剣の血族(1)
愛する妻の腹を食い破って出てきたのは無毛の獣だった。
少なくともオラフにはそう見えた。泣きじゃくる赤ん坊を産婆が抱え持ったが、オラフは赤黒いはらわたが露出する妻の躰に歩み寄った。
既に妻は絶命していた。萎れた腹から屹立しているのは鋭利な刃物。臍帯と柄が複雑に結びついたそれは、幼生の大剣。剣の血族を示す紋が刻み込まれている。
俺の子供だ。妻を食い殺したのは俺の子供なのだ。オラフは動揺していた。周りの者が慌ただしく行き交っている。妻の妹が泣き叫んでいる。侍女たちは顔面蒼白で誰かから命令を下されるのを震えながら待っている。わざわざ本家から出張ってきた『灰剣』ランダルは渋面を作って傍らの部下に何か呟いている。その部下はオラフをじっと睨んでいた。
「女の子です」
ふと、赤ん坊の汚れを柔らかい布で拭き取りながら、産婆が言った。部屋の中で本当に冷静さを保っていたのは、老いたその女性だけだった。他の者はあまりの事態に平静を失っていた。
「女の子……?」
オラフは呟いた。そして初めて、生まれてきた自らの子供をまじまじと見つめる気になった。
顔を真っ赤にしながら力いっぱい泣き叫ぶその赤ん坊。まさか母の死を感じ取っているわけはあるまいが、オラフには全身で悲嘆を表現しているように見えた。産婆の腕の中で、娘は拳を作っていた。
「女か……。俺の後継にはなれないな」
オラフは言った。ごく当たり前の発言で、彼自身この状況に当惑していたので咄嗟に出た言葉だったのだが、侍女の何人かが咎めるような視線を送ってきた。妻の死を悼むのが先ではないか。跡取りのことしか頭にないのか。そう非難されたようだ。
ランダルたちが産褥の熱気から逃れるように部屋を出て行った。オラフはその後ろ姿をただ眺めていた。立ち尽くすことしかできない己をオラフは滑稽に思った。戦場に立てば迷いなどないのに、今この場ではどう振る舞えばいいのか分からない。
ふと、産褥の周りで悲鳴が起こった。何事かと目を向けると、娘と共に妻の胎内から出てきた幼生の大剣が、独りでに動いていた。
戦士の血族において、新生児は自らが将来扱うべき武器と共に母の胎内から生まれてくる。それは戦神アバイナムを信仰しその教えを遵守する純然たる聖戦士に与えられた祝福の徴であり、奇跡であり、運命であった。
母体から生み出された武器は、その遣い手の成長と共に大きくなり、本然のカタチへと徐々に変化していく。そして遣い手が一六歳となり成人の儀を執り行うそのとき、異教徒を殺戮する戦士の相棒として、完全なカタチに至る。
無論、生まれたてのその武器は、いずれは鉄をも切断する凶悪な刀剣へと変貌を遂げるとはいえ、現在ではろくな殺傷能力を持たないはずだった。
しかしオラフは括目した。その幼生の大剣は刃に尋常ならざる光を宿していた。まるで人間の血に飢えているかのよう。
出産間近になって妻の容態が急変し、医師たちの処置も全く追いつかなかった理由が、オラフには分かったような気がした。
「離れろ! お前ら、その剣に近付くな!」
しかし遅かった。妻の臍帯に繋がれていたその剣は、自らの刃でそれを断ち切り、跳び上がった。そして近くに立っていた妻の侍女の首を切り裂いた。
軽傷ではあったが殺意を感じられる軌道だった。独りでに動く剣に、部屋にいた者たちは悲鳴を上げて跳び退いた。前に進み出てそれを止めようとした人間はオラフただ一人だった。
しかし、オラフは迂闊に前に進み出たこのときのことを、今後一生後悔することになる。剣はオラフを嘲笑うかのように天井すれすれを跳躍し、彼の頭を跳び越えた。
そして赤ん坊を抱え持つ産婆の背中に突き刺さり、滅茶苦茶に切り裂いた。産婆は絶叫し、赤ん坊を宙に放り投げた。
まるで剣は最初から赤ん坊が狙いだったかのように、その鋭利な切っ先を老婆の背中から引き抜き、オラフの娘に狙いを定めた。不可視の剣客がその剣を操っているかのような軌道を描いて迫る。
「やらせるか……!」
オラフは突進した。妻のみならず娘まで殺されてたまるか。剣にしがみ付こうとしたが向こうは身軽だった。嘲笑うかのように跳び上がり、オラフの首筋を狙って突っ込んでくる。
ただ、オラフは剣の血族の中でも五指に数えられるほどの剣士だった。向こうがこちらを狙ってくれるのなら、対処は簡単だ。躱して回り込み、その柄を握り込むことくらい造作なかった。
柄を掴むと、剣は嘘のように大人しくなった。剣士としての力量を察知して早々に観念したのか、それにしても呆気なかった。
産婆がまだ悲鳴を上げ続けている。誰も彼女を助け起こす者はいなかった。それより放り出された赤ん坊を危ういところで侍女の一人が受け取り、そちらに注意が向かっていた。仕方がないのでオラフが剣を持ったまま産婆に歩み寄った。
「おい、傷は浅い。そう喚くな。誰か手当てを――」
そのときオラフは何かを踏んだ。ぶちっ、と何かが潰れる感触がする。咄嗟に下を見た。
そこにあったのは肉だった。誰の肉か。すぐには分からなかった。
侍女が叫んでいる。泣きそうな声で、必死に、
「左腕が! ひ、左腕が! すぐに縫合手術を!」
縫合? オラフは彼女が何を言っているのか、理解できなかった。
いや、理解を拒んでいたのかもしれない。オラフの掌中で大人しくしていた剣が、びくりと動いたような気がした。
*
妻のアビーと初めて会ったのは戦場だった。
オラフもアビーも傭兵として出稼ぎ中で、たまたま同じ陣営で前線を担うこととなった。オラフが率いる剣士部隊と、アビーが率いていた短槍部隊は、巧みに連携し、本隊以上の戦功を挙げた。
「もし、あのときの戦功第一位が貴方でなかったなら、きっとこんな無愛想な人に惚れることはなかったんでしょうね」
アビーは後にそう語った。オラフはそのとき言葉を返せなかったが、
「戦功第二位がよく言う。よほど悔しかったんだな」
笑顔で悔しさを隠す彼女を可愛いと思ったし、愛おしかった。オラフにとって初めての女というわけでもなかったが、こんな感情になったのは初めてだった。互いに惹かれ、しかも両者ともに戦士の血族。縁談は滞りなく進んだ。
そうしてリズィーが生まれた。娘の誕生日はアビーの命日でもある。幼いリズィーを墓前に連れていくと、彼女は不思議そうにしていた。しかし黙りこくった父親を前に、彼女もまた背筋を伸ばして神妙にしていた。
「リズィーには剣の才能がある。槍も習わせてみたが、からっきしだった。それもそうだ、あんな巨大な剣と共に生まれてきたのだからな。俺に似たんだろう」
墓前でオラフは告げた。周りには娘の他に誰もいなかった。
「しかし出世することはないだろう。女だからではない。戦士として致命的な欠損があるのだ。こんなところまで、俺に似なくとも良かったんだがな……」
リズィーの表情は変わらなかった。内心どう感じているのか分からない。娘は父親の前でほとんど感情を見せなかった。利口だし、剣術の腕前も申し分なし、見目も上等で、配下の者からは姫、姫と呼ばれて親しまれていた。本人は姫と呼ばれるのが好きではないのか、そのたびに顰め面を作るらしかった。オラフはその顰め面とやらを見たことがなかったが。
「リズィー、お前、武器を棄てるか?」
オラフは年に数度、愛娘にそう質問した。もし彼女が頷こうものなら、剣術の手ほどきをやめ、平穏な『姫』としての暮らしをさせるつもりだった。
「嫌です。私には、剣しかありません」
幼いときから、リズィーはこう答えた。そのたびにオラフは思う。お前の左腕は、肘から先がない。隻腕でどう剣士として名を上げていくのだ。
その細腕一本で、あの巨大な剣を扱うことなどできるはずがない。お前の相棒であるはずのあの魔剣は、お前を拒絶しているではないか。
だがリズィーは、顔面に木剣が直撃して鼻血を出しても、師であるオラフから容赦のない打擲を受けようとも、剣を自在に操ることができず激しく叱責されようとも、剣の道から背を向けることは一瞬たりともなかった。
俺に似るな。似るんじゃない。修羅の道が待っているぞ。そう願えば願うほど、リズィーはオラフが辿ってきた道をなぞろうとしているかのように見える。
オラフもまた、『不具なる英雄』という異名を取った出来損ないの剣士だった。そう呼ぶ者の感情には畏怖も含まれていただろうが、それにしても蔑みの意味合いのほうが強いだろう。僻地ながら小領主として土地を与えられているのは、境遇からすると破格の出世だった。
しかしリズィーがそこまで達することができるか。親の楽観的な視点から見ても、茨の道としか言えない。
「リズィー、稽古は好きか」
オラフが訊ねると幼い娘はかぶりを振った。
「嫌いです。でも、やらなきゃやられますから」
そう言って血の滲んだ木剣を握る娘を見て、姫と呼ばれて嫌がる彼女の気持ちがほんの少し理解できる気がした。
次回は5月24日更新予定です。