序章
寂れた農村の端に建つ小さな家で、今、一つの命が失われようとしていた。
「……っ、不甲斐ない母様を、許してね……」
薄い布一枚の上に横たわった母親が、小刻みに震える手を伸ばす。
年を重ねても少女のような若々しい母の姿がだれよりも自慢だったのに、こうして寝込んでいる今は面影さえもない。やつれ、青ざめた顔からは生気が失われており、口を動かすのも辛そうだった。
まだ五歳になったばかりの幼い娘は、大きな蒼い目に涙を堪えながら母の手を両手でぎゅっと握り返した。ひんやりとした手。まるで陽隠れの季節に、川で洗濯をしたあとのような手の冷たさだった。
大人より体温の高い幼子の小さな手は、母の手を温めようと懸命に包み込み、母がいつもしてくれたようにふぅっと息を吹きかけた。けれど、ちっとも温かくならない。透けるほど白い肌は、青白くくすみ、血の気が通っていないかのようだった。
今はちょうど炎砂の季節。
けれど。強い陽射しも、蒸し暑い空気も、決して母親の体を温めてはくれなかった。
「おまえに、辛い運命を背負わせてしまうね……」
苦しげに顔を歪めた母親は、力なく横たえていたもう一方の手を動かした。薄汚れた毛布の中に差し入れられた手が、ゆっくりと引き出されると、その手には、真っ白な仮面が握られていた。
「かぁ……さん?」
飾りのない、ただ両目がぽっかりと空いただけの不気味な仮面をじっと見つめる幼い娘に、母親は弱々しく笑みを浮かべた。
「さあ、涙をお拭き……母様に笑顔をみせておくれ」
母親の願いに、幼い娘はごしっと手の甲で、落ちそうになった雫を拭うと、にぱっと精一杯笑った。
少しばかり痛々しい笑顔に、それでも母親は嬉しそうに眦を落とした。
「……どんな目に遭っても強くおなり。心を、強く持つの」
「つよく……?」
「だれよりも美しく、気高い娘……わたしの、自慢の子……」
母親は手に持っていた仮面を幼い娘にそっと被せた。
「どぉしてかぶるの?」
「おまえを護ってくれる。もし、おまえの運命が開かれるときが来たのなら、そのとき、仮面は…外れる、よ……」
そう力なく呟いた母の手が、支えを失ったかのように床に落ちた。
「かぁ、さん?」
仮面をつけたままの幼い娘が、目を閉じ動かなくなった母親の薄い体を必死に揺らした。けれど、軽く叩いても、いささか乱暴に揺すっても、ぴくりとも動かなかった。
じわじわとこみ上げてくる恐怖。
声を発しない母の姿が、なんだかとても怖かったのだ。
彼女には、まだ母の『死』が理解できていなかった。
幼い娘がただ怯えていると、外が急に騒がしくなった。閑静な村では珍しく、荒々しい男たちの怒号が響き渡っていた。
幼い娘は動かない母にすがりつき、男たちがいなくなるのを待った。
「おい、ここだ!」
「ティーン! ティーンはいるか!?」
母の名を声高に叫ぶ男の声に、幼い娘は弾かれたように顔を上げた。
狭い家の中に、乱暴に戸を開けた男たちがなだれ込んでくる。
一瞬、びくりと身を竦ませた幼い娘は、すぐに最初に入ってきた男の元に駆け寄った。
「おねがい! かあさんを助けて!」
「──お前は?」
仮面を被った幼い娘を不審者のように見下ろす男の眼力は鋭かったが、母の容体を気にする彼女は気にも留めなかった。
「ユリア。かあさんの娘よ」
「娘……お前が……?」
身なりのいい男は、彼女を不快げに見下ろすと、ティーンはどこだと訊いた。
幼い娘は嬉々として男を奥の部屋へと案内した。
茅葺きの平屋には、籠と瓶が数個にすり切れた布、干した野草などがあるだけで、調度品は一つもない。質素な部屋を無遠慮に見回した男は、後ろにいる恰幅のよい男たちに待つよう命じた。
「! ティーン……っ。なぜ──……、こんな……っ!」
薄い敷布の上に横たわる女を目にした男は、一目で命が果てたことを知ったようだった。
呆然と立ちすくんだ男の体がわずかに震えた。記憶する姿とは、あまり違う変わり果てた姿にさすがに言葉を失ったようだった。手を触れるのもためらうほどだったのか、伸ばしかけた指先をきつく握りしめた彼は、男たちを呼びつけた。
「──丁重に埋葬してやれ。勝手に行方をくらましたといっても、私の側室だったのだからな」
「はっ、畏まりました」
男たちが冷たくなった母親に触れようとした瞬間、幼い娘は猛然と食ってかかった。
「なにするの。だめ! かあさんを助けてよっ」
「やめないか」
指示を出していた男が幼い娘の腕を掴んで引っ張った。
「いたっ。はなして! はなしてったらっ」
「なんと気の強い……。ティーンはたおやかな娘だったというのに」
「……かあさんを知っているの?」
「あぁ。知っているさ」
「おともだち?」
幼い娘が無邪気に訊くと、一瞬男の顔から表情が消えた。
「私を知らないか。まあ、無理もない。お前の母は、生まれて間もない娘を連れて姿を消したのだからな。いいか、よく聞け。お前がティーンの娘であるのならば、私はお前の父親ということになる」
「ちち、おや……」
「ようやくティーンの居場所を突き止めて足を運んでみれば、薄気味悪い子供だけだったとは。ふんっ、仕方あるまい。お前を伯爵家の一員として迎えてやろう。光栄に思え」
目を細めた男は、困惑している彼女に向かってそう言い放った。