剣の血族(3)
剣評会には出席しないつもりだった。小領主が顔を出して面白い場ではなかったし、姿をちらりとでも見せれば、喧しい女どもがオラフに無理矢理にでも武器を持たせようとするだろう。
「父上、剣評会を見物しに、新都まで参ろうかと思うのですが……」
娘のリズィーがそう申し出て来たのは、剣評会が催される五日前のことだった。オラフの小領から新都までは馬車で五日以上かかる。もちろん身軽に単騎で駆ければ半分程度の時間で到着するだろうが、それにしても急な話だった。
「剣評会? あの遊戯会を見に行きたいとは、お前らしくないな」
「私もそろそろ成人となります。剣評会は演武の観賞とは他に、氏族間の交流が主な活動と聞いております。父上の娘として恥ずかしくない振る舞いを覚えねばと思いまして」
口実だった。リズィーは社交の場を好んでいなかったし、それなりに振る舞いは洗練されていた。リズィーは嘘をついている。
「別に剣評会を見に行くのは構わない。しかし嘘をつくのはやめろ」
「嘘などついておりません」
「俺には分かる。まさかお前、剣評会に出るつもりか?」
リズィーは押し黙った。図星のようだった。オラフは肩を竦めた。
「お前も知っているだろう。剣評会に出ても見世物にしかならんぞ。特に隻腕のお前は格好の話の種になるだろう」
「はい」
「しかもお前、演武などできるのか。決められた型をなぞるだけではない。古式に則った繊細な動きが要求される。お前には向かない」
「だからこそ……」
「なに?」
リズィーはぐっと唇を噛み気合いを入れてから、低い声で訴えた。
「だからこそ、この肌で感じたいのです。今はどんな技でも吸収したい」
貪欲な奴だ。それとも焦っているのか。オラフは嘆息した。
「……分かった。行くがいい。しかしイングリッドを連れていけ。あいつは新都出身だからな……。何かあれば力になれるだろう」
イングリッドはオラフの使用人だった。戦士の氏族の生まれではあったが、才能に恵まれず、成人の儀の折に戦士としての道を棄てた。
戦士の氏族に属する者は、一六歳になったその日の夜に、自らが戦士となるか否かを決定することになる。リズィーも数か月後にはその選択を迫られることになるのだが、本人は戦士として生きることを決意しているようだった。剣評会に出たいというのも、逸る気持ちを抑え切れないことの証左であろう。
「イングリッドさんをですか……」
「不服か?」
「私は、あの人が少し苦手です……」
確かに相性が悪そうな二人だ。しかしオラフにとってこれ以上ない人選だと思えたので、表情を僅かに曇らせるリズィーに容赦なく言いつける。
「嫌なら新都行きはなしだ。イングリッドには俺のほうから話をしておく。支度をしてこい」
「は、はい」
リズィーは深々と頭を下げて退出した。オラフはその後ろ姿を見送ってから、イングリッドを呼ぶように使用人に告げた。
料理番であるイングリッドは、仄かに良い匂いを纏いながらオラフの前に現れた。胎内を共にした自らの生まれ持っての武器を包丁代わりに使っているというなかなか恐ろしい発想をする女だったが、人当たりの良い性格で常に笑顔を絶やさなかった。
「お呼びでしょうか、領主様」
「イングリッド。お暇をやる」
「えっ」
イングリッドは絶句した。オラフは誤解があったようだと察した。
「すまん。休暇をやるという意味だ。新都までリズィーを連れて行ってくれないか」
「姫を――失礼、リズィー様をですか」
「剣評会の見物をしたいとのことだ。急な話だが」
「本当に急な話でございますね。確かに今から行くとなると、前夜祭に間に合うかどうか……」
「頼まれてくれるか」
「もちろんでございます。出立は今日の内のほうがよろしいかと存じますが」
「そうしてくれ」
「はい。失礼致します」
そう言ってイングリッドは辞去した。使用人の中ではリズィーと最も歳が近い。仲良くなってもおかしくないものだが、そもそもリズィーと親しい人間というのが皆無だった。
いつからあんなに苛烈な性格の女になったのか。生まれつき剣に並々ならぬ執着を見せていた。最近は更に拍車をかけて剣の鬼となりつつあるが、贔屓目に見ても、リズィーの剣術の腕前は同年代の男子の水準を僅かに上回る程度。大成することはなさそうである。
娘が報われることはあるのだろうか。リズィーには扱うべき武器がある、しかしそれを御することは未来永劫ないだろう。館の最奥に安置されたリズィーの剣は、成人の儀を目前にしていよいよ本然のカタチを現出している。
ふと、オラフは妙な直感が働いて、立ち上がった。ゆっくりとした足取りで廊下を歩き始める。
途中でリズィーと行き会った。相変わらずの無表情だが、少し驚いたようにも見える。
「父上、どこに行かれるので?」
「恐らくお前と一緒だろう」
「……そのようですね」
それきり会話もなく、父娘は並んで歩き始めた。
やがて辿り着いたのは館の最奥、使用人の間では開かずの間として知られている部屋だった。しかし施錠等はされておらず、入ろうと思えば誰でも入ることができる。
部屋に入ると腐敗臭がした。しかしそれは気のせいだとオラフは知っていた。例の魔剣が――アビーの胎内から出てきたリズィーの魔剣が、近付く者の精神を穢そうと邪悪な波動を送ってきている、その影響に違いなかった。
それは部屋の中央に鎮座していた。特注の台座と鞘に収められたその剣は、自らも青く発光し、窓もない深闇の部屋の中で自己の存在を主張していた。
「父上、抜いてもよろしいですか」
リズィーが言う。オラフは頷いた。
「好きにすればいい。それはお前の剣なのだから」
リズィーは進み出てその剣の柄を掴んだ。剣は微動だにしなかったが、リズィーの額にぶわっと脂汗が浮かんだ。
しばらく掴んだままじっとしていたが、やがて手を離した。台座の上で大人しくしている魔剣は、リズィーを励ますかのように青く明滅した。
「どうした、リズィー。抜くのではないのか」
「父上……。私がおかしいのでしょうか。この剣の柄を握るたびに、私は見たことのない異国の地の映像が頭の中を駆け巡るのです。見たこともない動植物、人種、そして戦場――猛々しい太古の記憶が訴えかけてくるような、そんな苦しみに襲われるのです」
オラフはその魔剣を抜き放ったことはなかった。近づくだけでも精神が冒されそうであったし、出生時を除いて持ち主以外の者が剣に触れることは禁忌とされている。
「俺に聞くな。俺は何の武器も持たない不具の戦士だからな……。道中イングリッドに聞いてみたらどうだ」
「あの人にですか……。しかし」
「心配せずとも、あの女は口が固い。お前が自らの得物をまともに扱えないと知っても、それが意味することを察し、ぺらぺら他人に喋ることはないだろう」
リズィーはかぶりを振った。
「いいえ、私が自らの得物を扱えないことは、公然の秘密といったようなものでしょう。誰も彼も察しているはずです。私が懸念しているのは、つまり……」
リズィーの声がか細くなった。一瞬だけ年相応の少女の顔になったように思えた。
「……イングリッドさんは私の話を迷惑に思わないでしょうか。このような相談事をされて困らないのでしょうか」
オラフは少し意外だった。剣客と見れば稽古を申し込むくらいだから、図太い神経をしていると思っていたのに、そんな小さなことを気にしていたのか。あるいは剣を持っていないときはこれが彼女の本来の性格なのかもしれない。
「迷惑に思うかもしれないし、困るかもしれない。だが、それが何だ? 奴は俺が雇った使用人だ。少しくらい困らせても構わない。どうしてもあの女が不当な扱いだと感じたなら、俺が手当を出せば済む話だ」
「そ、そういうものなのでしょうか……」
「そういうものだ」
リズィーはしばらく黙り込んでいたが、やがて頭を下げた。
「ありがとうございます。では、支度をして参ります」
そう言ってリズィーは部屋を出て行った。オラフは今度はその後ろ姿を見送らなかった。代わりにじっと魔剣を見る。鞘に収まっているというのにその魔性の刃の切れ味にぞっとして距離を置きたがる自分がいる。
リズィーは幻覚に惑わされて困っているようだが、それは持ち主以外の人間が他人の得物に触れたときに起こる、拒絶反応に違いなかった。戦士の血族は同じ母の腹の中で育った兄弟とでもいうべき得物を生まれながらにして持つ。その得物は遣い手に絶大な力を貸し与えると同時に、正当な遣い手でない者にはその使用を禁ずる為に幻覚を付与する。
しかしあの剣は、間違いなくリズィーと共にアビーの腹から出てきた正当なる得物。リズィーが幻覚を見るのは本来ならおかしい。
まさか。いや、そのはずはない。しかし。
オラフはその剣に近付いていた。その柄を掴みたかった。もしや、これは俺の剣なのではないか? 根拠などない、理屈も通らない、しかしその思いがオラフの胸を貫いていた。
懊悩した。しかし触れるのが怖かった。中年になっても未だに捨て去れないのか。オラフは自らの未練を嘲笑った。戦士として、剣士として、不完全な自分は未だに救済される日を待ち望んでいるというのか。
*
オラフが初めて戦場に立ったのは一六歳の夏のことだった。
当時最強を誇った皇剣隊の末席に入り、敵兵を斬って斬って斬りまくった。幸運も重なり、敵軍の高官を討ち取り、戦功上位となった。
しかし誰も褒めてはくれなかった。何かの間違いではないかと噂された。いつの間にか死んだ同胞から戦果を奪い取ったのだという根拠のない噂が広まった。それを信じる者は少なくなかった。
「お前ごときが戦功を挙げられるはずがない」
「お前ごときが剣の血族を名乗るな」
「お前ごときに討たれた兵が可哀想だ」
「お前ごときが……」
「お前ごときが――」
「お前ごときが!」
誹られ、詰られ、それでもオラフは戦場に立ち続けた。やがてその実力が本物であると誰もが認めざるを得なくなったとき、罵倒や嘲笑は畏怖へと変わった。
「あの男は剣の鬼だ。あの男自身が魔剣なのだ」
「血に飢えている。あの男の目を見れば分かる」
「狂っている――狂っている!」
オラフは戦場に立ち続け、そしてその戦功を認められ、小さいながらも領土を分け与えられた。だがオラフにとってこれは恥辱以外の何物でもなかった。普通の剣士が同じだけの戦功を挙げれば、この数倍、数十倍の規模の私領を与えられたはずである。
オラフは紛れもない剣の血族だった。両親ともに剣士であった。それなのに、オラフはこの世に生まれ持ったとき、自らが扱うべき武器を持たなかった。戦士の血を引く者ならば、まず起こり得ない珍事だった。
オラフの母は不義を働いたと見做され、一族を追放された。父は妻を寝取られた男として精神を患い、オラフが生まれて間もなく戦場で名もなき雑兵に討ち取られた。オラフは孤独だった。孤独だったゆえに剣に打ち込み、剣の鬼となった。
実力で勝ち取ったものは僅かな私領。もし自分にも自分だけの剣があったなら。周りの人間は手放しに称賛してくれただろうに。剣の血族として恥ずべき過去を持つオラフは、出世の道など最初からなかった。
だがアビーは言ってくれた。
「貴方以上に剣士らしい剣士を、私は知りません」
そして膨らみ始めた腹を撫でながら、
「きっと私たちの子供は剣を抱えて産まれてきます。そうすれば、あなたも紛れもない剣の血族であると証明できるでしょう?」
オラフにとって、それは呪縛から解き放たれる魔法の言葉であった。そして事実、生まれてきたのは剣に魅せられた娘、リズィーであった。
アビーは死んだ。その代わり、オラフは救われたはずなのだ。あの瞬間に自らの出生に対する疑念は粉々に打ち砕かれたはず……。
だが実際には依然滞留していた。この世界への恨み、憎しみ、憤りといった、禍々しいものが。
オラフは苦しみを押し殺す為に稽古場まで向かった。そこで汗を流していた数人の若者を滅茶苦茶に打ちのめした。
「どうした、リズィーならまだ向かってくるぞ」
しかし若者たちは逃げ回った。稽古場にはオラフだけが残った。息一つ乱していなかったが、心は違った。疲弊し、狼狽し、未熟な自分を呪いたかった。やがてリズィーとイングリッドが出立したという報せが来た。オラフはそれを淡々と聞いていた。