シーファスにでも聞かされたのか、これまでユリアが虐げられてきたことを知っているようだった。
「……少し前の私ならば、きっと見捨てていたかもしれません」
ユリアは苦々しく口元を歪めた。
あの家族によい印象など持っていなかったのだから当たり前だ。
けれど、とユリアは続けた。
「私は、ファルファーナ様に……いいえ、異母姉様から受けた恩に報いたい。あの方は、こんな私を愛してくれていた……。エルファ。それがね、私にはとても嬉しかったの。母さんを亡くして、突然知らないお城に連れて行かれて、孤独に過ごしてきた私に優しく接してくださったのは異母姉様だけなのよ。私はずっと異母姉様を妬んで……忘れていたの。呪われた私なんて愛してくれる者はいないって思いこんでいたのよ」
どうして心の奥底にしまい込んでいたのだろう。
小さい頃はファルファーナとも仲が良かったのだ。
だが、しだいに己の惨めな境遇を悟り、ファルファーナを憎むことしかできなくなっていた。
変わってしまったのはユリアのほうなのだ。
ファルファーナは、あの頃と同じ。
見知らぬ地で怯えるユリアに、笑顔で手を差し伸べてくれたあの頃と。
(ファルファーナは、私を気味悪がることは決してなかった)
使用人も、父である伯爵でさえ嫌悪の視線を向ける中、幼いファルファーナは、きらきらと目を輝かせて言ったものだ。
――きょうから、ファーナがあなたのおねぇさまよ。よろしくね。
それがどんなに嬉しかったか。
「私は異母姉様に助けられてきたわ。だから今度は、私が異母姉様を助ける番。家族をだれよりも愛しているから、ヴァンズ様が負傷したと聞いたらお嘆きになるわ」
「ふぅ、そこまで覚悟がおありならば、……ええ、わたくしはなにも申しませんとも」
仕方なさそうにため息を吐いたエルファは、覚悟を決めたように微笑んだ。
が、すぐに表情を強ばらせると、いきなり身を翻した。薔薇園の中へと姿を消したエルファを呆然と見送っていると、しばらくして釈然としない顔で戻ってきた。
「エルファ? どうしたの?」
「失礼いたしました。だれかがいたような気配を感じたのですが……。気のせいだったのかもしれませんわ」




