第四章 暗雲 その一
「ふんっ、王太子殿下が思いを寄せる方だというからどのような方かと思えば、気味の悪い仮面をつけた小娘じゃないの。わたしのほうが何倍も美しいわ」
兵士や侍女の制止を振り切り、突然離宮内に入り込んできたのは、綺麗に着飾った少女だった。年は十八くらいだろうか。輝くような黄金の髪をゆるく巻き、胸元に垂らしていた。
その後ろには彼女の友人らしき令嬢がびくびくした様子で窺っていた。
「これは、ボァズ宰相のご令嬢、アリッツィ姫ですね。冷静沈着な父君と違い、直情型な性格ですこと。ここは、姫君のお屋敷ではありませんわ。シーファス王子のご寵愛を一身に受けるユリア様の宮殿です。知らせもなく、いきなり訪れるなんて、いささか礼儀を欠いていらっしゃるのでは?」
真っ先に反応したのは、ユリアと刺繍を楽しんでいたエルファであった。
いきなりの侵入者に驚いているユリアを隠すように立ちふさがったエルファは、冷静な態度で切り返した。
「ま! 使用人風情がっ。あなたの母親が殿下の乳母というだけで、あなた自身は卑しい身分ではないのっ。侍女風情が、わたしにそんな口を利いていいと思っているの? 父様に頼んだら、あなたの家族を路頭に迷わすことくらい簡単なのよ」
「──権力を振りかざすなんて、品性だけでなく家柄が疑われますよ、アリッツィ姫」
「! ボンワット侯爵夫人……」
ボンワット夫人の登場に、顔色を変えた少女が悔しそうに口をつぐんだ。
アイゼ王妃の親友がいるこの場で不用意な言葉を口にするのは、不利であると悟ったのだろう。
「八つ当たりはほどほどになさい。いくら外見を繕っても、あなたのような気性の激しい性格では殿下も相手にしませんよ」
「いいえっ、王太子殿下はわたしに好意を抱いてくださっていたわ! 父様もわたしと王太子殿下の縁談をまとめるよう動いてくださっていたのに、この女が来たせいでっ」
ユリアを憎々しく睨みつける少女。
いくら美しいとはいえ、嫉妬に歪んだ顔は、醜く見えた。
(この人は確か…、シーファス様に話しかけていた……)
二人の仲がよさそうな姿を思い浮かべると、胸の中がモヤモヤとした。
(好意……。邪魔者は私のほう……?)
否定したくとも、少女の苛烈さを前に萎縮してしまいそうになる。
そこで、はたと気づく。
シーファスのことをほとんど知らないという事実に。
この煌びやかな王都で、どのような生活を送ってきたのか、なにもわからない。
きっと、目の前にいる少女のほうがシーファスのことを理解しているのかもしれない。
「わたしは諦めないわっ。だれがあなたのような人と殿下を結婚させるものですか。あなたが王太子妃となったら、我が国は周辺諸国から笑いものにされるわ。そうしたらこの国もおしまいよ!」
高らかに笑った少女をボンワット夫人が厳しくいさめた。
「そのような不穏な言葉を軽々しく口にするものではありませんよ」
「……ッ、気分が悪くなりましたわ。これで失礼いたします」
つんっと顔を背け、少女は取り巻きの少女たちと去っていった。
ボンワット夫人は難しそうな顔でため息を吐くと、すぐに笑顔を浮かべ、手に持っていた包みをユリアに渡した。
「この間のお茶会で、読み書きを習いたいと言っていたでしょ? 学ぶには、読書がいいかと思って、やさしい本を数冊選んで持ってきたのだけれど、……ちょうどよかったようね。あのような心ない者はほかにいて?」
「……い、いいえ、いつもなら門扉の前で追い払っているようですから」
ハッと我に返ったユリアは、慌てたように首を横に振った。
「アリッツィ姫は、制止を振り切って勝手に上がってきたのですわ。はぁ~、こんなにあっけなく突破されるなんて……もう少し警備を強化しないと駄目ですわね」
「わたしたちの庇護があれば抑制できると思っていたけれど、思慮が足りなかったようね」
「アリッツィ姫は例外だと思いますわ。思いこんだら一直線ですし、父君が宰相になられたこともあって、ご自分にも権力があると思っていらっしゃいますから」
嫌そうに顔を歪めたエルファは、やれやれとばかりに肩をすくめた。
「その様子だとあなたもずいぶんと苦労したようね」
「ほほほっ、それはそれは! ええ、もちろん。兄と共にシーファス王子と親しくさせていただきましたからね。シーファスもまとわりつくご令嬢方を嫌って、わたくしを風よけにしようとなさるものですから、宮廷中の女性を敵に回したと思いますわ。おかげさまで、可愛らしい嫌がらせはずいぶんと受けましたとも」
「あ~ら、それは、ずいぶんと楽しそうね」
エルファは、にやりと笑った。
彼女にとってご令嬢方の陰湿な虐めなど、ささいなことでしかなかったのだ。
「日々、宮殿の奥で密やかに行われている密談や陰謀に比べれば、あの子たちの嫉妬はたいそうお可愛らしいものでしたわ。──あらあら、わたくしとしたことが。お客様を立たせたままで。今、お茶の用意をいたしますので、少々お待ち下さいませ」
「気遣いは無用よ。本を渡したらすぐにお暇する予定だったし」
「いいえっ、ボンワット侯爵夫人でしたらはりきって準備させていただきます! なんといっても、ユリア様をお守りする同志ですもの。えぇ、心強い味方ですわ」
鼻息も荒くエルファが部屋をあとにすると、残されたユリアは刺繍が途中の生地を隅にやり、ボンワット夫人に席を勧めた。
「ふぅん、品のよいお部屋ね。長いこと使われていなかったから、掃除も大変だったでしょう。時代遅れの調度品が並んでいるのかと思ったのだけど、そこまで古くささは感じないわね。当世風ではないけど、見せ方の工夫がしてあるせいかしら。きっちり整頓されていて、とても……そう、とても居心地がいいわ。空気が優しいというかしらね。……これは、あなたが?」
好意的にぐるりと見回したボンワット夫人は、そう尋ねた。
さすがに女性だけあって、検分する目つきは鋭かったが、すぐに感嘆としたものへと変わっていくのがユリアにも見て取れた。
まさか褒められるとは思っていなかったユリアは、首を横に振った。
「いいえっ、部屋の内装はエルファが……」
自分の部屋を持ったことがユリアは、どこをどう変えればよいのかもわからなかったのだ。
家具があるだけでもう満足してしまい、弄ろうという気も起きなかった。
もともと、数世代前の国王の側室のために造られたというこの離宮は、装飾一つとっても細やかな細工が施され、当時の贅を結集させたような絢爛さがあった。時は経ったといっても、磨けば艶がでて、それは見事なものへと生まれ変わるのだ。
こういう華やかな暮らしに不慣れなユリアのために、エルファはわざわざ生活しやすい環境を調えてくれた。少しでも馴染めるようにと、調度品や絵画などは、上品なものへと取り替え、壁も白く塗り直したのだ。
「私は、刺繍をしているだけで……」
長いすや壁にかかっている掛布は、すべてユリアの手製のものだ。
「淑女のたしなみね。編み物か刺繍は、暇をもてあます時間にはもってこいだけど、次からは勉強することをおすすめするわ。頭の回転の早い女性を馬鹿にする男どもいるけど、幸いなことにシーファス王子は、頭のいい女性を嫌いではないわ」
にっこりと微笑んだボンワット夫人は、恥ずかしげに俯くユリアを好ましげに見つめた。
「ようやくシーファス王子の片思いも終わるのね。喜ばしいわ! さっそく、アイゼに報告しないと」
「ぇ……?」
ユリアは、弾かれたように顔を上げた。
「わ、私がシーファス様を、ですか?」
「いやだ、気づいてないの? あなた、さっきもアリッツィ姫に嫉妬していたんじゃなくて? 雰囲気でわかるわよ。あなたがシーファス王子を好いているのは。とられたくないのなら、しっかり想いを伝えなさい。シーファス王子を狙っている者は、アリッツィ姫だけではないのよ」
「……っ」
ユリアは、なにも言えず黙り込んでしまった。
(私が、シーファス様を好き……?)
かあぁと顔が熱くなる。
よく考えれば、わかることだ。
触れてドキドキするのも、胸が苦しくなるのも、シーファスだけ。
(いつから……? ううん、きっと、)
そう、きっと。
シーファスを初めて見たあのときから、心を奪われていたのかもしれない。
けれど、恋愛をしたこともないユリアには、これが恋なのかわからなかったのだ。
指摘され、すとんと答えが胸の中に落ちた心地がした。
自覚すると、なんだか気恥ずかしくなる。
(私、シーファス様と顔を合わせづらいわ)




