百鬼編/弐
夜想魁音と別れたあと、他の人より少し遅れて屋上へ来ると、数人の男女が昼食を広げていた。わたしは人目の付かない隅に移動して、お弁当を食べ始めた。
外は授業中も何度か見ていたように想像通りの暖かさが風と共に運ばれてくる。
ここからは教室から見る景色よりも遥かに街を一望できる。わたしの住むマンションの近くにある公園は一面桜色に染まっていて、その風景はどこまでも続く地平線のように広がっていた。
ご飯を食べてると仲の良い雀が二羽、餌を求めるようにわたしに近寄ってくる。鳴きながら、そのうちの一羽がわたしの肩へと飛び乗ってきた。
『ご報告です。昨夜起きた事件のほか、つい先ほど隣町の武蔵学園にて鬼の仕業かと思われる死体が出ました』
雀から聞こえるは芙蓉の声そのものである。
彼女の式紙としての役割は〝伝令〟
鬼への探索や偵察、情報交換する際にはこうして式である使い魔を使用する。
公衆電話はお金を使う手間があるし勿体無い。日増しに増え続ける携帯電話なんかは電波による盗聴が容易なのと、戦いになると邪魔になるため、そのような機器を使うことは滅多にない。百鬼に伝わる古来の秘術は文明の機器とは相性が悪いからだ。
『昨夜起きた事件は隣町である大洞市の民家から家族全員が殺されていました。血肉が現場に残っていないため、死因は不明。被害者の名前は──ササキ・ハルヒコ。ササキ・ヨウコ。ササキ・ユウキの三名です』
報告内容を聞きながら食事を摂る。
三人は──少ないなと密かに感じた。
『次に武蔵学園での被害報告です。屋上から飛び降りたと思われる生徒の身体から全身打撲と、両顎が砕かれていました。左右のこめかみには大きく穴が開き、脳にまで達していた為、脳損傷および多量の出血が死因に至ったかと思われます。名前は──キクチ・ヨウイチ。以上です』
屋上と聞いて、今わたしがいるこの場所から飛び降りる人の姿を連想した。地上へと落下するにつれ加速するスピードは止められず叩き付けられる姿を。
そして道具を使わずにして、人間を人間で失くす方法を持つのは鬼でなければ考えられない。
「全部で四名ね。把握したわ」
生を感じない無機質な雀は、伝令を終えると同時に空高く飛び立っていく。それが小さく見えなくなるまで見送ってから、再びお弁当の残りの後始末を続ける。
食事を美味しいと感じた事はこの方一度もない。砂を噛み締め、泥水で流し込む一連の作業に一言だけ呟く。
「────不味い」
その日の授業も終わり、帰りのホームルームを待つだけとなった。
午前中は無意識にも気になっていた隣の蓮白に関しても、午後にはすっかり関心を無くしていた。
戦いこそわたしの日常であり、鬼を掃除することが百鬼の宿命である。その日常の前に非日常な人に関わっている暇など、わたしにはないのだと改めて痛感したからだ。
ざわついた教室に担任の諏訪野先生が入ってきた。それを見た生徒は各自の席に着きホームルームが始まる。
いつもなら簡単な連絡事項だけで終わる筈なのに、今日はそれだけでは終わらない。
「──それとですね。今日の昼間、隣町で暴漢に襲われたという連絡がありました。犯人
は逃走して現在も捕まっていないとのことです。被害を受けた女性は怪我をして現在病院で治療中ということです。警察の方も見回りをしているそうですので、今日の役員会議は中止して後日行われます。部活動は一切活動を禁止し、生徒はすみやかに下校するよう心掛けてください」
春の大会も近いので部活動に所属する人々からは不満の声もあがるけれど、先生を責めてもしかたないので連絡はそこで終わりを告げるのだった。
そして芙蓉の話と内容が違う点について警察と学校側の情報操作は彼女に掛かれば一言で済む。
「それでは、皆さん。お気をつけて」
生徒ひとりひとりを一瞥して最後に注意を促す。暗黙のまま頷き、それを確認した松永さんの号令でクラス一同は解散していった。
わたしも席を立ち上がると同時に意外な人物から声を掛けられた。
「桃木さん。今日一日教科書とかありがとな」
今日から隣人である彼は律儀にもそれを伝えてきた。
「別に──わたしは何もしてないわ。それじゃあ」
事実わたしはただ教科書を渡しただけで、何か教えることも手伝うことも一切しなかった。
「ああっと、それと、さ。松永さんと藤沼が俺の歓迎会したいって言ってんだ。俺自身も世話になったし何かお礼したいしさ。桃木さんも一緒にどうかな」
一瞬だけ眉を顰める。
彼の表情から感じ取れるのは善意で誘っているのだろうということだけ。事の発端と思われる二人に目をやると松永さんと彼女の隣の席に座る藤沼くんがこちらをみていた。
「ほんとは委員会終わってからのつもりだったけど。予定狂っちゃったし、ちょっとお茶するくらいだから桃木さんもどうかなって。席が身近な者同士で親睦深めようよ」
わたしの手を取り、誘ってくる松永さんはいつもよりも一層強引だ。
「素直に女子一人で寂しいって言えばいいじゃんかよ」
そんな彼女の隣の席に座る日焼けした茶髪にソバカスの男子が茶々を入れる。
「藤沼は黙ってなさい。アンタなんてお情けで誘ってるんだから自分の立場わきまえなさいよね。今日の主役は蓮白クンなんだから」
きっとわたしを誘いたいのも本音で、何か口実がほしかったといったところ。どういうつもりでこうも接してくるのかわからないけれど、今後の事も含めてはっきりと態度で示してあげたほうがいいのだろう。
「お誘いはありがたいわ。でも遠慮しておきます。彼の歓迎会なら主役がいれば十分でしょう。
それにあなた達、先ほどの話聞いていなかったの? 危険だからすみやかに下校するようにって。松永さん、あなた委員長ならなおさら先生の注意を反古するような行動は慎むべきだと思います」
わたしの言葉にやっぱりなと、ぼやくのは藤沼くんただ一人。松永さんはわたしの言葉をどう受け取っていいのかわからないといった表情で。
もう一人に至っては少し寂しそうな顔をしていた。
松永さんならまだ理解できる。彼女は二年になってから十日かそこら、毎日声を掛け続けてきているから。それでもまともに相手にしないのにも関わらず、わたしはそれを突き放そうとしているのだから。
だけど何故、あなたまで寂しそうになるの? その言葉をかろうじて飲み込み、次の言葉を口にする。
「蓮白くん、お礼なら言葉で受け取りましたからそれで十分です。これ以上はありがた迷惑というのも覚えた方がいいわ」
「──っああもう、だから言ったじゃねえか。誘うだけ無駄だってよ。本人もこう言ってんだし俺達だけで行こうぜ」
藤沼くんは唇を尖らせ不満いっぱいの態度は隠す様子がない。
「そうね、今後の為にきちんと言っておきましょう。わたしを誘うことは無駄よ。どこに行こうと何をしようと興味もなければ友達という間柄にも関心がありません。わたしあなたたちの事なんとも思ってないから。今度からは他の友人でも誘うことをお勧めするわ。それでも遊びに行くのならばわたしは止めないけれど、それでも一応忠告しておいてあげる。近くで事件が起きたのだから素直に注意を受け止めておきなさい」
教室一帯にわたしだけの声だけが響き、誰もが口を閉ざしていた。ぎゅっと鞄を握り締め少しだけ返答を待つ。
教室に残っている生徒からも視線が集まるのを肌に感じるけれど、彼ら三人は何も言わない。
短い沈黙は言う事がないのだろう、と一人で納得して振り返ると同時に呼び止められる。
「桃木さん」
そのまま無視することも出来たけれどわざとらしく溜息を吐いて相手の出方を待つ。
声の主は蓮白くんだったようだ。不安や憂うといった類の顔つきからはっきりと意思を込めて力強く眉をひそめ、黒い瞳と言葉がわたしに向けられた。
「忠告は受け止めとくよ。でも俺まだ知り合って半日の友人。──クラスメイトの気遣いも無駄にしたくない。あんまり遅くならない程度に気をつける」
彼は一度そこで言葉を止めて溜めをつくる。
きっと誰もが彼を見ていたと思う。
「それと桃木さんがなんとも思わなくてもさ、壊れない関係ってあると思うんだ。友達が無理でもさ、クラスメイトとして一年よろしくやっていく訳なんだし。今日は無理でもいつか一緒してくれる日が来るのを信じてるからさ」
蓮白くんの台詞には根拠もなにもない、ただの戯言だと聞き流せばいい。普段ならなんでもない言葉に胸の奥から、ざわりと蠢く何かを感じる。
何も知らない人間が、わたしの何を信じるというのか。今日この学園にやってきて、勝手に人の前に現れといて、半日かそこらで、そんな言葉を投げかけられるのか。
これしきのことで心を掻き乱されているわたしは自分を許せない。
「……話にならないわ。これだけ言ってもわからないなんて話すだけ時間の無駄なようね」
──失礼します、と同時に教室の出入り口に立ち竦んでいた誰かとぶつかりながら、その場から逃げるようにわたしは出ていく。
背後に彼の声が聞こえた気がしたけれど、耳にするような事ではないと確信して立ち止まらずに階段を降り、外靴に履き替え学園を後にする。
気付けば歩む足取りは早く、軽く息を乱していた。
何を急ぐ必要があるのか。何かから逃げるように? 違う。わたしは逃げてなんかいない。
忠告も、遠巻きに警告も促しているのに聞き入れない相手に何を言っても通じる訳がない。
わたしの使命は鬼殺しであって、彼らのケアをする必要などどこにも無く、言われるがままに任務をこなすだけでいいのだからだと自分自身に強く言い聞かせた。
学校を出てからはそのまま調査に入る。捜す相手はもちろん人を殺したと思われる正体。
本物の鬼事の始まり。
まず昨夜被害の遭った隣町の大洞市へ向かうのに坂道を下った先にある学園前のバスに乗る。
移動中は少しモヤモヤとしたものが胸の中で乱れていたけれど、仕事は仕事だと切り替ると、自然と渦巻いていたものは徐々に消えていた。
移動に徒歩と民間バスを利用するのは、わたし自身を餌にして、相手を誘き寄せるというのが主な理由。人を好む物の怪ならば人間。それも女性はかっこうの餌食になるのは変質者も鬼。どちらも一緒であることが多い。
十五分ほどバスで移動して。ようやくたどり着いた大洞市のテレビ塔付近で降りる。
さてと──周囲を見渡すと小さいながらも観光地でもあるので、昨夜被害があったとは思えないほどに人で溢れている。とても一年前このテレビ塔付近で大きな事件があったとは思えないくらいに。
パトカーが途中なんどか見掛けるものの、学生の大半は事件のことを知ってか知らないのか。普段通りに下校する者、親しい友人や恋人と遊びにいく者など多数見かけた。彼らは己の身に災いが降りかからないであろうと高を括っているかもしれない。
そうして観察していると、一羽の鳩がわたしに近づいて、首を何度も住宅街の方へと傾げる。芙蓉の伝言だ。その鳩に案内されるように黙って歩く。
信号をいくつか渡り、郵便ポストを曲がった先に年季の入った一軒の建物が見えてくる。
伝言鳩は家の周りを一周飛び回ってから、姿を消す。どうやらあそこが目的の場所のようだ。
家の付近には警察官が一人。立ち入りを黄色のテープで塞いでいる。中を見るには邪魔なので彼女を呼び出す。
「芙蓉おいでなさい」
その一言で、飛び去った鳩ではなく、着物姿の芙蓉が現界に音も無く降り立つ。
「中に入る。暗示の方をお願いするわ」
返事はなくともコクッと小さく頷く。
無作法に芙蓉は警察官へと近づいていくと、相手も芙蓉に気づいたのか、ストップを掛ける。
「ただいま住民の方以外は……」
「スズキイチロウは『何も視えない』」
芙蓉の無機質な声が響く。
警察官の額に、中空に文字を描き、その指が触れた状態でそれだけを言葉にする。スズキイチロウというのは、今ここにいる警察官の名前だ。彼女は既に調べ、彼の真名を支配した。
宙に描いたのは本字。
鈴木一郎とか市郎、一楼かもしれないけれど、そういった戸籍上の仮名ではない、本物の名前が存在する。真名を呼ばれたもの、本字で描かれた人間は呼ばれたものに支配される。支配された人間は術を解くまで、術者の命令に絶対だ。
そうしてスズキイチロウは、何事もなかったように立ち位置に戻り、警備を続ける。
「芳埜様。どうぞ」
目の前にいる芙蓉の姿も家の中に侵入するわたしの姿もまるで見えていない。
さてと──家の目の前で、わたしは切り替える。
瞳を閉じて、瞳の奥を揺るがせた。
視界は陽炎のように揺らぎ、目に映る世界を色そのものを反転させる。それが霊視。
肉眼では映らない魂の色を視る。
反転された世界では建物や景色は白と黒。
肌黒かった警察官はまるでマネキンのように白い肌に真っ黒の眼球と反転された肉体に宿すは、青い魂。
人間の魂は青白い輝きを放ち、炎のように鼓動にあわせ小さく揺らぎ続ける。
その炎が消えた時、人は死ぬ。
人の寿命を表した蝋燭のようなものだ。
わたしが視たいのは、ここで起きた魂の残滓。
事故や寿命で死んでしまった人は大方は成仏する。時間の程度に差はあれどそれは間違いない。
しかし人外、外法、魔術や魔法などと言った人の理から外れた方法で死を迎えた場合はその限りではない。
わたしはこれからここで死した魂の存在を確認する。
家の扉を開けると、まるでインターフォンで呼び出されたように戸の奥からのそのそと歩いてくるのは家の主。彼ハルヒコは突然逃げ惑い、廊下のところで足をもがれる。動けなくなった後に聞こえない叫びを張り上げながら、不可視のナニカに一握りで潰された。
家の主であったササキハルヒコは、何度も行動を繰り返す。呼び出され、逃げて追われて、助けを求めても届かないまま、絶命するまで。ハルヒコの魂は永遠に彷徨い、もがき苦しむ。この家で起こった出来事が彼にとっての地獄だ。
血まみれと残がいになった奥へと進み、リビングから何事かと駆けつけたササキヨウコは両手で口を押さえ、ハルヒコの名前を呼ぶ。
あくまでわたしに視えてるのはそうした残滓であって、声までは聞こえていない。けれど読唇を見ればわかる。
泣きながらヨウコは動転していた。逃げたいけれど、旦那を放っておけない。そんな愛に溢れたまま、彼女はなす術もなく肉塊へと成り果てる。ヨウコもハルヒコ同様に同じ場面をなぞるように巻き戻されたビデオのように繰り返す。
一階には他の姿が見えないので、二階へと上がっていく。階段はまるで大男が踏み潰したようにズタボロだ。
二階の子供部屋には、うずくまったままのまだ幼い子供がいた。ぬいぐるみを抱いたまま、父と母の名前を泣き叫ぶ。
──こうした人の理から外れたものは救われない。成仏も出来ない、生まれ変わることも自分を苦しめた相手を呪うこともできず、永遠に地獄を苦しむ。
そうした被害を出さないためにも、わたし百鬼の存在がある。
今回の目標は、人を人と思わない残忍な鬼の仕業だと確信した。
百鬼/弐 終