百鬼編/肆
最後の一体にとどめを刺し、溶けて消滅したのを確認してから一息つく。
それと同時に得物に使っていた小枝を投げ捨てた。
周辺には亡き骸すら見当たらない。
絶命した時点で溶けて消えたせいだろう。
その代わりに何かが焦げたような生臭さが、未だに漂う。
毒の類ではないとしても、思わず顔を顰めたくなるような異臭に手のひらで顔を覆った。
「芙蓉」
この公園へ来た目的を忘れてはいない。
式である芙蓉を呼び出し、この広い公園のどこかにいる 〝赤鬼〟 を探さなくてはならない。
一人では困難なので芙蓉の名を呼んだけれども、先ほどとは違って彼女の姿は現れない。
「──芙蓉。芙蓉?」
襲撃に遭ったかもしれない。襲われてしまえば芙蓉ではどうしようもない。強さで言えば人間の女性となんら変わらないから。
一瞥しながら、手短にあった落ち葉を拾い、軽く吹きかけると落ち葉は小鳥となり、飛んでいく。行き先は芙蓉の元へ。
今は何時頃だろうか。腕時計の類も持ち歩かない私には時間を知る術をもたない。
公園の敷地内は先ほどよりもさらに深い闇に包まれている。園内を照らす外灯などがないため、肉眼で何かを探し出すのは不可能に近い。
霊視し続ければいいだけの話だけど、まだ戦いがあるかもしれない以上、余計な消費はしたくない。あたりを警戒しながら私はさらなる闇に足を踏み入れていく。
飛ぶ小鳥が闇の中で、小さな点となるほどに離れた場所で。動物の鳴き声が辺りに響き渡ると同時に、小鳥は姿を消した。
動物系の式紙は、鳴く、言葉を発するという機能は持ち合わせていない。話すには話す術式を施さなくてはならず。生憎わたしはそっち方面の術にはてんで弱い。
よって聞こえた泣き声は第三者の声。
姿が消えたその方角へ急いだ。夜では色の見分けもつかず、ただその花の匂いだけを運ぶ数多の桜並木をくぐり抜けて、目指した先に──。
芙蓉を足で踏み躙る赤鬼の姿と。
その傍らには傷つき倒れている犬を庇うように、対面する転入生の姿。
その赤鬼は割れた眼鏡と武蔵学生の制服を着ているものの、全身から血管と筋肉が隆起しているのが見てとれるほどの力強さ。そして、ひと際目につくのは、やはり顔だろう。
第一印象に目がつくのは、額に生えている一本の角。
鬼を象徴するに相応しく、骨の一部なのか、はたまた産まれたてとも取れる白さは、まだ血で濡れぼそった気配がある。触れれば鼓動を感じることが出来る気がしてならないほど生々しい。
瞳は白目だった部分は赤く充血し、眼孔は白く、瞳孔は点一つ。
口元は辛うじて抑え込んでいる、と思わせるように唇を震わせていた。内側から溢れる狂気に逆らえない。一度解放したが最後。理性は失われる。
面妖という言葉がよく似合うほど。それはもはや人間の持つ顔ではなく、鬼そのもの。
割れた眼鏡を掛けているおかげで、辛うじて面影がある程度でしかない。
赤鬼はわたしに気付いて、こちらに振り向いて、やあと挨拶をした。
「これ、オマエのだナ?」
彼の足元に踏みつけられている芙蓉の身体をぐりぐりと捻りこむ。
「突然目の前に現れるから、さぞ強いのかと思えば弱いんだなあ。人間様に勝てないなんて、ナあ?」
その上から目線という特徴のある話し方で、赤鬼の姿が直武だと、ようやく気づいた。似ても似つかないあまりの変貌ぶり。
直武も蓮白くんも、どちらも今日この日。この短い時間だけで三度の出会い。
一度目が偶然で、二度目が必然であったのならば、三度目は──宿命かもしれない。
本人の理性は残っていても、目の前にいる相手はすでに人間ではない。人が持つべきではない闇の力に魅了されて堕ちた鬼の姿。
普通に喋っているつもりでも、所々に邪気が込められている。言うなれば、地獄からの囁きが肌に張り付く。
「そこに転がってる犬コロも馬鹿だよナ。愚かな飼い主を守ろうとするからそうなるんだ。
犬なら犬らしく強いものに諂っていればいいのに、アハハはははッ!」
直武の笑い声が辺り一面にも木霊する。
その言葉に蓮白くんは奥歯をかみ締めて、脅えながらも怒りを表に出していた。
「……侮辱するなッ!」
よほど許せなかったのか、笑う膝を抱えながら、彼は立ち上がろうとするのをわたしは制止させる。
「止めておきなさい」
今の蓮白くんにとってこの現状よりも家族を馬鹿にされたことの方が大きいようだ。
「その子のことが心配なら、邪魔にならないように下がってなさい。急げばまだ助かるかもしれないわ」
「ナんナらとどめを刺してやってもいいんだ。犬畜生が人間様に盾突くのが間違ってるんだカらナア!」
煽る直武と、憤りながら、わたしの制止すらも押しのけて、立ち向かおうとする彼の襟元を掴んで強引に退かせる。
「安っぽい挑発ね。それより訊きたい事があるんだけどいいかしら。何故わたしではなく彼を狙おうとするの?」
ふん、と鼻で嘲笑う直武は対面する相手を見据えてか、芙蓉から足元を退いてわたしに向かって仁王立ちで立ち塞がる。
「我が皇の命により任務を遂行するまで」
「只の人間相手になにを求めてるつもり?」
わたしの質問がよっぽど可笑しかったのか。 ククク、と笑いを堪える様子は微塵もない。
皇とは直武を鬼へと変生させた張本人。
百鬼の一族が狙うは、その皇の首だ。
「百鬼のくせに何も知らないのだナ……マあいいさ。蓮白をヨこせ。邪魔するのならばオマエとて消して殺る」
直武が指差す先に、この状況に困惑した彼──蓮白龍がいる。只の人間相手にこうまで執着する理由はわからない。
「蓮白くん下がってなさい」
直武から視線を逸らさずに注意を促す。
どのような思惑があれど、私は百鬼として。
人に仇名す存在である直武を──鬼を滅すること。
臨戦態勢に入るわたしと相手とぶつかることはもとより承知。
「わたしは初めからそのつもりよ!」
「ひゃっはあッ!」
直武の奇声を合図に戦いが始まる。
飛び掛る相手の右掌打を見極め、身体を翻し、受け流すと同時に背中越しに体当たりする。
まさか生身で攻撃してくるとは予想だにしていなかったのか、相手は成すがまま、二、三歩後退した。
「はぁッ!? まさか肉弾戦で殺り合うつもりか。この俺にィ!」
呼吸を止め、直武を直視する。
耳に届く言葉よりも速い両拳の乱打を躱し、、相手の腕を利用して反動をつけて、後ろへと大きく後退した。
「──ふっ」
着地し、止めていた呼吸を軽く吐く。
相手の腕に一瞬触れただけで、変貌した肉体が凶器であることを実感した。それはもはや筋肉などと呼べる肉体の一部ではなく、鋼の鎧。先ほど一掃した巨漢の比ではない。
一撃でも喰らえば即死レベルというのも、わかっている。
私が踏み入れている世界は常に死と隣り合わせ。
そして直武はいわば三下に過ぎない。
只の人間である彼を鬼へと変生させ、堕落させた真の皇がいる。少なくともそいつを倒すまでに、やられることはわたし自身が許さない。
長引かせればこちらが不利と、今の攻防で悟る。
──ならば一気に終わらせる。
意を決して右腕をゆらりと肩まであげた。
「おいでなさ──っ」
「……待ってくれ!」
直武と戦うには生身では勝てない。巨漢と戦った時よりも強い武器が必要であった。
それを呼び出すのと同時に、予想外の蓮白くんによって止められる。
「どこかで訊いたことのある声だと思っていた。……信じられない。信じたくないけど、その話し方に、武蔵の制服。直武先輩なんじゃないのか? なあ──先輩。どうしてこんなことするんだ。一体全体どうしちゃったって言うんだよっ!?」
「ようやく気づいたのか蓮白。久しいナア。優しいお前は、そんなオンナよりも先輩の言うことを──聞いてくれるだろう? オレは、お前を呼びに来タんだ」
その巨木に似た腕が、彼を手招きしている。
直武が蓮白くんの先輩?
まったくの無関係だと思っていたのに、予想だにしていなかった繋がりがあった。
隣町から越してきた転入生。
武蔵学園の生徒同士。
不意に今日出逢った少女の言葉を思い出す。
『その制服って蓮花のだよねえ。かわいいなあ、私の友達もそこにいるんだよ』
『でも──お友達が転校しちゃってから、少し様子変わっちゃった』
『直武クンと雪菜の友達が蓮花にいるんだけどね』
「──如月、雪菜さん? あなた達知り合いなの?」
先ほどまで笑っていた直武もピクリとする。
そしてこの場を中断させた蓮白くんもまた、何故という顔をしていた。
「──ツナ先輩? 雪菜先輩を知ってるのか」
「今日偶然、ね」
ここまでの繋がりはもう偶然では済まされない。
雪菜さんの名前を出してから直武の動きが止まったまま、わたし達との会話を聞いていた。
「なあ直武先輩。何かの間違いだよな? 進学校で馴染めない俺にあれこれ親切にしてくれてたじゃないか! ……ツナ先輩だって、頼りにしてたのに。なんでウチのワンを! 見知らぬ誰かを傷つけたりするんだよっ!?」
その言葉が本当ならば、学園で見たときの直武とはまったく異なる印象で。彼は良き先輩後輩の仲だったのだろう。
「……桃木さんもさ。なんで二人が争ったりするんだよ。言葉で解決できないのかよッ?」
百鬼と鬼との戦いを。ただの人間でしかない蓮白くんは懸命に止めようとする。
仲裁なんて無駄なのに。
鬼に堕ちた者は二度と戻らない。
「先輩……悩みがあるなら訊いてやるって、助けてやるって言ってたじゃないかッ! 先輩が悩んでたら……俺すぐ駆けつけたのにッ」
どこに怒りをぶつけていいのか、わからない彼は手を震わせ戦慄く。
わたしはチラリと直武を盗み、見る。
あれほど牙が剥き出しに震えていた口元は、今は静かに閉ざされている。彼の声が届いていたのか、微動だにしていなかった身体を反転させ、後退した先で沈黙を破った。
「蓮白」
せんぱ──、声を紡ごうとした彼は口を閉ざす。
わたしは厭な予感がした。直武が止まった場所は……確か。芙蓉と彼の家族が倒れていたハズ。蓮白くんを押しのけて、いざ動き出そうとする足が地に張り付いて動かない。
──やめなさい、直武!
抑止するハズの言葉すらも声にならない。
足だけではない。頭も両手も全身がまるで凍りづいたように固まっている。
疾走すれば一瞬で止められる距離を、なぜか、わたしは動けずにいた。
「俺は悩む必要もナあい! これからは本能ノまま生きるッて決めたのさッ!」
「……やめろ、やめろ。……先輩、やめてくれ、やめろぉーーっ!!」
直武の手のひらに掴まれたのは彼の家族が、手中に握られている。まるで手のひらの赤子のようにも見える対比のなかで。
──にやりと、直武がほくそ笑む。
わずかに力が込められた瞬間、例えがたい音と共に、夜にも浮かぶ白い毛並みが真っ赤に染まる瞬間が、はっきりと目に見えた。
「──あ、嗚呼ッ。……あああ、あああッ!!」
大の男がその場に泣き崩れる。唇を震わせ、言葉にならない声で、声を張り上げた。
直武がその死体を、むざむざと蓮白くんの前へと投げつける。
物言わぬ、その亡骸を、愛しむように、忘れないように彼は抱きしめながら、咽ながら、力の限り、泣き続けた。
──わたしは、
──わたしはッ。
直武を止める力があったのに、それをしなかったのはわたしの過失。いや、止めようと試みたのに、身体が動かなかった。
力が入りすぎていたとか。そんな無様ではない。声すらも出せなかった現実に、今はやるせなさが漲る。
今は……と、自身の左手を握り締め、身体が動くことを確認した。
「……蓮白くん」
泣きじゃくる彼の耳には届いてないかもしれない。そしてわたしもまた、次の言葉が見つからない。
生まれて初めて抱いた罪悪感と現在まで、彼に対して何一つ、優しさを見せなかったわたしのジレンマ。
「……その、せめて仇はとってあげる」
それ以上、言葉は見つからなかった。それは慰めでもない。元よりわたしの本来の仕事なのだから。
「さてェ……と、オンナ。次はオマエの番だあッ!」
百鬼/肆 終