その三
アイゼ王妃が白薔薇の集いにユリアを招いたことは、瞬く間に宮廷中に広がった。
早速、ご機嫌伺いとばかりにおもねる連中が、宮殿から離れた離宮へと押し寄せてきたのだった。
「困りましたわ。これでは、手が足りませんわね」
やや疲れた面持ちでエルファが嘆息した。
彼らが持参した品で、一階の空き部屋はあふれかえっていた。それを整理するだけでも一苦労である。
静かだった離宮の周囲はここ数日騒がしく、日が暮れても人の話し声は絶えないのであった。
シーファスからユリアを守るよう厳命されているエルファは、下心のある連中とユリアを引き合わせることはしなかったが、中には門前払いするのが難しい貴族もいた。権力をふりかざし、対面させるよう迫る彼らを、必死に言いくるめてきたエルファだったが、思ったより疲労が溜まっていたらしい。
「こんなときにシーファス王子がいらっしゃれば……」
「……」
嘆くように呟いたエルファに、ユリアも悲しげに口の端を下げた。
シーファスは公務に忙しく、ユリアの元へ顔を見せる回数が確実に減っていた。日に日に彼のまとう空気が硬質になっていくのを、ユリアは肌で感じていた。
(シーファス様はなにをなさっているのかしら……)
ユリアの気がかりはシーファスの行動であった。
彼が矢傷を負って命が消えかけていたのは記憶に新しい。
盗賊に襲われたのだろうか。
けれど、その事実をアイゼ王妃は知らない様子だった。なにより、一国の王子が供をたった一人で物見遊山というのも珍しい。王子自身が腕に覚えがあるといっても、そこは近衛隊がしっかりと警護するべきところだろう。
ユリアが考えを巡らせていると、外が騒がしくなった。
(なにかしら?)
乱闘でもあったのかと窓から下を眺めたユリアは、人だかりに気づいた。中心人物を囲むように円が出来ている。
「あら、噂をすればシーファス王子ですわね」
同じく、ひょいっと外を見下ろしたエルファは、輪の中心人物がだれであるか気づいたようだった。
「忙しい合間を縫って、ユリア様にお会いにいらしたのですわ。まあ、大変。お茶の用意をしませんと」
「シーファス様……」
残されたユリアは、エルファが出て行ったのにも気づかぬ様子で、じっとシーファスを見つめていた。
シーファスが退くように言ったのか、すっと人波が二つにわかれていく。
その中央を優雅に進むシーファスに注がれる視線は熱い。特に、若いご令嬢方は夢見心地のようにシーファスの姿に魅入っていた。
(ああ、みんなシーファス様を好いていらっしゃるのね。優しくて、見目もよくて……それに、この国の王子様だもの。当然よね)
この国にシーファスに憧れない娘などいないだろう。
そう思うと、つきん、とユリアの胸に痛みが走った。
思わずそっと胸を押さえたユリアは、唇をきゅっと引き結んだ。
(なぜ、胸が痛むの……?)
シーファスの周囲にいる女性はみな身分が高く、それこそ花よ蝶よと育てられた深窓のご令嬢ばかりである。洗練された身のこなしも、美しい容姿も、ユリアは全く敵わない。
華やかなご令嬢の中でも飛び抜けて美しい娘が、すっとシーファスに近寄った。
親しげな様子に、顔見知りなのかと胸がざわめいた。
明るい太陽の下で寄り添う二人の姿は、まるで一枚の絵画のように、絵になっていた。
(とてもお似合い……。私なんかよりずっと……)
シーファスが彼女より自分を選んでくれたことが信じられなかった。
(……ぁ)
陽射しにやられたのか、ふらりと倒れそうになった娘をシーファスが支えた。
とたん、ご令嬢方の悲鳴や歓声が上がる。
「――……ッ」
胸に置いた手にきゅっと力がこもった。
触らないで、と叫びそうになって、思わず唇を噛んだ。
(私に、そんな権利などないのに……)
それでも、シーファスがほかの女性に優しくしているのを見ていたくなかったのだ。
ユリアが切なげに見つめていると、視線を感じたのか、ふっと、シーファスが顔を上げた。
「!」
遠目からもシーファスが微笑んでくれたのが雰囲気でわかった。
驚いて、とっさに後じさったユリアは、その場にうずくまった。
──顔が、熱い。
(心臓が、どきどきしてる……。私に気づいてくれたことがこんなに嬉しいなんて……)
しかも、微笑んでくれた。
あの笑みは、自分だけに向けられたものだ。
たったそれだけのことで、さっきまでの嫌な気持ちが霧散してしまう。糖蜜のような甘い痺れが、心臓からつま先へと伝わっていく。
(私、変ね……とっても変。なぜシーファス様の一挙一動に振り回されてしまうのかしら)
それがちっとも困ったものではないから不思議だ。
ユリアが火照りをさまそうとしていると、廊下のほうが騒がしくなった。
何事だろうと、身構えたそのとき、扉が勢いよく開かれた。
「──ユリア!?」
「シーファス、様……?」
ユリアは呆然と呟いた。
よほど急いで来たのか、シーファスは荒い呼吸を整えると、乱れた髪をかき上げながらゆっくりとユリアに近づいた。
「いきなり姿が見えなくなってしまったから、何か遭ったのかと心配した」
跪いたシーファスは、そっとユリアの顔を包み込んだ。
「ぁ……いいえ、違うのです。なんでもありません」
間近にあるシーファスの美麗な顔を見て、ユリアはまた自分の顔が熱くなるのを感じた。
「無理はしなくていい。かわいそうに……。慣れない環境で疲れが溜まっていたんだね。気づかなくてごめん」
「ぇ……、きゃっ」
膝の裏と背に手を添えたシーファスは、ユリアの体を軽々と抱き上げた。細身の体のどこにそんな力があるのかというほどしっかりとした足取りで、長いすの上にユリアの体をゆっくりと降ろす。
「透けるような白い肌に朱が差して……ああ、熱があるのかもしれないね」
隣に座り、ユリアの細い首に触れたシーファスは、少し高い体温を直に感じ取って心配そうに眉を寄せた。
ユリアは、首をくすぐるほっそりとした指先に身じろぎもできなくなってしまった。シーファスの冷たい体温は、ユリアの熱を冷ますどころかますます上げていくようだった。
(綺麗……)
染みひとつない白皙の美貌は、間近で見ても遜色ない。
金色に縁取られた長い睫毛がすっと下がると、そこはかとなく色香が漂うようで、ユリアの心臓はどきどきしっぱなしであった。
「コホンッ」
だれかの咳払いが聞こえた刹那、見惚れていたユリアは我に返ったようにパッとシーファスから距離を取った。
「エルファ、有能な侍女なら邪魔するんじゃないよ」
舌打ちしたシーファスは、扉口に立つエルファを睨めつけた。
しかしエルファは動じるどころか、シーファスに噛みついた。
「そういう行為はせめて人払いをしてからにとおっしゃりたいところですが、いくらシーファス王子でもお戯れが過ぎますわよ。初なユリア様をたらし込もうなんて百万年早いですわっ。んもぅっ、オーラントもぼさっと眺めてないで、主人の無作法を咎めてくださいませ。主人の手綱を握るのも家臣の務めでしょうに」
銀の盆を片手で持ったエルファは、開け放たれた扉の傍で所在なさげに佇むオーラントを睥睨すると、ゆっくりと中へと入ってきた。
ユリアは赤みの引かない顔に手を置くと、恥ずかしげに俯いた。
オーラントはいつからいたのだろう。
シーファスしか目に入っていなかったユリアは、彼の存在にちっとも気づかなかった。まるで影のように控えているオーラントが、シーファスの傍を離れることはあまりないというのに。あの印象的な赤毛も、シーファスの金髪の前では色あせてみえるようだ。
「はぁ、おまえなぁ。宮仕えになってもその口の悪さはどうにかならないのかね。アイゼ王妃付きの侍女として過ごした三年間は一体なんだったんだろうな」
ひくり、と頬をひきつらせたオーラントは、遠くを見つめため息を吐いた。
「オーラントこそ、金魚のフンのようにシーファス王子の後ろをついて回っていないで、少しは剣術に励んだらいかが? いつまで経ってもチャラチャラと……シーファス王子が穢れたらどう責任を取るおつもりですの。ただでさえ、あなたのせいでシーファス王子に近づこうとするご令嬢が後を絶たないんですからね」
聞き捨てならないとばかりに、エルファが眦をつり上げて反論した。
オーラントは諦めたように肩をすくめ、シーファスの向かいの席に座った。大きく開いた胸元から日に焼けたたくましい胸元が見え、男らしい色気が漂うが、エルファの目にはそれが好ましく映らなかったのだろう。
手早くお茶の準備をしながら、ギロリとオーラントを睨みつけた。
「ちょっと、オーラント! 何度も注意しているでしょ。使用人が主人の許可なく同席することは禁じられていると。いい加減、礼儀を学んだらいかが?」
「お前のほうこそ、その口やかましさを直したらどうだ。その調子でユリア殿に迷惑をかけているんじゃないか? ユリア殿はどっかのがさつな女と違って、心が優しいからな。言いたいことも口に出せないのだろう」
「まあァァァァァ……っ!」
怒りで頬に朱を走らせたエルファが、乱暴に茶器を置いた。
これまで見たこともなかったエルファの暴挙に唖然としていると、シーファスがこそっと囁いた。
「ふふ、ユリアには言っていなかったね。あの二人、兄妹なんだ。二人の母親が僕の乳母でね、オーラントとは乳兄弟というわけ。だから心配しなくていい。ただの兄妹喧嘩なんだから」
「兄妹……」
言われてみれば、似ている点がいくつかある。赤い髪に整った容貌は、さぞかし宮廷でも目を惹くことだろう。
ずっと三人の仲のよさそうな姿は気に掛かっていたが、幼馴染みだとしたら納得だ。エルファが王妃のことについて詳しかったのも、彼女自身が仕え、そして個人的にも知り合いだったからなのだろう。
「年が近いせいか、僕もエルファを妹のように思っているんだよ。気心が知れている分、気安い仲ではあるしね。君の侍女にと思ったのは、彼女ならばきっと新しい環境で心細い思いをしている君を支えてくれるんじゃないかと思ったんだ。母上付きの侍女だっただけあり、その辺の機微には聡い子だからね」
「信頼なさっているのですね」
「そうだね。オーラントより頭の回転は早いし、仕事には忠実だ」
「おい、シーファス……! 聞こえてるぞっ」
「まあ、さすがシーファス王子。わかって下さっているわ!」
苦い顔をするオーラントとは対照的に、エルファは嬉々として顔をパッと輝かせた。
賑やかな空気に、ユリアの口元に笑みが浮かんだ。
(今日のシーファス様は、とても楽しそう)
シーファスが笑顔だと、ユリアも自然と心が浮きだった。
「それより、僕がしばらく姿を見せなかった間に、ずいぶんな騒ぎになっているね。原因は母上のせいだろうけど。いつもながらに、彼らの心変わりの早さには感服するね。鼻が利いているというか」
「しょうがないさ。だれもが自分大事。そのとき一番ときめいている人物にへつらうのが、アイツらのやり方だ。だが、敵に回すよりはずっといい。だろ?」
「まあね。当分は、オルヴァーク夫人とボンワット夫人が目を光らせてくれているというから、大きな問題は起きないだろう。さすがユリアだね。母上だけでなく、彼女たちの心も掴んでしまうなんて」
シーファスに褒め称えられたユリアだったが、困ったように小首を傾げた。
「私はただ、皆様方のお話を聞いていただけでなにもしていません」
「けれど、ご夫人方は君のことをとても好ましく思ったようだよ。そうでなければ、いくら母上のお願いといえども手を貸してくれるはずがない。きっと彼女たちには、君の内面の美しさが見えていたんだろうね」
「そんな……」
言葉を詰まらせたユリアは、シーファスから視線を逸らすかのように顔を下に向けた。
(私はちっとも美しくなんかない……。私を慕っていてくれたファルファーナ様をずっと妬んで、恨んで……私の心はきっとだれよりも汚れている)
決して自分は清廉な心の持ち主ではないのだ。
いっそファルファーナのように純粋であればよかったのに……。
たとえ外見は醜くとも、清らかな心根があれば、シーファスの傍に堂々といられたのだろうか。
そこまで考えたユリアは、ハッとした。
(私……どうして……)
呆然とするユリアに、シーファスが言った。
「卑下することはないよ。君はただ自分を知らないだけだ。君はだれよりも美しい。ほら、ご覧。月光の光のように淡く、けれど美しく照り輝く髪を。そして、真珠のような白い肌。熟れた赤い実のような小さな唇……可憐で、凛とした声、」
「や、やめて下さい! そんな見え透いた世辞などいりません」
シーファスにだってユリアの仮面はちゃんと見えているはずだ。
醜い、この仮面が。
なのになぜ、あからさまな嘘を吐くのだろう。
ユリアにはそれが悲しかった。本音を隠されるより、罵られるほうがずっとましだったのかもしれない。
「世辞? ああ、言われ慣れていないんだね。ふふ、なんだ。ユリアの美しさに気づいているのが僕だけというのは嬉しいな。みんな見る目がないね。──ねぇ、ユリア。僕は君に嘘は言わない。容姿も心も美しいと思うのは僕の本心。君が僕を癒してくれたあの時から、君は僕の女神なんだ。それだけは覚えていて。ほかのだれも知らなくていい。僕だけの美しい女神」
膝の上でぎゅっと手を握りしめていたユリアに、そっと手を重ねたシーファスは、顔を耳元に寄せると甘く囁いた。
ふわりと香る彼の匂い。
柔らかな金髪がユリアの肌をくすぐった。
ユリアは驚き、身を引こうとしたが、手を掴まれ逃げられなかった。
心臓が激しく鼓動を打ち、彼から香る甘い香水が脳をじんと痺れさせ、まるで心地よい夢を見ているような気分にさせた。
もう少し、このままでいたいと思ってしまう。
そう切ない想いを抱いたそのとき、夢から覚ますような鋭い音が響いた。
パンッと手を叩き、無粋な音を発したのは、先ほどと同じくエルファであった。オーラントは、あちゃぁと片手で顔を覆っていた。
「シーファス王子! 先ほどお戯れは控えるよう申し上げましたでしょ。わたくしの目が黒いうちは、いかがわしい行為は禁止ですっ。ユリア様は純粋無垢でいらっしゃるのですからね。婚約しているのならいざ知らず、ただのお遊びならば手をお出しになりませんようアイゼ王妃からもきつい御言葉をいただいております」
鼻息荒くまくし立てたエルファに、反論しようと口を開きかけたシーファスは、母の名が出るとユリアからパッと手を離し、参ったとばかりに苦笑した。
「こればかりは、僕の一存ではどうにもならないね。ユリアの気持ちもまだ定まっていないのに」
「シーファス様……」
「ああ、違う。ユリアを困らせたいわけじゃないんだ。前にも言ったとおり、君が僕を好きになってくれるのをずっと待っているから。それまでは、結婚の話も待ってもらう。たとえどんなに年を取ろうと、ね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったシーファスは、優しく微笑んだ。
偽りなく、心の底からユリアを想ってくれている真剣さが、すっと胸を打った。
けれど、シーファスを見つめていたユリアは、彼の美しい双眸にときおり、憂えた光りが走ることに気づいてしまった。
暗みを帯びた眼差しは、退廃的な色香を醸していたが、どこか痛みを堪えているようにも見えた。
彼は、ユリアがじっと己を心配そうに見ていることに気づいてか、困ったように微笑んだ。
「ごめん……ユリア」
「え……?」
呟きをうまく聞き取れなかったユリアは、問い返そうとしたが、彼の目が拒絶しているのを悟ると、大人しく口をつぐんだ。
だが、小さな不安が、一滴の墨となってユリアの胸に広がったのだった。




