きっとお茶が好きなのよ
「点Aから点Bに向けて、点Pが毎秒2cmの速さで……」
問題を指で指しながら愛子は説明をしている。相手は中学3年生の恭子ちゃん。一次関数の復習問題を解いてもらっている。この程度であれば愛子の力量で十分だった。
面接明けの月曜日、松木から愛子に連絡があった。内容は採用である事といつからこれるかというものだった。なんでも講師の方が1人、入院する事になったらしい。助かりましたよーと松木。サークルも何も入ってない愛子はそれなりに時間に融通がきいたので、翌日からお世話になる事を決めたのだ。
初日だけ説明があるので少し早く塾へと足を運んだ愛子は松木に挨拶をした後、教務主任である大樹から生徒のいない別室で説明を受ける。主任といっても社員は大樹1人で、他の講師はアルバイトなようだった。後から聞いた話だが以前はもう1人社員がいたらしい。個人経営の塾は不況の煽りが強いのだろう。
「うちは小さめだし進学塾って感じでもないんで、節度を持ったフレンドリーさで生徒に接して下さいね」
計画表の説明を終えた後、大樹はそんなふうに言っていた。その日教える大体の内容など表を見つつ大樹が決めるのだという。また自分でも生徒を受け持つと言っていた。
「ところで久住先生はショタ好きですか?」
いきなり明後日の方向から質問を投げかけられた。特にそういう趣味はないと答えると大樹が渋い顔をして続けた。
「いやぁ……以前、中学生とデキた大学生がいてねぇ」
その人はすぐクビになったらしい。とんだロリコンもいたものだ。私は大丈夫ですよ、といい大樹に質問をしてみた。
「栗原先生はないんですか?」
面接の時にも感じた事だが大樹は割りと砕けている部分も多い。冗談めかして聞いてみた。
「俺は高校生からがストライクゾーンだから。うちには高校生ほとんどいないし。それに塾生には手を出さないなぁ」
大樹はそういって爽やかな笑顔を振りまいている。どこまでが本気なのか少し考えてしまった。
「ま、とりあえずヨロシクお願いしますね」
大樹がそう言って説明を終えると生徒ごとのファイルを渡されて2Fへと移動をした。
「じゃあ今日はここまで。これ宿題ね」
22時になったので最後に見ていた3人の生徒に週間予定表を渡して、愛子は報告書の記入を開始した。
「それじゃお先に~」
愛子がまだ報告書を書いている中、3人の先生方と大樹が挨拶をして1Fに降りていった。先生と言っても愛子と同じ大学生だ。生徒が帰って報告書を書いている時に挨拶は済ませた。今日いたのは、1人は県内の国立大の3年生(男性)と同じ大学の2年生(女性)、それに愛子の先輩の2年生(女性)だった。他にも先生はいるらしいが女性が多いのだという。きっと女生徒を受け持つのに男性じゃないほうがいいからだろうか。
1人残った愛子は5分後に1Fに降りていった。1Fでは松木と大樹が何やら作業をしていた。
「お疲れ様です。どうでした?」
作業の手を止めて松木が質問してきた。どうにか、と答えた後に少し世間話をしてから家に戻った。
それから2週間、毎日が同じような流れで経過していった。未だに報告書を書くのが少し遅い愛子はいつも最後になっていた。そのせいで松木や大樹と話す機会が多かった。他の全ての先生方にも会い、アドレス交換などもしていた。バイト自体は他の先生と比べて多く、週5で入っている。皆サークルだったり予定があったりで週2~3回のようだ。生活費の事を考慮して多めにしてくれたのもあるのだろう。
そんなある日、いつもの帰り際の雑談をしながら松木が言った。
「ああ、そうだ。今更ですが皆で歓迎会とかはうちではやってないんですよ」
すまなさそうに松木はいう。そんな事大して気にも留めていなかった。
「大学生って夜はお忙しいですからね」
大樹が敬語で言ってきた意味を理解するのにさほど時間はかからなかった。
「私は家でゆっくりしている事が多いですよ」
興味津々な瞳をしているようにも見える2人に向かって言った。どうせ1人ですよーだ。それ以上言うとパワハラで訴えるぞ?
「ああでも皆では無理ですが、ご飯くらい行きましょうか?」
他の先生の時も行ってますし、と松木が付け加えた。
どうしようか少し迷ったが遠慮しない事にした。なんだかここで断るのもね。これが大人のツキアイか。それに家に着いてから食事を作る手間が省ける事と天秤にかけると断れなかった。しかもオゴリだし。
数分後3人で塾を後にして車に向かった時、松木の携帯が鳴った。
「すみません奥さんから急用で呼ばれてしまいました。栗原先生、あとお願いしていいですか?」
あ、はい。と大樹が言うのと同時に松木が車に乗り込んだ。大樹は自分の車へとスタスタ歩いている。
2人で行くの?そう思っていると大樹から声が掛かった。
「これね?」
車を指差してそう言っている。他に車もう無いから、それは知っているのだが。
大樹は車に乗り込みエンジンをかけていた。まぁ……いっか。
「お邪魔しまーす」
そう言って車に乗り込んだ。車内には煙草の匂いと、それを隠せないでいるココナッツの甘い香りが漂っていた。
「マニュアルなんですね?」
シフトチェンジしている大樹に向かって尋ねた。会話は全く無い訳では無かったが割りと少なく、聞き覚えのある洋楽が流れていた。これ誰だっけ。
「ああ、オートマより眠くならないから」
笑いながら大樹が言う。別に走り屋とかではないらしい。
もうすぐ22時半になろうとしている為、向かった先はファミレスだった。
私はサラダうどんを大樹はチキンステーキを注文していた。2人でドリンクバーを注いで席へと戻った。
「彼氏に怒られなーい?」
冷たい紅茶に砂糖とミルクを入れながら親しい友達に対するような口調とイントネーションで大樹が聞いてきた。フレンドリーだとは思っていたがここまででは無かった。仕事も終わって無礼講という事だろうか。
「だからいないですって」
ストローでストレートティーを飲みながら会話は続いた。
「えぇぇぇ。久住先生可愛いじゃん?」
じゃん? どうも完全にオフモードになっているようだ。ま、その方が気楽でいいんだけどね。そんな事ないですよーと言うと、煙草に日を点けながらまた質問がすぐに来た。こんなにしゃべる人なんだ。
「どれくらいいないの?」
これまた突っ込んだ質問を。まぁ話の流れではあるけれど。
「3ヶ月くらいですかねぇ」
「へぇー。大学に気になる人はぁ?」
どうもこの手の話がお好きなようだ。目が輝いている。
「んー。いませんかねぇ」
ふぅん。そう言い終えた大樹はストローでかき混ぜながら何か考えているようだった。
「栗原先生はどうなんですか?大好きな女子高生の彼女ですか?」
面接を思い出して言ってみた。大樹は少しにやけた笑顔を消した後、少し時間をおいて口を開いた。
「んーー。3?4年?彼女いないかなぁ」
首をかしげながら当たり前の事のように平然と言っている。自分には4年も恋人がいないなど考えられなかった。3ヶ月だって結構我慢してるのに。しかも3年も彼女がいないようには見えなかった。
「おいくつなんですか?」
そういえば大樹の歳を知らない。24~5くらいだろうか。
「俺?今年27?かな??」
自分の歳を忘れているかのような答えが少し面白かった。それに思ったよりも上だ。
「生徒には毎年19って言ってあるけどね。あ、うちらタメじゃん」
誰にも言っちゃダメだよっ!と、唇に人差し指を当てながら笑顔で答える大樹は可愛かった。
「23歳の時からずっといないんですかぁ?もしかして元カノさんが忘れられないとか?」
茶目っ気たっぷりに聞いてみた。大樹の口角が徐々に下がっていく。大樹の表情は無表情に近い感じになっている。少しだけ悲しそうにも見えた。地雷を踏んだかもしれない。
私を見据えていた大樹の視線が一瞬外れてまた戻ってきた。そして再び笑顔になった大樹はこう告げた。
「モテないだけだよ」
笑顔だが瞳はやはり少し悲しげとういか儚げというか。大樹に対して感じていた陰を垣間見た気がした。
そうしているうちに店員さんが運んできた。両手を合わせる事は無かったが、外でもきちんとイタダキマスをする大樹に好感が持てた。
なんとなく、本当になんとなくではあるが栗原 大樹という人間をわかったような、少し近くに感じたような気がした。ああ、名前もさっき聞いてみたのよ。
いつもよりも夜遅くなってしまっているので、家まで送ってくれると大樹は言っていた。お店にいる間に1日どれくらい煙草を吸うのか聞くと、1~2箱?と返ってきた。
「吸って平気ですよ?」
車の中では遠慮しているのだろうか。1本も吸っていなかった。前の彼氏も吸っていたし特に気にならないのだけど。
「ああ、ごめん。それじゃあ」
窓が開いて、カチッというジッポの音が響いた。
家の前まで送ってもらった。エンジンがかかったままライトは消えている。
「それじゃあ」
暗くてよく見えないのだが雰囲気からすると笑顔の大樹がそう言った。
ごちそうさまでした、ありがとうございました、私はそう言ったはずだった。頭の中で言っただけだったのだろうか、声になったのは別の言葉だった。
「お茶……飲んで行きます?」
クラスのみんなには……ナイショだよっっっ!
ところでQB様の顔が浮き出るGショックが受注生産で販売されるそうです。超ほしす。
第三弾まではいつも1つの話を2000字くらいにする事が多かったのですが今作は字数多いかも?今回も3700字に。