★第三部★
研究日誌 12○×日
「メビウスループシステム」という馬鹿げたプロジェクトが始動して三年半が経ち、遂に第一段階である遺伝子情報の収集が最終局面を迎えた。今ではこの研究に携われたことをこの上なく幸運だったと思える。私は最終目標である人間の復元サンプルの候補の一人にナルミを推し、それが了承された。ただでさえ非合法な研究だ。上層部も被検体の確保には手間取っていたから、私の提案は難なく受け入れられた。
そして今日、ナルミのDNAサンプルを取得した。彼女には詳しい研究内容は明かしていない。私は科学者で、だれも成し遂げていない研究に携わっているのだとだけ伝えてある。
私の願いは、穏やかな彼女とこれからも生きていきたいというささやかなものだ。だれもが普通に願う幸せを夢見ているだけだ。
だから、万が一この研究が最終目標に到達した時、その被検体がナルミでないことを心から願っている。
私はまだ、諦めていない。
日誌を閉じた音に反応して、ナルミは笑顔を向けてきた。ソファーに座る彼女に向かってマツナミも微笑みを返す。
「いつもごくろうさま」
肩までかかる黒髪をかきあげて彼女はそう言う。透き通るような白い肌が月明かりに照らされて、瑞々しく艶めいている。
「いや、君のほうこそ、今日は慣れないところに行って疲れたろう。協力してもらって本当に助かったよ、ありがとう」
マツナミはソファーに歩み寄り、その肘掛に腰掛けた。テレビもない部屋で、彼女は夜空をずっと見ていた。
「私は全然疲れてないわよ、だって大体が眠っていただけだもの」
「そうだね、でも、色々なところから視線を感じて、嫌な気はしなかったかい」
髪をなでると猫のような声をあげ、大丈夫、と彼女は笑った。
「ねえ、今日は私の何を調べたの」
何の気なしに問うた視線を、マツナミは無言で受け止める。
「一体、何の研究をしているの」
「それは訊かない約束だろ。大丈夫、君には何の不利益にもならないから」
彼女には早い段階で研究には守秘義務があると説明していたから、彼は笑って質問を受け流せた。
「それより、週末、どこかに出かけないか、まとまった休日が取れたんだ」
「うそ? 何日?」
両手を広げて見せると、ナルミは目を輝かせた。三ヶ月ほど満足に休みを取れていなかった。研究の第一段階の目処が立ち、久しぶりに休暇の許可が下りた。
「どこに行きたい? 海外?」
マツナミの問いに、彼女は首を振る。
「何もないところ。で、緑だけたくさんあるところ」
「そうか、そうだな、久しぶりにゆっくりしよう」
抱きしめると、壊れてしまいそうな細い体が彼の腕にしがみ付いてきた。どこか切実な力に、マツナミは抱く手に力を込めなおした。