表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

黄昏

 決戦も間近になり、カルナは沐浴をしていた。

 毎日、日が一番上を渡るとき。自分の父であるスーリヤへと、カルナは祈りを捧げているのだった。

 そしてそれは誓いでもあった。


「ふむ、そこな男よ、少しいいかね」


 声をかけられる。カルナが振り返ると、そこには一人のバラモン僧がいた。


「私は欲しいものがあってね。君にしか持っていないものだ」

「俺にしか?」

「その黄金の鎧だよ」


 カルナは目を剥いた。多くのものを請われてきたが、この黄金の鎧を求められたことはついぞなかった。

 バラモンの願いは断らないと決めていたカルナだったが、このときばかりは首を横に振った。


「生憎だが。この鎧は俺と一体になっている。それ以外ならいくらでもやるが……」

「カルナよ、私はその鎧に用があるのだ」


 バラモン僧の瞳を、カルナは見た。その深淵に飲まれそうになる。

 神々しく、荘厳で。激しくも、鮮烈で。

 そして悟る。この者は人ではない。自分とは違う者だ。

 すなわち、神。

 カルナはバラモン僧の前で膝をつく。そして短剣を取り出すと、鎧と皮膚の境に突き立てた。

 バラモン僧はその光景を、目を見開いて見ていた。

 しばらくし、全身から血を流しながらも、カルナはなおも微笑む。そして剥ぎ取った鎧を献上したのだった。


「これがお前の望んだものだ、インドラよ」

「わかっていたのか」

「ああ」


 インドラは天に鳴り響く雷の神で、数多いる神々の王である。スーリヤの子であり、人であるカルナが膝をつくのは道理だった。


「我は子を守るためにここへ来た。お前はわかっているだろう、アルジュナだ。そしてこの鎧は、アルジュナとの戦いには必要なものであったはずだ。にもかかわらず、どうしてそう容易く渡すことができるのだ」

「それは当然だ。偉大なるインドラの願いを断れるほど、恥知らずではない」


 それを聞いて、インドラは思わず己を恥じた。息子の可愛さのあまり、人の戦いに割って入ったことを。姑息な手段で、この高潔な英雄から、命以上のものを奪ってしまったことを。

 カルナは輝きを失ってしまった。父である太陽神スーリヤから授かった光輝の鎧をインドラは奪ってしまったのだ。カルナを不死身たらしめていた、その輝きを。


「いくつか問いたい、正直に答えてくれ」

「いいだろう。俺の答えで満足するならば」

「お前は戦いをやめる気はないのか。死なすにはあまりに惜しい」

「肯定だ。鎧がなくとも、俺は戦わねばならない。敗北は父の威光と、俺を信じる者たちの面目を汚すことになる」


 カルナは毅然と答えた。それが当然であるかのように。

 インドラは次の問いを出した。


「カルナよ、ドゥルヨーダナの行いは正しくない。お前は良しとするのか、奴を」

「肯定だ。確かに、ドゥルヨーダナは厚顔な男だ。心もお世辞にも広いとは言えない。多くの誹りを受けるべき行いをしてきただろう。だが、それによって俺を助けた恩はなくならないし、俺は奴の友であることを約束した身だ。その約束を反故にすることはできない」


 カルナは言った。如何に己の友が間違えようと、己は正しいことをし続けると。如何なる理由があろうと友を裏切ることは間違いだと。ここで裏切ることこそが恥ずかしいことであると。


「それに、どうしてだろうな。奴の甘さが嫌いではないのだ。強き者を僻みながらも、弱者を見捨てられない甘さ。己のためとしながらも、誰かに手を差し伸べてしまう……。奴のその、自らの内にあるものから動くことが、俺には温かく感じるのだ」


 それは心と言うべきものだ。矛盾しているとしても、動かずにはいられない。

 クシャトリヤの高潔さも、バラモンの清貧さでもなく。

 パーンダヴァの言う正しさにはない、温かさがあるとカルナは言った。

 

 間違っていたとしても、己を信じ動くこと。

 そんな人としての瑕疵こそが、心なのだ。


 インドラはその姿に、感服を覚えた。

 人として超越していながら、人として人を見続けている英雄。神の子でありながら、あらゆるものを平等に見ている。熱い太陽の子でありながら、温もりこそが人だと言うのだ。


「カルナよ、望むものをやろう。我はお前から、多くのものを奪った。見返りをやらなければ、我の名誉に関わる。それに……このまま、死なせるのは惜しい」

「ならばインドラよ、貴方の雷を俺に授けよ」

「シャクティか」


 シヴァはアルジュナに、やじりを授けた。パーシュパタの名付けられたそれは、この世を幾度も焼くほどの威力を持っている。神々が授けたのはそれだけではない。ガーンディーヴァ、神の御車、様々な知識……。

 カルナにもまた、一手を授けなければならない。でなければ、インドラの名折れであろう。

 なにより、己の息子にも授けなかった最強の槍だ。しかし、カルナであれば、きっと使いこなせるだろう。

 尤も、カルナの黄金の鎧とは到底釣り合うものではない。であっても、己の授けられる最も価値のあるものだった。


「良いだろう。この槍を授ける。この槍は裁きの槍である。神でさえ、等しく貫くものだ。しかしこの槍は、人が使うにはあまりにも強大で、そしてあまりに軽い。本来、力とはそういうものだ。力を律するために正義はある。此処ぞという時に使うのだ、カルナよ。そして槍を使えば、一人でにこの槍は我の元に帰ってくる」

「心得た、インドラよ」


 槍を授かったカルナ。インドラと別れ、自陣に帰還する。

 多くの者はカルナが鎧を失ったことを嘆いた。ただ、パーンダヴァはそのことに大きな安堵を覚えた。

 人は理解できまい。例え鎧がなくとも、カルナには燦然とした輝きがまだ残っていることを。それを知るのはインドラと、クリシュナのみであった。



 パーンダヴァとカウラヴァの決戦が始まった。戦いはクルクシェートラという聖地で行われることとなった。両者は何度も衝突し、幾つもの命が散っていった。

 カルナはカウラヴァの尖兵として戦い続けた。鎧を失ってなお、彼の武勇と存在感は健在だった。

 そんなカルナの前に、一人の羅刹が現れた。

 ガトートカチャ。パーンダヴァの次男、ビーマの子である。

 戦いは夜に起こった。ガトートカチャ率いる羅刹の軍隊と、カルナが率いる軍隊が衝突した。

 羅刹とは地獄よりの使者である。魂の淀んだ、破壊の存在だ。彼らの頭には己の飢えを満たすことしかなかった。

 その中でも羅刹と神の子、二つの血を持つガトートカチャは圧倒的な力を持っていた。

 神通力で以って空を飛び戦場を空から支配していた。上空から滑空してカルナを襲う。また、幻術でさえ操ってみせるガトートカチャは、カウラヴァの軍隊を惑わした。

 しかし、カルナは圧倒する。羅刹の力が上がる夜間であっても、カルナは動じることなく、その弓で羅刹の軍隊を相手取った。

 天へと放たれる矢は光を放っていた。例え夜であっても、カルナがいる限りそこは太陽が昇っているのだ。羅刹たちはカルナの存在に恐れおののいた。

 やがて羅刹たちは、戦い方を変える。大きく暴れまわり、カルナの周りにいる兵士たちを巻き込んで戦うようになった。犠牲を少なく済ませるためにカルナは奮戦したが、それも叶わない。


「クリシュナめ、謀ったな」


 ガトートカチャは暴れる。カルナはその気配に異様なものを感じた。

 強い。己の弓矢は通じず、師より授かった奥義も効かなかった。

 だが、理解する。あれは鬼の域を超えている。鬼神さえも超えて、神に至ろうとしているのだ。己一人で理を敷いているのだ。それも神通力のみではなく、ただの力によって。

 ガトートカチャの武勇の到達にカルナは畏敬を示すのと同時に、クリシュナの入れ知恵であろうと知る。使わせたいのだ、槍を。シャクティを。神すらをも殺す一撃を。

 しかし、シャクティを使ってしまえばカルナはアルジュナに勝つための手がなくなってしまう。それこそがクリシュナの狙いだった。


「だが、俺は為すべきことを為す」


 カルナは躊躇わなかった。己は王であり将である。であるならば、味方の軍を守らなければならない。兵士たちを生かして帰らなければならない。アルジュナとの決着とて個人の都合にすぎないのだから。

 何より、助けを請う声が聞こえる。カルナへ救いを求める声が。


「インドラよ、槍をこの手に」


 カルナの手に槍が握られた。

 それは雷だった。ほとばしる光だった。大きな熱だった。

 神すらも貫く一撃。この槍からは破壊神シヴァも、創造神ブラフマーも、繁栄神ヴィシュヌも、そしてこの槍を授けたインドラでさえも、逃れることはできない。


「天を駆ける雷霆よ、悪神、悪竜、悪鬼を穿つ裁きの光よ」


 光が強くなる。眩いばかりの輝きはより大きく、より鋭くなっていった。

 正義でもなく、真実でもなく、ただ己の中にあるもののために振るわれる槍。カルナは大きく振りかぶった。


「暴威で以って我が同胞を救え。行くぞ、シャクティ」


 カルナの手から槍が放たれた。

 まっすぐに飛んだ光は、空を舞うガトートカチャを貫く。

 それだけではない。ガトートカチャを中心に、光の球が空を包んだ。

 夜でありながら、昼よりも明るい。人々は思わず目を閉じた。

 次の瞬間には、羅刹たちは消えていた。鬼という人外の軍隊は消滅したのだった。この日はカウラヴァの圧倒的勝利となったのだった。

 人々は喜んだが、カルナは空を見上げた。

 勝利のためなら、自軍の将の子を平然と犠牲にしてみせるクリシュナと、それを容認するアルジュナ。正義は確かにあり、その目的を達成するためならいかなる手段も用いるのだろう。

 それは正しい。認めよう。正義とは、真実とは、如何なる方法でも示さなければならぬ一つの規範だ。そして彼らの示す規範は正しく、その規範からカウラヴァは外れている。

 で、あるならば。カルナは戦わねばならない。例え神の槍を失っても、この手で必ずや倒す。そう誓ったのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ