★第四部★
研究日誌 123○×日
ナルミが生き返った。心肺機能は正常そのもの。順調であれば三十年前に遺伝子情報を取得した時の状況に全てが戻っているはずである。体だけでなく、記憶も当時のままであること。これが瞬間復元と並び、「メビウスループシステム」が他のクローン技術と一線を画す所以である。従来のクローン技術では、自らのクローンで後継を作り出そうとした場合、それなりの時間が必要であることに加え、思想教育を施した上でも微妙な人格の差異が生じてしまう点に難があった。二つの難点を解決する画期的な研究として進められてきたこのプロジェクトも遂に最終到達点に達した。一つの細胞には遺伝子情報があり、その中に変容していく記憶や思想の情報も含まれている。それらを破壊せず、一気にパッケージングする技術の開発に成功したことが、この研究の発端となった。
もうすぐ夜が明ける。三十年ぶりの目覚めは安らかなものだろうか。
私はあの日のナルミに、なんと声を掛けたらよいのだろう。
予め用意された一室にナルミは寝かされていた。状況理解を促す目的と無用な混乱を避けるため、病院の一室に模された部屋でナルミは一定期間、観察される。予後が良好の場合は一ヶ月のリハビリ期間の後、予定ではマツナミが引き取ることになっていた。
「おはようございます」
朝の挨拶にこれほど緊張したことはないと彼は思った。白光が眩いほどに窓辺に差し込んでいた。白いシーツに、半身を起こしたナルミの綺麗な黒髪が映えた。
おはようございます、と彼女は不思議そうな目で彼を見た。
「お変わりはないですか」
「ええ、もちろん。今日は何の検査をするのでしょう」
「簡単な体力測定です。昨日のような注射はありませんから、ご安心なさってください」
マツナミは三十年前に記されていたメモどおりに話を進めた。ナルミは今、過去に行われたDNAの取得を悟らせないためのダミー検査をこなす過程にいた。三十年前には無意味だった検査が、今は非常に重要となる。これからしばらくは身体機能の検査に加え、記憶や思想のチェックが行われる。全ての検査にクリアした段階で、この実験は成功となる。
「先生、お名前は?」
無垢な表情を浮かべるナルミに彼は一瞬、戸惑いを隠せなかった。
「どうしてですか?」
「いえ、昨日までと違う方だったので」
抱いていたわずかな希望が失望に変わり、それはすぐに諦めに変わった。三十年前のナルミを蘇らせたとして、彼女が自分に気がついてくれる可能性は低いとマツナミは理解していた。理解していても心に冷たい落胆が広がっていくのがわかった。
「先生、この研究所にいるはずの松浪という先生をご存知ですか」
面会を追え席を立った際、白髪になったマツナミの背中にそんな問いが掛けられたが、彼は首を振るだけでその場を後にした。
ナルミがこれから一般人として生活していく上で、彼女が復元体であることを明かす必要があった。今、自分の思っている時間が三十余年進んでいる事実を告げ、受け入れさせるには、それなりの理由が必要だ。マツナミはそのタイミングが今日でなかったことに安堵と落胆を抱えつつ、冷たい廊下を一人で渡った。