間違い
りっちゃんは、――リオンは僕のヒーローだった。
思えば何時からだろうか、少なくとも物心がついたころには僕の隣には彼女がいた。
彼女は優しくて、頭が良くて、格好良くて、裁縫くらいしかできない僕とは正反対な人だった。
幼いころ、困ったことあると僕はいつも彼女を頼っていた気がする。
幼馴染達の喧嘩に巻き込まれた時なんかがいい例だと思う。……あの時からだ、僕が『人間』を恐ろしく思い始めたのは。
両親は優しい、彼女は優しい、彼女の御爺さんも優しかった。でも他の人たちは違う。
上手く説明出来ないけど他の人の優しさは、どこか醜かった。
彼らの眼が、僕の上辺しか見ていなかったからだと思う。いくら鈍い僕だってそれくらいは解る。
――あの人達は僕の人格に興味なんてありはしないんだ。
彼らは僕が失敗や要領が悪いところをみたり、容姿にそぐわない行動をとるとすぐに離れていった。まるで失望したと言わんばかりにだ。
――それでも彼女はずっと側にいてくれた。何時だって、僕を助けてくれた。
その目には、あの醜さはどこにも見つからなかった。あるのは、惜しみない優しさだけだったんだ。
……その事にどれだけ僕が救われてきたかなんて、きっと彼女は知らないんだろう。
でも、彼女が僕の容姿について触れないわけではない。
だが、彼女は生まれ持った容姿の事を一種の才能のように認識しているので、そこに嫌味やお世辞などは一切含まれない。
咲いている花に対し、綺麗だねと言うのと同じニュアンスだ。
だからこそ僕は彼女からの賛美を嫌悪することはなかった。まぁ多少気恥ずかしかったけど。
彼女は、時折思いついたかのように僕の事を天使の様だと表現する。別にからかっているわけではなく、本気でそう考えているようにしみじみと言うから余計に性質が悪い。
……でも、そんなことはないと僕は思う。確かに自慢ではないが、人並み以上には容姿が整っている自覚はある。でも彼女は僕の駄目な所だってたくさん知っているはずだ。
いくら見栄えが良くても中身はこんなに女々しい一人の凡人にすぎないんだ、そんな僕が天使だなんておこがましい。
そう言うと、彼女は苦笑して僕の頭を撫でてくれた。
これがもし両親だったなら子ども扱いするなと怒ったんだろうけど、何故か彼女には反抗できない。
むしろ、そんな彼女の行動に安堵した。
彼女の優しさは、きっと僕にとって甘い毒だったのだろう。
何時だったか、花は水を遣りすぎると枯れてしまうんだと、彼女の祖父は僕に語った。
それが何を比喩していたのか、僕はよく知っている。
彼女の祖父は本当に聡かった。彼女すら気づいていない僕らの歪んだ関係を誰よりも早く気づき、その歪さを知りながら現状を受け入れている僕の方に忠告をしてきたのだから。
僕だってこのままではいけない事はわかっていた。わかっているつもりだった。
それでも僕の弱さをありのままで肯定してくれる彼女から、僕は離れることが出来なかった。
そんな、優しい彼女だったから、――だから僕は、彼女の手を離せなくなってしまったんだ。
それが、間違いの一つ。
去年の事だ。
彼女の祖父がしんで、彼女は今までの事が嘘のように荒れた。
いつも理知的であった彼女があんなにも取り乱すのをみたのは生まれて初めてだった。
――その時、初めて僕はリオンが僕と同じ人間なんだと思い知った。
彼女は何時だって僕のヒーローだった。それは今でも変わらない。
だけど、決して彼女は完全無欠の超人なんかじゃない。……誰かが支えてあげなければ壊れてしまう、儚い人なんだ。僕はそのことにようやく気付いた。
よくよく考えてみれば昔からそんな傾向があった。
彼女はよく何かについて考え込んでいたし、時折遠くを見るような目をしていた。
僕と同じ年代の子供にしてはあまりにも達観しすぎていたのだ。両親もよく言っていた、リオンは我儘の一つも言わないので心配だと。
その時の僕は彼女が素晴らしい人間だからだと自己完結していたのだが、そうではなかった。
ただ、彼女は誰よりも早く理解していただけなんだ。――世界の残酷さを。
だからこそ、彼女は賢くあろうとした。自身に子供で居続ける事を良しとしなかった。
……それが彼女の両親の事が原因かどうかはわからない。だけど、そんな風に生きていればいつかは歪みが出てくる。
彼女の祖父の死は、運悪くも引き金を引いてしまったのだ。
泣いて、泣いて、拒絶して。僕を遠ざける彼女。光が灯らない彼女の家。
心が、折れてしまいそうだった。
僕はずっと彼女と一緒に過ごしてきた。ずっと、ずっとだ。
――それは、それほどまでに僕が彼女に依存して生きていたことに他ならない。
そんな彼女からの拒絶は、いっそ死んでしまいたくなる程に辛かった。
でも、彼女がこのまま死んでしまう事の方がもっと辛かった。それだけは嫌だった。
それから毎日、彼女の家に通って無理やりにでも食事をとらせた。
彼女はそんな僕をいつも不思議そうな目で見ていた。その目には光が灯っておらず、うつろで物体としてしか僕を認識していないかの様だった。
……僕では、彼女の支えにはなれないのだろうか。
何か、声をかけたいと思う。でも言葉が喉まで来たところでどうしても口を噤んでしまう。
――僕はこれ以上の拒絶が怖かったのだ。
どうか弱虫だと、臆病者と罵ってほしい。僕だって限界が近かったんだ。
それから一月。僕にとっては気が遠くなる程に長い時間だった。
そのころ僕は心の奥底で、前のような関係には戻れないのだと諦めていた。
もしかしたら彼女が僕に笑いかけてくれることすら、もう二度とないかもしれない。
もしも、もしもずっとこのままならば彼女を×××して僕も―――。その方が、幸せなんじゃないだろうか?
……そんな危険な事を考え始めた頃だった。
何時ものように彼女の家に行くと、部屋の中に彼女が立っていた。この時点で僕は驚いていた。
だってここ最近彼女が生活行動以外で出歩く姿など見ていなかったからだ。
彼女は僕を見ると視線を少し泳がせ、少しバツが悪そうに苦笑しておはよう、と言った。
この時の僕の気持ちを理解してくれる人は、きっといないだろう。その前までに浮かべていた妄想も綺麗に吹き飛んだ。
――やっと、戻ってきてくれた。嬉しかった。本当に良かった。
ずっとこのまま居なくなってしまんじゃないかって不安だった。
……怖かった。怖かったんだ!!
――良かった。君を傷つけるなんて馬鹿な事をしなくて、本当に良かった。
みっともなく泣いて、泣いて、また泣いて。僕は、――日常が戻ってきた事に安堵した。
――それが、二つ目の間違い。きっとこの出来事が、彼女の今後の行動を決定づけてしまったんだ。
そのことに僕は気付けなかった。
……気づくことが出来なかったんだ。
彼女は僕のヒーローだ。
だけど、僕はヒロインになりたかったわけではない。
ただ、彼女と一緒に生きたかっただけなんだ。
この時の彼女の心境に、想いに、何一つ気付けなかった。
そのせいで彼女は――――、