★第七部★
研究日誌 34○×日
研究施設の移転はスーパーコンピューターの入れ替えに際して随時行われていたが、これが思わぬところで幸いした。先日、メビウスループシステムプロジェクトの研究母体である親会社に強制捜査が入り、数ある非合法の研究のうちの一つが暴かれ、表面的な破綻に至った。組織が消滅したことで研究チームは事実上の解散に追い込まれた。が、そこは如何せん非合法の研究である。スポンサーには事欠くことなく、大企業の名を傘にした最新の施設への移転が約束された。移転に伴いチームの再編が行われると、私は真っ先にこのプロジェクトへの継続的な参加に手を上げ、研究長に抜擢された。これからは私の主導でプロジェクトを進められるようになる。未だ前途は多難であるが、一つ一つプロジェクトは課題をクリアしていっている。
必ず私は「メビウスループシステム」を完成させる。
命の尽きる前に。
湯涼みに来た夜の川辺に、蛍の光がところどころに滲んだ。研究施設の移転に伴う移行期間で、マツナミとナルミは温泉旅行に訪れていた。観光地の何もない、温泉と自然しかない田舎に二人は宿を取った。
「見てみて、あそこにも」
宿の浴衣を借りたナルミは、覚束ない足取りでその儚げな光を追いかけた。夜だと言うのに辺りは月明かりに照らされ、畦道に茂る草花は艶やかに照っていた。雨上がりの、冷たい風が彼女の黒髪を揺らした。
「子どもの頃、家の近くに蛍っていた?」
その問いにマツナミは首を振った。彼は蛍を自分からとても遠い存在に感じていた。都会に生まれ育った彼には、生まれてこの方、蛍とまるで接点がなかった。だから、少なからずその幻想的な光に心が動かされた。
「私も、都会っ子だから、実は今日が生まれて初めてなの」
ナルミの瞳は白光に煌めいていた。しゃがんで動かず、慎重に葉の先に手を添えると、警戒心の乏しい蛍が彼女に乗り移ってきた。
「捕まえてかごにでも入れるか?」
「いや、そんなの」
何の気なしの質問に、彼女は慌ててその虫を遠くへ飛ばした。
蛍は飛ぶのが遅い。ゆっくりとナルミの周りを仄かに照らし上げていく。
「ずいぶんのんびりしているのね。人が来ても怖がらないし」
「きっと、まだ人間の怖さを知らないんだろう」
「人の怖さを知ったとき、この子達はその姿を消すのね」
ナルミは遠い目をしてそう言うと、光に誘われるままフラフラと歩いた。そういえば、似ている。マツナミは彼女の姿を蛍の飛ぶ姿と重ねる。いつもどこか掴みどころがなく、儚げで、疑うことを知らない。いい意味でも悪い意味でも無垢。だから心が押しつぶされてしまう。
「もう帰ろう。だいぶ冷えてきた」
そう言ってマツナミはナルミの肩を抱いた。夢中になった彼女の細腕に濃い鳥肌が浮き出ていた。夜風を吸った肌が冷え切っていた。
旅館に戻った二人は再び温泉に漬かり、食事を済まし、長い夜を過ごした。マツナミはナルミを抱いた後、彼女を起こさないよう気をつけながら窓辺に腰掛けた。ナルミの肉の削げ落ちた体の感触がまだ抜けきらない手で、彼はビールのグラスを傾けた。遠くの沢からせせらぎの音が聞こえてくる。無数の虫の鳴き声が折り重なって耳に届く。却ってそれが辺りの静寂を色濃くしている。
「眠れないの?」
月光が照らす濡れ縁の奥の、ひどく濃い影から声が上がった。
「なんだ、起きてたのか」
マツナミは濃い闇に向かって微笑みを向けた。
「いなくなっちゃったかと思った」
「そんなことないよ」
「もうすぐ私達、離ればなれになるのよ」
「どうしてそんなこと言う」
「わかるの」
ナルミの最後の言葉にマツナミの神経が鋭く反応した。それは彼女が発作的に自傷行為に走るとき、決まって口にする言葉だった。
彼はグラスを置き、横になっている彼女のそばに腰掛け、その頭を撫でた。
「大丈夫、俺はここにいるよ」
「どこにも行かない?」
そう問いかけた彼女の表情を窺い知れないまま、マツナミは、ああ、とだけ頷いた。
頭を撫でていると、彼女は再び消え入るような寝息を立て始めた。マツナミの危惧は杞憂に終わり、彼も安堵と共に睡魔に引き込まれていった。
旅行から帰宅した明くる日、マツナミが仕事から戻ると、ナルミはその命を絶っていた。
乱された形跡のない部屋に、一枚のメモ書きが残されていた。
【さみしい】
メモにはその一言だけが走り書きのように記されていた。