★第五部★
研究日誌 23○×日
遺伝子情報の電子化に成功したところで、それに質量を持たせることは現状、不可能に近い。素粒子に質量を持たせる役割を持つ素粒子の謎は未だに多く残されたままだ。計画は頓挫している。しかし諦めるわけにはいかない。私にはナルミを元に戻すという使命がある。科学は日々、進歩している。仮説を虱潰しに試していく一日一歩の精神と、それらを飛び越える革新的なアイデアに基づいた実験を同時に行うことが必要だ。どちらか一つでは、恐らくこのプロジェクトは成功しないだろう。今はまだ、信じるしかない。
ナルミの待つマンションの一室に戻ると、玄関に活けてあった一輪のダリアが花瓶ごと倒されていた。床に散った一輪挿しの破片を避けつつ、マツナミはリビングへ急いだ。
「ただいま」
ソファで横たわるナルミに声を掛けると、千切られ放られた本の残骸で埋め尽くされた床を歩いた。
「大丈夫かい?」
自らの肩を抱く手が震えている。拳の皮がズルりと剥けていて中から骨が見えているのがわかる。ところ構わず拭いたようで、血液がそこら中に付着していた。
マツナミは救急箱を取り出し、包帯を探す。動かない彼女の背中が呼吸のたびに膨らむことに安心する。彼は平静を装って傷ついた手をとり、包帯をあてがった―――その時、ナルミが勢い良く飛び起き、彼の懐に体をぶつけてきた。限界以上の力で掴み、マツナミの体を激しく揺さぶりながらナルミは何か訳のわからないことを叫んできた。ひどく苦しそうな顔で。彼は暴れる彼女の体を強引に押さえ込み、その自由を奪った。ナルミは体全体を耐え難いように振るわせた。焦点の合わない視線で彼を貫き、加減知らずに唇を噛んだ。マツナミはその眼差しと、まもなく浮き出た黒に近いとても濃い血の色を見ていた。
しばらく自由を奪っていると、突然、糸の切れた人形のようにナルミは脱力した。痛みで意識が遠のいたのか、暴れて力を使い果たしたのか、とにかく彼女は眠りに堕ちた。ナルミの発作はマツナミと付き合う前から見え隠れしていた。モノに当たり、自傷行為に走る。それが次第に顕在化してきたのは明らかだった。
意識のないうちに掃除を済ませた後、マツナミはナルミの体中の怪我という怪我に応急処置を施した。至る所に切り傷、擦り傷がある。打撲の青アザは新しいものから消えかかったものまで。ひと月前には肋骨が折れた。筋肉がない体に無理な付加をかけると、肋骨はいとも容易く折れるものなのだと知った。細い体だった。知り合った当時より遥かに痩せたその体は、艶がなくなり、ひび割れていた。マツナミが愛した黒髪は短く刈られ、かつての面影もなかった。彼は愛おしそうに、短くなったそれを撫ぜる。
「私、またやっちゃったのね」
いつからだろう、目覚めたナルミがマツナミを見上げていた。目がうつろで、時折、痛みに顔をしかめながら彼女は泣いた。
「ごめんね」
消え入りそうな声で謝られると、彼は居場所がなくなったように心寒い気持ちになる。無言で首を振る。ありったけのやさしさを顔に浮かべて。ごめんと言われると心の中に潜んだ恐怖や不安が見透かされているようで、マツナミはナルミから目を逸らしてしまう。
「もう立てるわ」
彼の腕をそうやって彼女はすり抜ける。台所に立って、何事もなかったかのように冷蔵庫の中身をチェックする。包丁を取ろうとするも、拳が壊れて握れなかった。
「大丈夫」
マツナミは立ち尽くすナルミを慰めることしか出来なかった。
「大丈夫だから」
包丁を手から取り、後ろからゆっくり抱き締めると、彼女はまた、ごめんと謝った。