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百鬼編/壱

「雪月花 ~ 桜の樹の下で ~」



 死を覚悟した。

 この世の物とは思えない狂気を前に、人はあまりにも無力な生き物だと悟るのに時間はかからなかった。

 疾風のように吹き荒れるそれは立ち止まることを知らない。

 逃げることで死を回避できるものならば逃げている。だが、人が走る速さの限界などたかが知れていた。

 そのむき出しになった刃を雷の如く、迸らせると一帯には血の雨を降らせる。

 狂気という名の災害の前になす術もなく諦めて、その場に座り込んで観察を続ける。そこでようやく気づいた。


 疾風の正体は、一人の少女。


 漆黒の髪は絹糸のようなしなやかさで、風に舞う雪のように揺れている。

 闇夜に浮かぶその白い手は、まるで月のように眩しく。

 小さな唇からそっと零れる吐息は花のように甘い香りを漂わせてるに違いない。

 ──そうして。

 俺の視線に気付いたのか。

 もしくは標的がこちらに移ったから、振り向いたのかは定かではない。

 二人の間を遮るものはなにもなく、ただ見つめ合うだけの静寂の時間。


 輝きが満ちる月の下、天女を連想させるような透き通る真珠色の羽衣が風に流されて天高く舞い上がっていく。

 揺れる長い黒髪は川のせせらぎのように流されるまま、押さえる素振りすら見せず。

 さらさら、ときっと耳を澄ませばそう聞こえるに違いない。

 樹々はざわめき、桜の花が舞い散るさなか。

 そんな彼女をみて思わず──、


「綺麗だな」


 ただ純粋に思った事を口にしていた。

 目の前の少女に聞こえたのかどうか、わからない。

 誰も彼もが目の前で殺された状況で、逃げるわけでも命乞いをするわけでもない自身の発した言葉が意外だったのか、ほんの少しだけ黒い瞳が見開いた気がした。


「あなた──変わってるわ」

 

 鈴のように消え入りそうな声で彼女はそう呟く。

「この世の最期に、言い残したい言葉があるのなら聞いてあげる」

 突きつけられた刃には一滴ひとしずくの曇りすらない。

 念願叶うときが来たか、と笑みを浮かべる自分がいた。

 そして死した後でも、月夜と桜の下で朽ち果てるならば、


 ────それも悪くない。


 それ以上の言葉なんて必要ない。

 最後に己の瞳に綺麗なものだけを映して、

 焼き付けようと目の前の彼女を死の瞬間まで見続ける。

 その姿は灯火が消えかけそうなほど、儚く、虚ろなものだった。



                         百鬼/壱



 その日も目覚ましが鳴り響く前に目が覚めた。

 なにか懐かしい夢を見ていた気もするけれど、寝ている時に見る夢ほどおぼろげで儚いものもないから、すぐに忘れた。

 時間にセットされた時計を先に止めて、寝巻きから制服へと着替えていく。


 カレンダーの日付には『四月十四日』という黒文字が目に入る。視線を移して化粧台に立てられた大きな鏡に映るわたしを覗き込む。

 顔の表情すらもその長い黒髪で隠した無愛想な自分わたし

 もうどのくらい笑ってないのか。

 ううん、笑うだけではない。

 泣くことも怒ることもずいぶん昔に忘れてきた。そうして考えに耽っていると部屋の外に人の気配が近づいてくる。

 時計を見ると午前六時半きっかり。

 ドアを軽くノックし、控えめな声が掛けられる。


芳埜よしの様。起床の時間です」


 告げるその言葉は毎日同じ時間。一字一句、ほんの数秒さえずれることなく、言い間違えることもなかった。


「既に起きています。準備が出来たら向かうので下がっていいわ」


 かしこまりました、と呟きながらドアの向こうでもきっと深く礼をしていると思う。わたし自身も無愛想ならわたしの周りにいる人たちも同じような人種ばかり。

 髪はつげ櫛で軽く梳かすだけにしておき、適当に済ませてからカーテンを開ける。

 窓の外に広がるのは平穏な日常。

 マンションの七階から見える景色の中には既に学校へ登校する生徒の姿や仕事へ向かう人たちも珍しくない。

 そうやって何かのために過ごせる人たちが少し羨ましい。


 わたしには、こうして準備をして学校に通うことも本当は無駄なことで。それでも表向きという形だけで登校し、普通に学校に通う生徒として振舞うフリをし続けてる。

 この蓮花台れんかだいの街にある蓮花高等学園に通うわたし桃木ももき芳埜よしのには『何も』ない。

 両親が居ないとか、友達がいないとか。どちらも本当のこと。友達がいないなんてわたしが遠ざけているから当たり前。

 そういう何もない、という次元の話ではなく、言葉にするとわたしは鎖に囚われた犬のようなものだ。

 あるじの命令は我が一族に課せられた使命であり宿命でもある。


 〝鬼退治(おにたいじ)


 鉄の乗り物が地上を走り、空を飛び、ボタン一つで生活のほとんどが成り立っているこの現代に、何を時代錯誤なことを述べているのかと、わたし自身思うけれど事実だから他に言い様もない。


 人に仇なす存在は古来より確かに存在していることは昔話や伝奇で語られているとおり。

 実際には人の世を脅かす魑魅魍魎を退治する。その中で専門としているのが鬼である。

 わたしの一族はその最たるもので、語られる話の中でも明確に退治を目的として表現されている。


 代表的な逸話は桃太郎。

 桃から生まれた桃太郎は都を脅かす鬼を退治するために、彼らが住む鬼ヶ島へと旅立つ。

 道中。いぬさるとりの三匹を従え、たどり着いた島の鬼を一掃し、彼らの持つ財宝を持ち帰り、お爺さんお婆さんと仲良く幸せに暮らしました──ってね。

 そんな嘘のような抑止の寵児を生み出した我ら一族を百鬼ももきと呼ぶ。

 朝起こしに来た人だって親でもなんでもなく、わたしを監視する為の一人に過ぎない。生活の世話をするのはわたしが餓死しないようにするための見張りで、食べないものなら無理矢理口の中にねじ込まれた。

 それっきり無駄な争いはしたくないので、今日も仕方なく朝食を食べにリビングへと向かうことにする。


 既に食卓には既に朝食が並べられていて。

 見栄えは良くても、どれも無機質な空気が漂うのは気のせいではないと感じるのは、それがただ栄養を摂取するためだけの儀式と同じだから。

 何一つ残すことは許されず。健康管理から生理周期まで関与する徹底振りには辟易する日もある。

 わたしが並べられた食事を全て食べるまで、女性は一言も喋らない。ただ瞳を開けて、直立不動のままわたしを見守るだけ。

 最後の一粒までしっかりとかみ締めて飲み込む。そんなわたしを見て何を考えてるのか、さっぱりわからない。

 機械的なのはどちらも同じ。

 わたしが食べ終わり、身支度を整えて玄関に向かうまで女性は後ろを影のようについてくる。手に渡されるのは今日の分の用意がされた学校指定の鞄を渡されると同時に彼女は口を開く。


「芳埜様、昨夜西区の方で複数の被害が出た模様です」


 この街で動けるのはわたし一人。

 自分の睡眠時間を削ってまで対処するような正義感まで持ち合わせてるわけではない。


「学校が終わり次第、様子を見るわ。被害者たちの事がわかり次第、伝令を頂戴」

「承知しました。それではいってらっしゃいませ」


 マンションの一室を出て、ドアが閉まるその瞬間まで礼の形は一切崩さない。

 今の世の中に生まれてから、ずっとわたしを監視続ける女性の名は芙蓉ふよう。年齢は二十代後半から三十代前半といったところ。日々違う着物を着用している以外は、十年以上見た目が変わらない。彼女自身も十二あるうちの式の一つに過ぎないから感情移入を持つこともありえない。

 

 外に出ることで圧迫された気持ちから少し楽になる。

 わたしの住んでいるマンションから学校まではほぼ一本道。

 赤から青に変わる信号を一つだけ渡って、自宅前の十字路を東に曲がった先に見える桜ヶ丘と呼ばれる公園を目指す。そこから先の長い長い坂道を上れば学校は見えてくる。

 まだ登校する時間帯には早いので同じように学校へ向かう生徒の姿は少ない。

 走り込みを兼ねてジャージ姿で駆け込んでいくのを数人見かける程度だ。

 この学園に通って一年。

 わたしは敢えて人を遠ざけて、距離を取る態度に近づく人はすでに居ない。ごく稀に話しかける人がいても丁寧に断ることにしている。

 だってわたしに関わるものなら、普通の生活には戻れないのに関わらせることなんて、できやしないじゃない。

 死と隣り合わせの生活の中で、友人というのは邪魔以外のなんでもないから遠ざける。

 わたしはそれを寂しいと思ったこともないし、これからも感じることなど恐らくない。



 高校生になり二度目の春。

 始業式はつい先週行われ、わたしは何の問題もなく二年生になった。

 学年イコール階数とわかりやすい教室配置。外靴から内履きに履き替えて階段へ向かう途中、

「おはよ桃木さん」

 と後ろから声を掛けられた。

 振り返ると同じクラスメイトの女生徒が一人そこに立っていた。同じクラスだということはわかっても、名前は未だに覚えきれない。

 もっともわたしは覚える気がないだけなのだけど。


「えっと──」


 わたしが言い淀んでいると、その女の子は腰に手をついて口を尖らせる。


「もうひどいなあ。松永まつなが真理まりよ。桃木さん人の名前覚えるの苦手だったりするのかな? もう一週間も経つんだし、せめて出席番号順のよしみでもいいから覚えてほしいな」


 ショートヘアを真ん中で分けた活発な彼女は明るい口調でわたしに文句を言う。


「教室まで一緒しよ」


 誰の断りもなく、わたしの横に並び歩き出し、教室にたどり着くまで二人とも無言のままだった。

 人を遠ざけても、近寄ってくる人物は多少なりとも居る。それでも三日も経ち、一週間も過ぎる頃には大抵諦めて構うこともなくなるけれど、彼女が諦める様子はいまだ見当たらない。

 新しいクラスの席順はあいうえお順で、マ行にあたるわたし達は窓側。つまりグラウンドと丘を一望できる教室の隅に位置する。

 彼女の間にマ行の女生徒はいないので、わたしとは前と後ろの座席。何かと関わろうと話しかけてくる数少ない人間で、どうしてそこまでわたしに固執するのか、正直わからない。


「それにしても桃木さん、歩くの早いねえ。サクラ抜けたあたりから見かけて、追いつくかなと思って駆け足で来たのに歩いてる桃木さんのほうが早いんだもの。びっくりしちゃった」


 〝サクラ〟 と略されたのは桜ヶ丘公園のことを示す。大半の生徒が通学路として通ってくるため、できる限り短い略称を……ということだ。

 彼女は自分の席に座り、対面するようにこちらに向き直るとそんなことを言い出した。

 歩くのが早いのは自然と早足になっているのかもしれない。見回りの時なんかは気配を殺して相手に近づかなければいけないことも多いから気にしたこともなかった。

「それなのに姿勢はびしっと背筋まっすぐでなんだかモデルさんみたいでね。ちょっぴり知り合いに似てる気がするんだあ。桃木さんお洒落とかしたら間違いなく美人さんよ」

 前のめりになるように覗き込んでくると、 顔が隠れるくらいに伸びたわたしの前髪を横にかき分ける。


「う〜ん、髪はさらさらだし。せっかく顔立ちも整ってるのに顔隠すの勿体ないよぉ。ねね、今度おやすみの日に美容室やウィンドウショッピングでもいかない?」

「休日は用事があるし、そういうのに興味はないの」


 わたしの返答に、彼女は少しだけ表情が曇る。それもすぐに気を取り直して明るく振舞った。


「そっか。無理強いはしないから、興味あったらいつでも声かけてね」


 誰かと出掛ける日が来る事があるのだろうか。

 もしこの世の鬼たちが居なくなり、わたし達の一族も不要になるような事態が起これば、もしくは──あるかもしれない。

 でも、そんなことありえやしない。人類に戦争や犯罪が無くなるのと同じくらいに。わたし自身の甘い浅はかな考えに、誰にも気付かれないように息を漏らす。


 

 時刻はまだ午前八時十分。教室の中はまばらのまま。わたしは話しかける彼女に耳を傾けず、窓の外のグラウンドの奥にそびえ立つ桜に目を向けた。

 この街のあちこちに立ち並ぶ桜は当然のようにこの学校にも植え込まれ、今日も綺麗に咲いている。始業式の二日前に咲き始めたから、残り一週間もしないうちに散ってしまうのだろう。

 皮肉にもわたしと同じヨシノの名前を持つ薄紅色のそれは教室から見えるものでも十分なほど色あざやかに咲き乱れていた。

 そんな桜を見ていると今朝見た夢を思い出す。わたしの中にある遠い記憶の中かは定かではないけれど、桜の樹の下で、誰かと出逢ったような──気がする。

 霧が掛かったようにはっきりとは思い出せない。どうせ夢の中の記憶なんて大したことじゃない。まして昔の話なら例え誰かと出逢ったとしても、その相手が生きているハズもないのだし。思慮に耽っていると、教師が一人入ってくる。


「おはようございます。皆さん」


 丁寧な話し方とその細い瞳で生徒に挨拶するのはわたし達の男性教師だった。

 担任の挨拶に教室にいる幾人かの生徒達はきちんと挨拶を交わす。生徒から嫌われず、親しまれている教師というのも今の世の中では珍しいかもしれない。


「おはよひつじちゃん。まだホームルームまで二十分以上もあるよ?」

「ええ、わかっていますよ松永さん。今日は転入生がこのクラスに入ってきますのでその準備をお願いしたいのですが、委員長として来て貰えませんか」


 年下相手にちゃん付けされても怒らず、教師としての用件を申し付ける担任。

 諏訪野すわのひつじはそれなりの年配だ。

 髪はあちこちに白髪が見え隠れしているけれど、口元のお髭は毎日手入れされているのか乱れた様子が見当たらない。


「おお、転入生? それは盛大に歓迎してあげなくちゃ。不肖ながら松永真理。このクラスの代表として精一杯頑張ります」


 先生の前に立ち、敬礼をする彼女は大げさに。でもどこか嬉しそうだった。


「ところでぇ。転入生は男の子? 女の子どちらなの。ひつじちゃん」

「男の子です松永さん。三年の学年にお姉さんも入るので一緒に登校してくるかもしれませんね」

「男の子! その子格好良い? それともかわいい系?」

「朝に紹介しますので、その時までお預けにしておきましょう。さて机や椅子など運ぶのを手伝って貰いましょうか」


 いえっさー、と掛け声と共に諏訪野先生と教室を出て行く彼女。

 この学園は男子より女子の方が人数が多い。全体の割合で言えば六対四。必然的に割り振りも女子が多いクラスも出てきてしまう。

 その煽りを受けて番号の若い生徒は男女同士で席を並べているけれど、わたしを境に隣は空白のまま。女子同士で席を並べるという提案も出たけれど、クラス替えもあったばかりということなので、次の席替えの時までと保留されたのだ。

 わたしは一人の方が何かと好都合なので現状のままの方が嬉しいのに。気付けば教室は転入生の噂話でもちきりだった。

 わたしはその空気が馴染めずに、左手に顎を乗せ、再び外の桜を眺めることにした。



 ホームルームまでの時間、教室はいつもよりうるさいほど賑わっていた。

 男子は同性かと残念そうにしていたけど、それと同時に女子に対抗するための新しい戦力になると期待もしているようだ。

 くだらない男子と女子の争いは今のところ女子が優勢で、立場的に男子は扱いが小さい。

 もちろん争いとは険悪な喧嘩のようなものではなく、子供染みたライバル心のようなもので、何かと行事やテストがあれば勝負をするといったものである。

 いい方向にことが運んでいるため、人の良い諏訪野先生も止めることはしない。

 始業のチャイムが鳴り、先生と一緒に入ってくる男子に皆の注目が集まるのか、歓声が室内に響く。


 わたしは一切興味がなく転入生に目もくれず、ホームルームが長引くのだけは勘弁してほしいな──と、ひそかに思いながら、また外の景色を観察していた。

 教室の窓は開いていて。快晴が広がる住宅のどこかから、子供達の声が。桜並木を散歩する老夫婦なども見かける。

 そんな平和そうに思えるこの街のどこかにも鬼がいる。

 昨夜被害が出た、という芙蓉の今朝の言葉。

 どのくらいの被害が出たのか。ただそれだけが気になった。

 わたしがやることは何も変わらない。

 邪魔な存在を滅する。それだけが百鬼の使命なのだから。


 

 ──そうして。

 ふと目の前に気配を感じて見上げると、見知らぬ男の子が立っていた。


「ああ──っと、今日からよろしくな」


 笑顔で挨拶すると机をわたしの横へと並べてるのだった。どういう経緯でそのような状況になっているのか飲み込めない。わたしの驚いた顔をみて諏訪野先生はにこりと微笑みながら、


蓮白はしろくんのお世話をお願いしますね、桃木さん」


 ──と、わたしの了承なしに周りは話を進めていたようだった。

 どうしてそのような事になっていたのか。 その原因らしき前の席座る人物──松永真理は一人声を殺してクスクスと笑っていた。


「ほんとはね、ワタシの隣がいいんだろうけど、藤沼が既に隣にいるしね。委員長の座席の近くなら何かと都合もいいだろうし、ってことで先生にお願いしたの」

 そんなことを耳打ちするように、転入生に聞こえないように言うのだった。反対するのも馬鹿馬鹿しく、わざとらしく大きく溜息を吐いてから、改めてその転入生に視線を移した。


 ゆっくりと見上げていく。

 わたし自身にそんなつもりはなく、いつものようにやり過ごすつもりだったのに心がざわめく。自分の呼吸をするのを忘れるほど、時間の流れも止まるような錯覚に陥るのも一瞬。

 男の顔はどこにでもいるような顔つきだった。真っ黒な髪は癖毛なのか突き刺さるような直毛で。瞳は揺れ動くようなことはなく、割と整った鼻立ちも、唇も決して珍しいものではない。

 初対面な筈なのにわたしの心が動揺しているのか胸の鼓動が耳に聞こえそうな程、大きく高鳴っていた。

 一目惚れとか、誰かを好きになるようなそんな感情は持ち合わせていない。人に好かれる事のない人間がどうして好きになろうか。


 それでも震える自分を抑えられないまま、訳もわからず瞳の奥から溢れ出すものを感じた。

 それは──

 もうずっと表に出すことがなかったわたしの感情なみだ


 自身の身体に問うように、今までの記憶を探り出す。

 過去にどこかで関わってきた人物?

 思い出せないだけなのか、でも相手もこちらのことを知る由もない。

 こちとら幼少期より鬼退治をしてきたのだ。

 誰かと関わる、親しくした記憶はない。


「えっと。自分、なんかしたかな」


 目の前の男の子は、うろたえ出す。

 小声なのはわたしが泣いていることに対しての気遣いなのかどうかはわからない。

 相手に表情を読まれない為に髪を伸ばしていたのに、こうして気付かれては意味のないものになってしまった。

 そして彼のその言葉に幾人かがこちらに視線を配る。


 だいじょうぶ、涙は零れていない。


 目じりに溢れる程度でわたしはなんでもないように指でそっと拭い去った。


「なんでもないわ……こちらこそ、よろしく」


 狼狽していた彼はそっか、と納得してかしないでか。それ以上追求するようなことはなかった。手を差し伸べられたけれど、わたしは応えることなくそのまま着席する。

 どんな理由があれ、わたしが人と馴れ合おうなど思ってはいけない。

 表の世界は眩しすぎて、闇に生きるわたしが住みづらくなってしまうのだから。


 ──その後。

 特に彼と接することなく、昼休みになった。

 何度か話しかけられたけれど相手にすることもなくその場をやり過ごした。

 教科書がない、と言うことで教科書ごと彼に差し出す。最初は困っていた様子だったけれど、授業が終わる度に律儀に礼を言われていた気がする。

 そう、気にしないようにすればするほど内心ではひどく気になっていたのは否めない。

 他の人と同じように接しているつもりではある。今まで冷たくして人を遠ざけて罪悪感や嫌悪感を感じることは一切なかったのに。


 彼──蓮白はしろりゅうに関して、なにか別の感情が揺れ動いているのを感じている。

 少なくともこの世に生を受けて初めての出来事に、森の中から潜み、探るように観察しているわたしがいた。

 そんな彼もクラスの男子に昼食を誘われて教室を出て行ったのを確認してから、わたしも教室を後にした。

 お弁当を渡されているので、どこかで片付けなければいけない。残して帰ったり、どこかに捨てたりすればその分が倍になって返ってくるのでそれはできないから。



 少しだけ考えて──今日は屋上で食べることにした。

 購買で飲み物を買ってから、階段を上り三階にたどり着いたところで思わぬ人物と遭遇する。その相手は学友らしき人物と学食の為にちょうど降りようとしていたところらしい。

 こちらに気付いてか、相手も一歩足を止めて声を掛けてきた。


「こんにちわ、ヨシノ」


 満面の笑みを浮かべてわたしの名を呼ぶ。

 眩いブロンドの髪をかき上げる仕草と人目を惹くほどの美貌の持ち主は日本人ではない。

 折れそうな程の腰とすらりと伸びた脚は女性の嫉妬と憧れを集めるほどらしく。故に彼女を妬む女子も少なくない。


「──こんにちわ、夜想先輩」


 少し躊躇してから止む無く返事をした。

 金髪の正体である夜想やそう魁音かいんは、この学園の三年であり、現生徒会長を務める。

 この学園で──いや、この街はおろか世界で夜想の名を聞かない日がない。経営する会社は世界有数の一流企業。まだ学生の身でありながら、世界に夜想の名を轟かせた張本人でもある。

 彼女の容姿や家柄はさておいて、普段なら一番関わりたくない人物である。

 挨拶したっきり、互いに話しかけるようなことはない。

 ただでさえ今日は相手にするような気持ちではないのに、まるで追い討ちを掛けられたような気がして心が滅入る。

 そこへ隣にいる見慣れない人物が夜想に話しかけた。


「おい、魁音。この子はオマエの知り合いか?」


 ぶっきらぼうに物を訪ねる彼女もまた制服のリボンを見る限り夜想魁音と同じ三年であり、スカートを着用していなければ美青年と見間違えるほどの端整な顔立ち。フレームのない眼鏡の奥に宿る瞳は強気な性格を表していた。


「──ええ、二年の桃木芳埜。こちらは今日転入してきた蓮白はしろ古都ことよ。よければ覚えてあげて」


 はしろ、と聞いて思わず呟いてしまった。


「あら、既にご存知? 相変わらず情報が早いのね」

 その言葉とは裏腹に驚いたような素振りは微塵の欠片もない。


「いいえ。わたしのクラスにも同じ転入生が入ってきましたのでご家族の方かと──」

「ああ、タツと同じクラスなのか。姉の古都だ。弟共々よろしくな」


 〝タツ〟 と聞こえて一瞬、別人のことかと考えて、龍という字面からタツと呼んでるのだと気づくのに時間が掛かった。。

 蓮白古都は、眼鏡を立て直してから手を差し伸べた。今日はやけに人に関われる日だと思い、軽く溜息を吐く。

 なんとなく。なんとなくだけれど、この瞳を見ると自分に似た空気を感じて思わず胸の辺りが胸騒いだ。


「すみません、お昼もまだですのでこの辺で失礼します」

 小さく礼をして、その場から離れようと隣を通り抜ける。


「相変わらずですのね。ごめんなさいね古都。この子人見知り激しいの」

「ん? 別に気にしてないぞ。生き方はそれぞれだしな。変に馴れ合うくらいならハッキリと態度で示してくれた方がオレは好きだ。

 芳埜とか言ったっけ。アイツ、なんとなくオレと同じ匂いがするよ」

 女性でありながら一人称をオレと呼ぶのはあまりにも本人に似合っていて。後ろの方で聞こえたその台詞はとても初対面の人間に対する返答ではない。

 ──だけど声にこそ出さないけれど、その考え方は同感だと、心の中でそっと囁いた。



                              百鬼/壱 終


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