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百鬼編/伍

百鬼編/伍


            ◇



「さてェ……と、オンナ。オマエの番だよッ!」


 直武は羽交い絞めせんとばかりに、両腕を伸ばしながら、一歩の跳躍で距離を零に縮める。

 芳埜はそれを高々と飛び越え、空中で旋回した。

 ジャリ、と手中にあるのは、拾った四つほどの石つぶて。

 それを相手の両眼と両足目掛けて、交互に投げつける。


「威嚇のつもりか──むッ!?」


 咄嗟に構えた腕にドスドスッ、と連続して石つぶてが突き刺さる。腕に刺さり、鮮血に染まったつぶてを握りつぶし、直武は地へ放り投げた。


「器用なオンナだあァ。だがこんなもの致命傷にもならないぞっ!」


 猛る直武が拳を握り、地面ごと殴りつける。

 衝撃は、石つぶての攻撃を防ぐ役割。相手への足止め。攻防が一緒になった土砂流が、芳埜を襲う。

 轟っ──、と迫る大小の岩石片は、つぶての比ではない。

 

 芳埜は視界に砂埃が入らないように、左腕を構え、さらに右手の一本の小枝を忍ばせていた。

 左手の指のわずかな隙間から、一点のみに狙いを定める。

 障害にならない、と瞬時に判断した大きめの岩石片は一切無視した。

 ゆっくりと静かな清流のように。且つモーションは大胆に。大きく振りかぶった一投は、それら土砂流の荒波を掻い潜り、突き抜ける閃光。


「────はっ?」


 あまりにも速すぎた。

 鬼となり、常人とは並外れた視力を持ってしても、捉えきることの出来ない小枝が、無常にも直武の心臓に音を立てて突き刺さる。


「ごめんなさいね」


 同時に囁いた言葉とは裏腹に。

 背後に忍び寄っていた芳埜は、背中越しに回したその白い手で小枝を握り、力を込めて。


 静かに。

 ──確実に。

 ────肉を断つ。


 叫ぶこともままならぬうちに、直武の上半身が、崩れ落ちる。

 殺し合いにもならない刹那の攻防戦。

 桃木芳埜は冷たい視線を、その亡骸に投げつけた。



                ◇



「や……やったの、か?」

 彼、蓮白くんにどこまで見えていたのかわからない。そんな彼が駆け寄ってくる。

「……直武、先輩」

 物言わぬかつての先輩の死を目の前に。蓮白くんは、目の前で大切な家族を殺された思いもあってか。泣きたくても泣けない表情のまま、ギリッと奥歯を噛み締めていた。


「お礼。……言わないぞ」

「……別に。いらないわ」

 

 本音のつもりだった言葉だけど。こんなにも後味が悪いのも初めてだから、正直その後のことを考えていなかった。

 いろいろと考えるのが面倒だから、邪魔になるから、様々な思惑から人を遠ざけていた。

 こんな厭な気持ちになるくらいなら、始めからここに来なければよかったかな、と心の片隅で思う。


「……あああッ! アアアッ! クソ、クソ、クソォッ! センパイ……直武先輩」


 彼自身もそうなのだろうか。

 吠える。地団太を踏むように、何度も何度も地面を叩く。何度も吠えて、直武のこと呼んで。でも帰らぬ彼の亡骸を見て、とうとう泣き出した。


「……芳埜、様」


 気絶していたのだろう。少し離れた場所に倒れていた芙蓉が立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。式である彼女を心配するだけ、それこそ無駄なのはわかっている。

 それでも姿形は人間となんら変わらない彼女に向けてねぎらいの言葉を向けた。

「気にしなくていいわ、おつかれさまです。後始末はわたしがするから貴女は戻っていて」

 芙蓉は、わたし以外にもう一人の──蓮白くんを一瞥して、黙って頷き、その場を後にした。


「直武先輩、埋めてやらなくちゃ……ワンも。少しだけ待っててくれな」


 ぽつりと彼はそんなことを呟いた。

 ワン、と呼んだのは彼の犬のことだろう。

 どこまでも甘い蓮白くんは、きっと死んでも治らないだろう。それでも、せめてそれくらいは手伝ってやろうと、踵を返したとき、


「そこのオンナの墓でも作ろうってのか」


 声がどこからもなく聞こえた。

 死したハズの、直武の声が辺りに響く。


「いいねぇオンナ、実に驚いた。トドメを刺す時の僅かな殺気すらも表に出さない。オマエもう人間じゃなあいヨッ! オレたちと変わらない鬼修羅じゃないかあッ!」


 蓮白くんが抱えた直武の上半身が、激しく流動する。確かに心臓を貫き、切断した身体から数多の細胞と神経系が絡みつき、下半身へと繋がっていく。身体の僅かなズレを、自らの両手で手直しして復元した。たかが鬼に堕ちた者が手にする力の際限を超えている。


「あなたの言う、皇の正体に俄然興味が湧いてきたわ」


蓮白ハシロ、オマエは邪魔だ」

「センパ……ッ!?」


 蚊を叩き落すほど軽く振り払っただけだが、蓮白くんは何メートルも飛ばされ、そのままぐったりと倒れた。その行為に少なからず、直武によくやったと、内心思ってしまったわたしがいる。

 この戦いに彼は少なからず邪魔以外の何でもないから。

 変にちょろちょろとされるくらいならば、いっそのこと気を失ってるくらいが丁度いい。


「邪魔者はいないッ! 思う存分楽しませてもらうぞ。殺し合いってヤツをなあッ!」


 まるで陸上のスタートのように、構えからダッシュした直武は文字通り、消えた。


「速いッ!?」

「オマエが遅いのさぁッ!」


 瞬時に目の前に姿を現した直武の風の衝撃で、わたしの長い髪からスカートまでもが風で逆立つ。

 豪腕が放たれる。

 腕とうねりを紙一重で躱わす。

 ──が突風に似た風圧がそれを許さない。

 わたしは突風に流されるまま、少しでも受け流す如く、後方回転して、風を反らしながら飛ばされた。

「人形共ヲ殺った時みたいに武器を出してみろォ! オマエの攻撃を防いだ時、絶望するしかないんだからナア。恐怖シロッ! 一撃でも喰らったら、お(シマ)いだってことをッ! 身体に憶えさせてるッ!」

 右手をついて着地する。視線の先にいるハズの直武の姿を見失っていた。


 瞳だけを左右上下に動かす。

 わたしの瞳では追いきれないほどのスピードに、一瞬だけ感心した。だが経験の差で肌で空気の流れを読む。


「どこを視ているのかナアッ!」


 上空から降り注ぐような両足の踏み込みで、小さな地割れが引き起こされる中で、直武は闇と砂埃に乗じて乱打してきた。

 側転、跳躍……だけでは回避しきれず、止むを得ず極薄の羽衣を取り出す。


「──ッ、飛ベ!」


 砂埃が舞う地上から、わたしは上空へと大きく飛翔した。

 ……反応速度、いやそれだけではない。

 ありとあらゆるモノが強化されている。防戦するだけでは体力の差で圧倒的にこちらが不利。手ぶらで来たことを少し後悔した。


 手元にある手札は四つ。

 堕ちた者を助ける、なんて都合のいい方法は存在しないから。

 鬼に魅入られ、己の犯した(ゴウ)百鬼わたしが殺してあげる。



              ◇



 ちりーん。

 どこからか響く小さな鈴の音。

 三つ、四つ目の鈴の音と共に、ザッと砂利を踏み込むの桃木芳埜の姿。右手には手首に巻きつけた銀の鈴だけが輝きを放つ。


「隠れても無駄だとようやく気づいたか?」

「最後に一つだけ訊いておこうと思って。昨夜の一家全員と。武蔵学園で生徒一人殺めたのはアナタね?」

「アア? ──嗚呼、そうさあ。ササキの奴。生徒会長であるオレを事もあろうに説教しやがったんだ。アイツの家に行った時の顔は今も忘れられないナア」

「ならばその報い。身をもって味わうことね」

「漫画みたいに必殺技でも放とうっていうのかあ? 世の中そんなに……」

「世の中そんなに都合よく出来ていない。あなた達のような外道には鉄の刃なんて無意味なことも良く知っている」


 直武の次の台詞に被せるように言葉を紡ぐ。

 気に入らなかったのか、剥き出しになったその牙がギリッと音を立てた。


 言葉と同時に芳埜は、左手で顔を覆う。

 手に持つのは一枚の無表情な能面。その瞳の奥から、殺気を解き放つ。


「……おいでなさい、ササキハルヒコ」


 その名を口にすると、闇夜に浮かぶ一つの

人魂。


「スズキヨウコ、ユウキ。……キクチヨウイチ」


 名を口にするたびに、二つ、三つと次々に人魂が姿を現す。


『オマエはワタシを……殺した』


 人魂に映る一人の男の怒り形相が叫びながら、芳埜の無表情の能面へと宿されていく。


『……出遭いがしらに、……右腕をもがれた』


「なんだよ、なんだよコレはあッ!?」

「鬼に堕ちたのに……人魂が怖い? 亡くなった人たちの姿が怖いの?」


 表情の読めない芳埜の問いに、直武は答えられずにいた。

 囁きは死した者達の嘆き。

 直武によって殺された者たちが、何度も繰り返す死の巡りを解放するために、芳埜は昼間回収していた。


『足をもがれ、逃げられないワタシをオマエが殺したんだあっ!』


 悲痛な叫びと共に、芳埜は右手でその魂を手にするのと同時に。

 右手で上段から左足に定めて、魂の刀が直武の左足を屠る。

 

「──ひ、ヒッィ、(イタ)い!? 痛いィッ!」

 

 一体、何が起きているのか理解できてない。

 足を斬られ、地面に平伏す状態で。直武は次に迫る青い狂気から逃げ出そうとした。


「──なんで、なんで再生しないんだッ!? 心臓を貫かれても死なない身体なのにッ」


 芳埜はゆっくりと歩み寄る。

 今の一太刀で無くなった人魂の代わりに、次の魂を手にするのと同時に凛と鈴が鳴る。

 能面の表情は若くも哀しい顔をした女の面。


『泣き叫ぶワタシは逃げることもなく、最後に家族の名を叫んで、アナタに殺された』


 言葉はより深く深く。

 女の声は怨み、重く沈んでいた。


「……や……やめてくれ」


 直武の全身から汗が吹き出て、逃げ出そうとした。泣きながら両親を呼んでも届かず、動けないままに、芳埜の手によって終わりを告げる。振り下ろすのは裁きの一撃。

 声も出せず、両膝立ちのまま、直武の身体に迸る死の旋律が突き刺さる。


 二度目の刃が直武の身体を貫いた。

 ──殺されたハズなのに。

 直武はまだ生きていた。


 それは夢幻ゆめまぼろしでもない確かな痛みだけを身体に刻まれて。

 三度目の死は■■(こども)が食い殺される死の追体験。身体も何もかも、バキバキに折られ噛み砕かれ飲み込まれる死を迎えた時、直武の表情は既に壊れていた。


「……あ、ああ、あああーーッ!!」

「──因果応報って言ってね。あなたが彼らに施した報いこそが、その痛みよ」


 言葉は届いているのか。

 ──いや、きっと届いていない。

 既に三度。直武は死を体験した。

 きっとそのまま放っておいても、彼は使い物にならない。それでも芳埜は四度目の──若面をかぶる。


『命乞いをしたボクの顎は砕かれた』


 そう言いながら、芳埜の白い細腕で直武の顎骨に力を込めると、ミシミシッと音を立てると、重い鈍い音がした。


『もう……動けないのに。助けてと叫んだのに。(キミ)はボクを最後に突き落としたんだ』


 突き落とす代わりに、掴んだ頭を減り込ませる勢いで、地面へと叩きつけた。

 叫びは木霊する。

 命乞いすることも、助かることさえも出来なかった。

 ──だが、それも直武自身の自業自得。

 この追体験は彼が犯した罪の繰り返し。

 殺された者の救済は例え神であろうとも、出来はしない。人の理から外れたものの死は永遠に縛られる。それは鬼といえども例外ではない。


 百鬼の真骨頂は『魂使い』

 なぜ赤子の桃太郎が急成長したのか。

 なぜ小枝や小石が武器へと変わり果てるのか。

 かつての桃太郎は鬼を倒せる強さまで己の魂を成長させ、身体までも同化させた。

 さきほどの戦いで芳埜が手にしていたのは、植物や鉱石に存在する確かな魂。

 

「鬼に武器の類は通じない。でもね鬼の名を冠する『魂』はどうかしら」


 自らの胸に右手を沈ませ、内から取り出すのは自身の中にある青い炎。


「我がヨシノの血肉から生まれいずる、

 燃え盛る魂で振るい、屠れっ!」


 名前を呼び上げると、右手に渦巻く青白い炎は魂の印。荒ぶる強さを示すその炎は、太陽の如く。闇夜を照らす暁のように、煌く炎は一本の刀へと錬成されていく。


 巨漢との戦いに見せたような不可視の太刀ではない。それは誰の眼にも映る。剥き出しの刃に一点の曇りもなく、雲の隙間から覗く月の光さえも霞んでみえるほど神々しくまばゆい光を解き放つ。


 手中の柄を握りなおす。

 既に直武の瞳は死んでいた。

 だが、身体に残った生存の本能だけが、最後の牙を向く。

 芳埜はその刀で、直武の首から下をいともたやすく横一文字に斬った。

 次に上段から右肩から縦線を描く。

 胸から腹にかけてまた一閃。

 まっすぐに斬られた頭、胸、腹はすでに宙を舞っていたが彼女はそれでも斬ることを止めない。

 縦と横斬りを繰り返すこと十回。

 刀の軌跡は九字斬りと呼ばれる格子縞。

 一ミリのズレもない綺麗な十六分割。

 

 直武は己の身に何が起きたのかもわからず、声も出す暇もないまま、ただ最後の表情だけは、ほんのわずかだけ穏やかにみえた。

 そして細切れになった身体だけが宙を舞う。

 とどめに格子の中心である心臓を貫いた瞬間、すべての肉塊が青白い炎によって灰塵かいじんと成り果てていった。


「──地獄で。同胞が待ってるわよ」


 塵となって消えてゆく相手に向けての別れのはなむけだった。



              ◇



 顔の能面を取り外し、呼吸する。

 戦いが終わり、燃え盛る炎を振り払った。

 今日はひどく疲れた。

 春の少し暖かい空気を肺に満ちるまで、深呼吸して体調を整える。

 気苦労もあれば、戦闘で思いがけない事態にまで遭遇したからだ。

 

 今度こそ間違いなく、直武は死滅した。

 蓮白くんは気絶から眼が覚めたのか、それともまだ正気に戻っていないのか呆然として座り込んでいた。何の因果か巻き込まれて戦いを目の当たりにすればそれも当然だろう。

 これは遊びでもなければ映画でもない。

 現実に起こった事なのだから。

 

 その彼に歩み寄る。

 少し風も強くなってきたのか、敷地内に咲く桜の花弁が風に流されて漂っていた。

 わたしは、いまだ右手に刀を持つ手で乱れそうになる髪を押さえながら彼に訊ねた。


「立てる?」


 声に反応してか、しないでか。彼は──ハッとした表情でこちらに向き直る。


「……あ? ああ。格好悪いな、俺。まだいろいろ信じられないことだらけで。なあ桃木さん、説明してくれない……っ?」


 かな、と続くハズの言葉が遮られる。

 彼は立ち上がろうとしない──いや出来ないでいた。

 ガクガクと震える膝に手をついて立ち上がろうとする蓮白くんを、わたしが右手で軽く押し込んで制止させたから。


 ()()()

 わたしは未だ作り出した自身の刀を、彼に向けていた。

 その切っ先を目の当たりにして彼の喉が唾をごくりと飲み込むのさえ、はっきりと聞こえた。


「わたし、言ったわよね。

 放っておいて。構わないで。邪魔しないで──と。

 聞こえてなかったわけではないでしょう?」


 言葉は出来るかぎり優しく。

 これでも高ぶる感情を抑え込んでいるつもりだ。


「いや──だって、放っておけない」


 揺れない黒い瞳が、刀の刃からわたしに視線を移す。


「──俺は、男だ。女の子を放って逃げることなんて……出来ない」


 意を決したような目付きで彼は答えた。

 そんな莫迦莫迦しい安っぽい正義感で、自分の身を危険に晒すなんて本当の莫迦がすることだ。


「もうひとつ。最後にあれだけ忠告されたのに。どうしてこんな時間にここにいるわけ?」


 時刻はすでに深夜の零時を過ぎてることだけは確か。

散歩などという時間にしては遅すぎる時間帯だ。


「い──」


 い? その後の言葉がなんとなく言いづらそうに、彼はようやく言葉を紡いだ。


「……犬の散歩に」


 呆れて何もいえない。

 散歩なんていつでも出来る。その散歩でまさか命を落とすなんて、犬の方も思わなかっただろう。

 そう、と彼に聞こえてか聞こえない程度の声で小さく呟いた。


「……あの、さ。分ってくれたら、そろそろこれをしまって貰えるとすごく助かるんだが……」


 蓮白くんの指差すのは刀という名の凶器。


「勘違いしないで。わたし見逃すつもりないのよ」


 冷たく言い放ち、刀の先端を首筋に近づける。

 薄皮一枚、なぞるようにそっと優しくわたしの言葉がウソではないことを示すために、線を引いた。

 首筋から流れる鮮血と桜の花弁のかおりが匂いたつ。


「三度目は許すつもりがなかった。

 それとね。今日の目撃者は、はなから消すつもりなの。

 芙蓉──さっきまで居た女性の事ね。彼女との会話聞こえてたかしら? ()()はわたしがするわ、ってね」

「……た、助けてくれたんじゃないのかよッ!? 自分で助けておいて始末するなんて……」

「もっともな意見ね。でも敵にわざわざ塩を送るような真似するほうが馬鹿げてるわ。鬼と接触したことで、あなたが人に仇なす可能性がある以上、放置しておくことも出来ない。まして狙いがなんであれあなた狙われてるもの。その為に誰かが犠牲になるのを──あたな堪えられる?」

 

 開いた口が塞がらないのか、単に動けないのか。見苦しく命乞いでもするのなら助けてやろうとも考えていたけれど。


「言い残した事はあれば訊くけれど?」


 蓮白くんは幾度となく首を横に振り続けていた。それが否定なのか肯定を意味するのかは定かではない。


「……せめて、そうね。

 あなたの亡くなったあの犬と再会できることを祈っててあげる」


 慌てて逃げ出す彼の姿は、それは見てもいられないほど。

 あまりにも無様で。そして惨めだった。

 追いかける為に、地を駆けつける。

 気配に気づいた彼の蒼白な表情は、最後に何かを口にしていた。

 読唇するならば──狂ってると。そう動いた気がした。


「恨むのなら、自分の運命を恨みなさい」



 ──ひらひらと。

 数多の小さな薄紅色の花びらが、視界を遮るなか。

 振り上げたわたしの右手に輝く月光は、

 処刑を宣告する死神の鎌。

 刃が首に食い込むその瞬間まで、

 彼は一度も瞳を閉じようとはしなかった。


 咲き乱れる紅い華は出逢いと別れの季節はる

 降り注ぐ血の雨はあたたかいのに、

 胸の奥に寒さを感じて、

 自らの腕でその身をあたためた。


 瞼に溜まる雫は、

 流れていくままに零れ落ちていく。

 涙を流すことの出来ないわたしの顔に、

 ほどこされた死化粧しげしょうが、

 代わりに泣いていた。


 ──そう、わかっていた。

 たとえどんなに桜がきれいに咲いてみせても、むざむざと死を連想させるのは、

 その樹の下に、死体があるからだと、

 わたしは昔から知っているのだから。




                           百鬼編/序章 完

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