その二
その後、お茶会の時間までゆったりと過ごしていたユリアは、大聖堂から聞こえてくる鐘の音に耳を傾けた。重々しいけれど、邪を払うような澄み切った音色が、王都を包み込んでいく。
刺繍をしていた手を止め、鐘の音を数える。
一、二、三……。
九回を数えたところで、そばで同じように刺繍をしていたエルファが声を掛けた。
「ユリア様、そろそろお茶会の時間ですわ」
「ええ、そのようね」
先ほどまで頭上高くあった太陽が、ほんの少しだけ傾いていた。のんびりしていたら遅れてしまうだろう。
籠に、まだ刺繍が途中の布を入れると、ユリアはエルファの先導で、白薔薇の集いが開かれている中庭へと向かった。
晴れ渡った空に白い雲がたなびき、お茶会にはもってこいの天候であった。
離宮から中庭までは少し時間がかかった。手入れの行き届いた薔薇園を抜け、大理石で造られた噴水の横を過ぎると、緑の絨毯の上に四季の花が咲き乱れていた。風にあおられ、ひらりひらりと花弁が舞う。
幻想的な花吹雪が舞い踊る奥に、薄布の天幕に仕切られた場所があった。照りつける陽射しを遮るかのように、白亜の建物を覆っていた。その平たい建物の側には、十人ほどの侍女が畏まって立っていた。
すでにユリア以外の招待客は集まっているようだ。
ちょうど出入口となる部分の布は両端に留められていたため、中の人たちがよく見えた。
「あら、皆様お集まりのようで……。ユリア様、白のドレスをまとった方が、アイゼ王妃様ですわ。まずは、お教えしたようにアイゼ王妃様にご挨拶を。そうすれば、王妃様がユリア様を皆様方にご紹介くださいますわ」
出遅れたことを知ったエルファは、失態とばかりにため息を吐くと、ユリアに囁いた。
「わたくしは、ほかの使用人と一緒に側に控えておりますから、困ったことがございましたらすぐお呼びくださいませ」
「ええ、ありがとう、エルファ。あなたが一緒でないのはとても不安だけれど……」
「アイゼ王妃様はお優し方ですし、今回いらっしゃるお二人は、少々クセはございますが、悪い方ではありませんわ。なにしろ、王妃様の長年のご友人でいらっしゃいますからね。口さがない噂を鵜呑みにするような方々ではありませんわ」
「噂――?」
「あ、いえ……ささ、いってらっしゃいませ」
ユリアの問いかけを避けるかのように、エルファは無理やり笑みを作ってユリアをせき立てた。
エルファの言葉に背を押され、ユリアはゆっくりと建物に近づいていく。
すると、ユリアに気づいた侍女の一人が、出入口にある階段を上ると、王妃に耳打ちした。
ほかの人たちと談笑していた王妃がゆっくりと顔をユリアに向けた。彼女は、仮面姿のユリアを見て眉を潜めることなく、優しげな笑みを浮かべた。
「あ、あの。お初にお目にかかります。ユリアと申します。本日は、このような場所にお招きいただき嬉しく存じます」
階段の前まで寄ったユリアは慌ててドレスの裾を摘むと、ぎこちない所作でお辞儀をした。
相手はこの国の王妃なのだ。失礼があってはならない。
緊張で胸が締めつけられそうになった。
半月前まで、王妃と対面できることは思いもよらなかっただろう。
「まあ、そんなに緊張しなくてよいのよ。ここには、不躾な視線などありはしないのだから。ほら、いらっしゃいな。あなたに会えるのを心待ちにしていたのよ。なんといっても、色恋沙汰からは遠ざかっていたあの子が連れ帰って来たんですから。ようやく人並みの感情を抱くようになったのかと嬉しく思ったものよ」
王妃自ら隣の椅子を引き、戸惑いながら階段を上がってきたユリアを無理やり座らせた。
中は思ったより広く、五本の支柱によって建物は支えられていた。中央に置かれた猫足の優美な円卓と椅子が上品だ。さりげなく飾られた生花や装飾も、心地よい空間づくりに一役買っていた。
外で控えていた侍女がすぐさまユリアのために温かいお茶を注いでくれた。香り高い葉の匂いが鼻をくすぐる。
ほんの少しだけ気持ちを落ち着けたユリアは、王妃に視線を移した。王妃というと近寄りがたい硬質な雰囲気があるのかと思っていたが、アイゼ王妃はどこか親しみを感じる空気をまとっていた。
シーファスにどことなく似ているだろうか。
金髪に紫の双眸というのは、まるきり同じだ。けれどシーファスよりもずっと線が細く、華奢だ。もうすぐ四十になるというが、年を感じさせない若々しさがある。少女のようにきらきらと輝く瞳のせいだろうか。
藍色の飾り気のないドレスは一見地味に見えてしまうけれど、アイゼ王妃は上品に着こなしていた。装飾品といえば、大粒のダイヤの首飾りがあるだけだ。それでも、胸元を大きく開いた真っ白な肌に、黄金の髪が一房こぼれ落ちているだけで、なんとも華やいだ雰囲気となっていた。
「シーファスとの出会いを聞かせてちょうだいね。あの子ったら恥ずかしがって教えてくれないのだもの。ああ、この際だからはっきりと言っておくけれど、わたくし、陛下と違ってあなたたちの仲に反対ではないのよ。陛下は血筋のよい姫君をシーファスの妃に迎えたいようだけれど、愛のない結婚生活ほど苦痛なものはなくてよ。シーファスは一見、女の扱いには慣れているように見えるけれど、興味のない人には無関心ですからね。政略結婚なんてしてみなさい。孫の顔なんてとうてい拝めないわ。わたくしにも黙って城を抜け出したことは…ええ、許せないけれど、それがあなたと結びつけてくれたのなら小言も我慢しましょう。ああ、本当によかった。シーファスもようやく愛する人に巡り会えて」
「ぁ、あの……」
顔が熱くなるのを感じながら、ユリアは、そっと口を挟んだ。
「残念ながら、私とシーファス様は、王妃様がご期待なさるような関係ではありません」
「まあ! シーファスは、あなたを側室にするつもりかしらっ。離宮に住まわせるからには、生涯の面倒をみるつもりでしょうけれど、正妃をほかにと考えているのなら、一言苦言を呈さないといけないわね。女をなんだと思っているのかしら」
突然、眦を上げて怒り出した王妃に、向かいに座っていた貴婦人がなだめた。
「およしなさいよ、アイゼ。シーファス王子がそんな不誠実な人間でないことはご存じでしょ。それよりも、わたしたちにもそちらの方を紹介してくださらない? いつかいつかと待っていたのに、貴女ったら口を挟む間も与えずしゃべり通しなんですから」
王妃より年上だろうか。目尻の皺が優しげな印象を与える、上品な面持ちの女性であった。干し草色の生地に金糸で薔薇の刺繍を施したドレスをまとい、結い上げた髪の上に、斜めに被った小ぶりの帽子が洒落ている。
「あら嫌だ。ユリア、こちらはアリエチア・ドゥワール・ボンワット侯爵夫人よ。宮殿で困ったことがあったのなら、彼女を頼りなさい。よほど殿方よりも頼りになる知恵を貸してくださるわよ。なんといっても、女性で唯一博士号をお持ちですからね」
「よろしく、ユリアさん。わたしの研究室は、宮殿内にあるのよ。毎日のように入り浸っているから、用のあるときは訪ねていらっしゃいね。喜んでお相手するわ」
「博識なのですね。女性が男性と対等に渡り合えるなんて……」
労働階級ならば、女も男と同じように働くだろうが、学問に秀でている貴族の女性などあまり好ましく思われないだろう。
たとえば、それが労働階級の娘であれば、家庭教師など職はいくらでもあるだろうが、貴族の娘に高い知識は必要ない。男が欲しがるのは、余計な知恵を回さない大人しい深窓の令嬢なのだから。
そう、ファルファーナのような、美しいだけの人形を身分の高い紳士は欲しがるのだ。
「ひと昔なら、女性というだけでオスワッティーニ大学の試験さえまともに受けさせてもらえなかったでしょうね。研究だってそう。人類史上初の発見をしても、手柄はいつも男の人のものよ。けれど、アイゼはわたしの才能にいち早く気づいて下さった。アイゼの推薦があって初めてわたしは女性で初となる博士号を取得できたのよ。これまでの研究に対する功労が認められてね。アイゼは、女性も働ける環境を作りだすことに尽力なさっているの。もっとも、まだまだこの国の男は頭が固いけれど。ほかの国よりずっと遅れているわ。ドゥルダ国では、ついに女性の公主が誕生なさったそうよ。これからは女の時代よね」
「ドゥルダといえば、男尊女卑が酷いと聞いていたけれど」
あら、とアイゼ王妃が目を見開いた。
ドゥルダ公国は、鉱物資源が豊富な国だ。アルトランディアとも国交があり、鉱石を輸入していた。出回っている鉱石の八割はドゥルダのものだと思っていいだろう。
おかげでドゥルダはアルトランディアの半分ほどの領土がないにも関わらず、国民は豊かな生活を送っていた。けれど、根強い男尊女卑により、虐待を受けた女性が耐えきれずに逃げ出すこともあるという。
身分の高い女性ならばそれなりの地位は保証され、扱いもましだろうが、大半は子を産む道具として惨めな生活を強いられているのだ。
「それが、近親婚を繰り返したせいで、男子が産まれにくくなってしまったそうよ。それで、女性でも統治者になれるよう法を変えたらしいわ。なんにしろ画期的よね。噂では、老獪な宰相殿を言い負かすくらい口が達者で、ずいぶん頭の切れる方らしいから。これからはドゥルダも女性が住みやすい国になるんじゃないかしら」
「ボンワット侯爵夫人、ご自分の知識をひけらかすのはいいけれど、少しは客人のことを考えたらいかが?」
ボンワット侯爵夫人の隣で優雅に紅茶を飲んでいた女性が、カップを置くと笑顔で毒を吐き捨てた。
年は、二十半ばだろうか。細面で、豊かな金色の巻き毛が波を打っていた。目鼻立ちはくっきりと整い、猫のような大きな水色の目が、印象的な美しい女性だった。
彼女は、ユリアに視線を向けるとため息を吐いた。
「かわいそうに……。話についていけていないじゃない。ユリア、とお呼びしてもいいかしら。アタクシ、あなたにとっても興味があったの。シーファス殿下が連れてきたのだから、どんなにお美しい方かと思って期待半分、嫉妬もしてましたのよ。だってほら、アタクシ以上に美しい者がこの世界にいて? もちろんいないに決まっているけど」
自信満々に言い切った彼女は、孔雀の羽がついた扇でパッと口元を隠すと、ユリアの顔をしげしげと眺めた。
「それにしてもまあ、奇妙な仮面だこと。仮面舞踏会だったら違和感なく溶け込めたでしょうに。そんな仮面はさっさと外してしまえばよいのに。それともその下にあるのは、とうていみられない醜いお顔なのかしら? アタクシ、ちっとも気にしなくてよ。だって、アタクシの美しさを引き立ててくれるんですもの」
言葉は辛辣だというのに、どこか憎めないのは邪気がないからだろうか。
きっと心根が素直なのだろう。思ったことはすべて口にする人らしく、ユリア以外の二人が顔色を変えているのにも気づかないようだった。
「オルヴァーク夫人、口を慎みなさい。あなたの爛漫さは美徳ですが、時には相手を傷つけることもあるのですよ」
眉を潜めたアイゼ王妃がぴしゃりと言った。
この件に関してはボンワット侯爵夫人も同じようで、オルヴァーク夫人に非難の目を向けていた。
わかっていないのはオルヴァーク夫人ただ一人だ。二人から責められて、大きな目を悲しげに潤ませていた。
「酷いわ……! アタクシの美貌を妬んでいるのねっ」
「まったく、あなたって人は……どうして、そういう思考に行き着くのよ!」
ボンワット侯爵夫人が憤慨するが、オルヴァーク夫人は、怖いと扇で顔を覆ってしまった。
そんな二人を呆れたように見ていたアイゼ王妃が、ユリアに謝った。
「ごめんなさいね。彼女も悪気はないのだけれど」
「いいえ、私は気にしておりませんから」
「嘘おっしゃい。気にしない者などいるものですか」
アイゼ王妃はそっとユリアの仮面に触れた。
「どんな思いをしながら毎日を過ごしてきたのか、考えるだけで胸が痛みます」
「王妃様……」
アイゼ王妃は知っているのだろう。この仮面が取れないことを。
それでも不気味に思うことなく、こうして触れてくれた。そんなささいなことがユリアには死ぬほど嬉しかった。
「わたくしの息子は、少々性格的に難はありますが、とても優しい子です」
「はい」
「けれど、同情だけで他人の人生までも背負うことはしませんよ。きっとシーファスはあなたの何かに惹かれたのでしょう。──そこまでシーファスが入れ込んでいるのなら、逃してはいけませんわね」
ふわりと微笑む顔は聖女のような清らかさだったが、台詞はさすがにシーファスの母であった。きらりと瞳を光らせたアイゼ王妃は、ユリアが戸惑っていることに気づくと、茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「こういう繊細な問題に部外者が口を挟むことはよくないでしょうけれど、わたくしはシーファスを応援していてよ。あなたがわたくしの本当の娘になることを楽しみにしているわ」
「……っ」
ユリアは思わず唇を噛みしめた。
(シーファス様もエルファも、王妃様も……みんな優しすぎるわ)
ユリアが王妃に相応しくないことなんて、考えなくともわかることなのに。
(もう少しだけ……ここにいさせてください)
このあったかい空間をユリアは失いたくなかった。




