剣の血族(2)
稽古場でリズィーが汗を流している。それをぼうっと中庭から眺めていた。
枯葉がつむじ風に巻き込まれてオラフの足元をぐるぐると回っていた。風の強い日だった。曇天に僅かに切れ込む晴れ間がまるで稲光のようだった。空を低く飛ぶ猛禽の鳴き声が館全体に響き渡っている。
どうも胸騒ぎのする日だった。そういうときは娘のように稽古に打ち込めばいいのだが、稽古着に着替えて木剣を持とうものならリズィーが飛んできて殴られに来るので気が進まなかった。一五歳の少女である娘は生傷が絶えず、しかもその傷のほとんどがオラフのつけたものだった。
「暇そうだな、兄上」
男の声がした。オラフに弟などいない。だが彼のことを兄と呼んで慕う人間が一人だけいた。
オラフは振り返った。渡り廊下をがに股で進む巨漢が、笑顔でこちらに手を振っていた。
亡き妻の兄であるアンセルがそこにいた。血縁上アンセルはオラフの義兄ということになるのだが、オラフのほうが一〇歳ほど年長であったし、積み上げた戦功は比べ物にならなかった。
「お前ほどではない。戦場にも出ずに諸国を遍歴しているらしいな」
オラフは手を振り返す代わりに笑みを浮かべた。アンセルは中庭に降り立ち、無頼の剣客らしい猛々しい歩みで近付いてきた。
「一応、傭兵稼業は続けているよ。戦場で雄叫びを上げるより、のんびり隊商の護衛でもしているほうがおれの性に合っていると思うんだ。良い小遣い稼ぎになるし……」
「お前、燕剣隊の長だろう。少しは腰を落ち着けたらどうだ」
アンセルはオラフの隣に立ち、稽古場で躍動するリズィーを見つけると、顎に手を当ててにやりと口元を歪めた。
「燕剣隊だって? たかだか二十人程度の剣士隊を束ねたところで何の面白味もないだろう。連中、ろくに実戦経験のないお坊ちゃんばかりだし」
「だからこそお前が指導するのだろう。いざ戦場に立って部下が使い物にならなければ、困るのはお前自身だぞ」
「なあに。おれが二十人分の戦功を挙げればいいだけの話だろう」
こともなげにアンセルは言ったが、大言壮語というわけでもない。実際アンセルにはそれだけの実力があった。それが小隊の指揮官程度に留まっているのは、ひとえに彼のやる気のなさに原因があった。
「そんなことより、兄上、リズィーは来月の剣評会に出席するのか」
剣評会。全く意想外の単語にオラフは咄嗟に返事ができなかった。
「……いや、しない。どうしてそんなことを?」
「だって、リズィーのあの鬼気迫る顔を見ろよ。熱心どころの話じゃない」
確かにリズィーは稽古場を縦横無尽に駆け巡りながら剣を振り回していた。滅茶苦茶な動きをしているように見えて、実際は決められた型を凄まじい速度で反復していたのだが、その表情はまるで親の仇を目の前にしたかのようだった。
「リズィーは最近いつもあんな感じだ。特別なことじゃない」
「マジか。二年前に会ったときより熱に冒されているな。あまり焚きつけないほうがいいんじゃないか」
アンセルの言葉にオラフは苦笑した。
「いや。俺は何も言っていない。成人を間近にして焦っているんじゃないか。己の剣に早く認めてもらいたいのかもしれん」
「あの魔剣にか。それは無理だろう……」
「無理かどうかは分からん」
「だが、兄上、もし兄上があの剣の持ち主だったとして……。御する自信があるのか。おれはないぞ」
アンセルの正直な言葉に、オラフも逃げるわけにはいかなかった。
「どうだろうな。俺には剣を御するという感覚がよく分からん。しかしあれがリズィーの相棒として生まれた以上、可能性がないということはないだろう」
「理屈だな。兄上も分かっているくせに……。あの剣はまさに魔物だよ。どんな剣客も飲み込む魔力が秘められている」
そしてアンセルは気を取り直したように笑った。
「兄上も親バカということかな。もしあの魔剣を御することができれば、十剣匠の頂点にも達することができるだろうな」
十剣匠。剣の血族の頂点に立つ最強の戦士たち。
今のリズィーを見れば、あまりに遠い存在だった。しかしリズィーが持つ魔剣には確かにそれだけの潜在能力があった。
「兄上、成人の儀を終えたら、リズィーも剣士としての道を往くのかどうか決めなければならない。女の剣士など珍しくも何ともないが、片腕の女剣士など聞いたこともない。今の内に諭すのが上策と思うが」
「アンセル……。お前、旅の間に随分と無粋な考えを抱くようになったな。先の道を考えるのはリズィー自身だ。俺やお前ではない」
「誰か良い男を捕まえたほうがいい。あの美貌だ、左腕一本ないと言ったって、大した問題ではないだろう」
オラフが言い返そうとしたとき、稽古場からこちらに視線を向けているリズィーに気付いた。アンセルが手を振ると、汗だくの娘が深く一礼した。
「伯父上! ご無沙汰しております」
「おう、リズィー。熱心だな」
「ご教授頂けませんか」
リズィーは木剣を二振り持っていた。アンセルが驚きと共に呆れている。
「二言目にはそれか。あんまり女の子をいたぶる趣味はないんだがな」
「油断しないほうがいい。あいつ、相当に腕を上げているぞ」
「兄上、親バカも大概にしたほうがいいぜ。ま、軽くあしらってやるか」
アンセルが腕まくりをしながら稽古場に向かった。オラフはアンセルの身を案じていた。剣の実力ではリズィーはアンセルの足元にも及ばないだろうが、娘の剣には鬼気迫るものがある。稽古を稽古と思っていない。格上が相手となれば本気で殺しに来るだろう。
オラフが相手をしてやっても、実の父に向かって凄まじい殺気を向けてくる。娘は未だ戦場に立ったことがないが、既に日常が血に染められていた。人を殺したことはないはずだが、その眼は既に殺人者のそれだった。
オラフは風に吹かれながら、アンセルとリズィーが剣先をぶつけ合って稽古を始めるのを見ていた。そのとき使用人が近くまで寄ってきた。
「何だ」
「お客様です」
「誰だ」
「ドウェイン様です」
その名を聞いたとき、オラフは少なからず動揺した。
ドウェイン。十剣匠の一人。若くして歴代最強の剣客との呼び声高い天才剣士。
剣の血族の中でも相当な発言力を持った人物で、史上最年少で十剣匠の仲間入りを果たした。
彼が幼い頃、剣の手ほどきをしてやったことがあるが、彼が凄まじい出世を果たしてからというもの、一度も私的に会ったことはなかった。
突然の訪問に混乱した。オラフは使用人を睨んだ。
「用件を聞いたか?」
「いえ。内密の件とのことでしたので。応接間にお通ししておりますが」
「分かった。すぐに行く」
稽古場でアンセルとリズィーが激突している。膂力に優るアンセルだったがリズィーの手数の多さと迫力に気圧され、防戦一方となっている。しばらく様子を見てから漸くその場を離れた。
応接間に入る前に深呼吸した。ドウェイン。大領主として出迎えるべきか、それともかつての剣の師として相対するべきか分からなかった。現時点で目上なのは明らかにドウェインのほうである。
扉を叩き、中に入ると、ドウェインが立ち上がって深々と一礼した。
「オラフ様。突然の訪問、申し訳ございません」
「ドウェイン殿。頭をお上げください。十剣匠の一人である貴公に大したおもてなしもできず、こちらこそ申し訳ない」
ドウェインは泣き笑いのような表情になった。
「やめてください、オラフ様。私にとってオラフ様は剣の師であり、幼少の頃からの憧れです。今でもそれは変わっていません」
「嬉しいことですが、しかし……」
「お願いです。かつてのように接してください。この不甲斐ない若輩を憐れんでくださるのならば」
オラフは黙り込んだ。そしてドウェインの向かいの席に歩む。
かなり逡巡があったが、他に人がいないならば構わないだろう。迷いながらも頷いた。
「……分かった。久しぶりだな、ドウェイン。お前の出世を我が息子のように喜んでいたところだ」
ドウェインは深く頷き、にこりと笑んだ。一八歳になったばかりの彼は、まだその顔に少年のようなあどけなさを残していた。
「オラフ様のおかげです。私など、まだまだオラフ様の足元にも及びません」
「やめろ。皮肉に聞こえるぞ。お前以上の剣客なぞ、血族の中には誰もいない」
「皮肉などと……。心の底からそう思っています。たまたま私の剣が戦場で映えるだけのことで」
ドウェインの剣は剣の血族の中のみならず、他の戦士の血族の間でも評判である。戦場で彼が掲げる旗を見た敵兵は脱兎の如く逃げ出すともっぱらの噂だ。
オラフは椅子を勧め、自身も腰掛けた。ドウェインは落ち着きなく辺りを窺っていた。
「内密の話か。聞き耳を立てている者などいないから安心しろ」
「はい。申し訳ございません」
「なぜ謝る。お前ならいつでも我が館を訪れて構わない。俺もお前に会えると嬉しいからな」
「ありがとうございます……。オラフ様、相談があるのです。ご助力願えませんでしょうか」
「お前ほどの者が俺に助力を乞うだと? 力になれるか分からないが……」
ドウェインは俯いた。彼はなかなか本題を切り出そうとしなかった。オラフの中にただ事ではないという警戒心が芽生えた。
幼い頃のドウェインはどん臭い子供だった。あのときは彼に剣の才能があるなどと露ほども思わなかった。気弱で、人に優しく、激しく相手とぶつかることを嫌った。そのくせ正義感ばかり強かった。戦場で真っ先に死ぬ人種だ。とオラフは懸念したものだ。
泣きながら剣を構える彼を容赦なく打ちのめし、闘争心を植え付けようと努力した。オラフの指導では彼の才能が開花することはなく、彼がまだオラフのことを慕っているというのは少々意外だった。下手をすると恨まれているかもしれないと懸念していたくらいだ。
「オラフ様、北方の島嶼地域の内乱をご存知ですか」
ドウェインが漸く切り出した。オラフは首を傾げる。
「島嶼地域? ヘリンズ地方の北端だったか。海賊征伐で稀に我が血族からも派遣しているな。俺は一度も行ったことがないが」
「私が統轄する法剣隊の管理地域です。弓の血族の銀弓隊と共同戦線を築き、海賊征伐を始めとする治安維持に尽力していたのですが」
法剣隊といえば五〇〇人余から成る精強な剣士隊である。そのいずれもが一騎当千を誇る若手の有望株であり、意気も盛んだ。そして銀弓隊といえば弓の血族の最大勢力である。
「島嶼地域の内乱。ここまではその話、届いていないな」
「そのはずです。極秘裏に処理されるはずでしたから」
きな臭い。オラフはもうこの話を打ち切りたかった。嫌な予感がする。
「……何か嫌なことでもあったのか、ドウェイン」
「納得いかないんです。島嶼地域の村々は海賊どもに荒らされ、貧困と暴力に悩まされていました。現地の方々が助けを求めたので傭兵契約を結び我々は部隊を派遣したのです。無事海賊どものほとんどを撃退することに成功したのですが……」
「結構な話だ」
「それまで海賊から被害を受ける人々を傍観していた現地政府が、税率を引き上げ、村々から酷い搾取を始めたのです。天下に名高い戦士の血族と長期の傭兵契約を結ぶとは、相当に蓄財しているに違いない、そのようなおぞましい理屈で」
「……で?」
「内乱が起きました。すぐに鎮圧されるかと思われましたが、内乱には海賊の残党が一枚噛んでいるらしく、そう簡単にはいきませんでした」
「ほう? なかなかの大事だな」
「現地政府は我々を雇おうとしました……。最初は断りましたが、次第に高圧的になって……。貴様ら傭兵が海賊どもを完全に撲滅しないからこのような厄介な事態になったのだ、契約金を返却してもらおう、などと自分たちが契約を交わしたわけでもないくせに、図々しいことを……」
確かに理不尽だが、それくらいのことを言ってくる連中は幾らでもいる。オラフは頷いた。
「それで?」
「私が知らない間に現地政府との傭兵契約が結ばれました。私はもちろん、法剣隊の面々も反対したのですが、評議会の決定だとかで……」
相当な大口契約だったのだろう。傭兵稼業で外資を稼ぐ戦士の血族においては珍しい話ではない。
「私が動かないと知るやいなや、他の部隊を送り込んできて――現地民を虐殺し始めたのです。契約だからと。奴らは国家に仇為す謀反人だからと」
「俺に何が言いたい。愚痴を聞いてもらいたいだけか」
「同じ戦士の血族で対立することは法度です。しかし私はその禁忌を犯してしまいそうになっている」
オラフは立ち上がった。窓際に立ち、外の景色を睨む。
雨が降り始めていた。まばらだったが大粒であり、やがて本降りになるだろう。
「聞かなかったことにしてやる。この場から消えろ」
「オラフ様! オラフ様ならお分かり頂けるでしょう。それほどの剣の腕を持ちながらあなたが出世を果たせなかったのは、自分の信念を枉げなかったからです。私にはそれが分かる! 無辜の民を虐殺して何が戦士だ、何が剣匠だ!」
「やめろ、ドウェイン。見ず知らずの島嶼地域の人間に感情移入しているのか。お前がやろうとしているのは仲間に対する裏切りだぞ」
「承知しています。その上で私は……」
オラフは振り返った。ドウェインは立ち上がり、顔を真っ赤にしていた。少年時代の彼を見ているようだった。彼は臆病だったが悪には人一倍敏感だった。あのときから何も変わっていない。
「お前は五〇〇人の精鋭から成る法剣隊の長だ。彼らの未来を庇護すべき責任ある立場。滅多なことは口にするんじゃない」
「オラフ様……」
「ドウェイン。頭を冷やせ。世の中は不条理に満ちている。お前に与えられた力は、そうした不条理から大切な存在を守る為に使うべきだが、限度がある。自分や自分の部下を何より大切に思っているなら、裏切りなんてできるはずがない」
ドウェインは黙っていた。オラフは嘆息する。
「お前は何も変わっていないな。子供の頃から正義感ばかり強かった。理想主義というかなんというか……。大人になれ」
ドウェインは返事をしなかった。しばらく二人は沈黙していた。廊下で足音がする。それは応接間に近付いていた。
やがて突然扉が開いた。汗だくのアンセルがそこにいた。
「兄上、大変だ!」
「アンセル、来客中だ、控えろ」
「リズィーが……。すまない、怪我させちまって」
アンセルが顔面蒼白になっている。オラフはもちろん娘の容態が気になったが、ドウェインの話を保留にするべきではないと分かっていた。これはとんでもない火種である。まさか目覚ましい出世を果たし、相当の場数を踏んでいるはずのドウェインがここまで青臭さを残しているとは思わなかった。
「オラフ様、行かれてはいかがですか」
ドウェインが言った。
「しかし、ドウェイン、お前……」
「オラフ様の言う通り、頭を冷やします。そもそも、既に大局は決しているのです。私がどのように動こうと、私が守るべき人間はもういない」
もはや屍です。ドウェインは呟き、部屋を出て行った。アンセルがその後ろ姿を見送る。
「兄上、今のは十剣匠のドウェイン殿ではないか。いったい何の話をしていたんだ」
「お前には関係ない。……リズィーがどうしたって?」
「あ、その……。頭をかち割ってしまった。すまない。手加減しようと思ったんだが、あの子がいやにしつこいもので……」
見れば、アンセルの首元に真新しい痣があった。恐らく容赦のない突きを入れられたのだろう。アンセルに一撃でも食らわすとは、なかなかやる。
「気にするな。お互い様だろう。娘も承知の上だ」
「しかしだな、意識が戻らなくて……。下手をするともう目を覚まさないかもしれんと、医者が」
「光栄だな」
オラフは言う。アンセルは怪訝そうにした。
「お前に殺されるならリズィーも幸せだろう。そういう単純な世界で完結したいものだ」
「何を言っているんだ、兄上」
オラフは応接間を出た。医務室に足早に向かう。寝台に寝かされて介抱されていたリズィーだったが、まるで父の登場を察したかのように、オラフの前で目をぱちりと開けた。
「リズィー。気分はどうだ」
リズィーは辛そうに上半身を起こしかけたが、医者に止められて枕に頭を載せた。そして自らの割れた額に載せられた包帯を寄り目で見る。
「父上……」
「何だ。どうした、頭が痛むか?」
「この後、用事がなければ、また手合わせを願いたいのですが……。先ほど伯父上に稽古をつけて頂いたとき、何か掴めそうな気がしたのです」
アンセルがオラフの後ろで呆れている。オラフは娘の視線を真正面から受け止めた。
「駄目だ。先に怪我を治せ。その傷……。三日は養生しろ」
「そんな……。三日なんて」
リズィーの顔が絶望に染まった。そしてふっと瞼を閉じた。気絶したらしい。
オラフが振り返ると、アンセルが愕然としていた。
「兄上。この子、化け物だぞ。剣の鬼だ」
「そうかもな」
「これで五体満足だったら……。男だったら。稀代の剣士に育ったかもしれない。さすがアビーと兄上の子供だ。一対一で恐怖を感じたのは久しぶりだ」
「お前はこんな子供に恐怖したのか。久しぶりに稽古をつけてやろうか」
「えっ。冗談だろ。勘弁してくれ」
「戦場ではお前のほうが戦功を挙げられるかもしれんが、まだまだ教えるべきことがたくさんある」
「待ってくれ。リズィーとの稽古でへとへとなんだ、やめてくれ――」
オラフは笑いながらアンセルを稽古場まで引き摺った。そうしながら考えていたのはドウェインのことだった。彼はもうこの館を去っただろうか。利口な彼のことだ、取り返しのつかないようなことはしまい。
まだ奴も一八歳。迷い、苦しみ、悶えることがたくさんある。不条理や瞞着や悪意を全て飲み下し、迷いを断ち切るだけの強かさが彼には必要だった。
今回の一件だけではない、ドウェインはこれから先、責任ある立場として無数の悪を処理しなければならない。
ときには自らも悪に徹しなければならないこともあるだろう。そうしたとき人を支えるのは個人の善意などでは決してない。立場だ。立場が行動の正当性を裏付ける。
無垢なままではいられんのだ。オラフは自らのこれまでの歩みを指弾するかのように、痛烈にそれを思い知った。リズィーの血まみれの寝姿が、今は羨ましかった。
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