信頼
あれから暫くして何事も無かったかのように先輩は戻ってきた。
私もさっきの事にはあえて触れなかったし、先輩もその事について何も話してこなかった。本当は言いたいことが山ほどあったが、それ以上にもう何も聞きたくなかったから。
ルナさんとユエにはかなり気を遣わせてしまったと思う。反省しなくては。
……本当は私よりもそこでへらへら笑っている先輩の方こそ反省すべきだと思うけど。
ユエとは話してる内にだんだん口調もフランクになってきたし、それなりに親しくもなれたと思う。お酒の力とは凄い。
「平気?」
「うぅ……、もう無理かも。気持ち悪い」
私も結構飲まされたけど、意外と大丈夫かもしれない。
顔と体が熱いけど、歩けない程ではない。だが、ユエは駄目そうだ。……流石にこれはかわいそうかもしれない。
「あーあ。ユエ君大丈夫? ちょっと休もうか?」
先輩が珍しく気遣わしげな様子で、ユエに声をかけた。
確かに今の彼は顔面蒼白で見ているこちらも心配になってくる有様だ。気に掛けたくなるのも分かる。
「じゃあリオン、後はよろしく。部屋はとっておいたからゆっくりしていってよ。ほら、俺はルナと、ね?」
「……まぁ、こんな状態でどうにかなるわけでもないですし。別にいいですけどね」
そういう場所だからそういう事もあるだろうとは思ってたけど、あからさまに言われるとやっぱり気まずい。なんか、その、ねぇ?
純真な乙女としては恥ずかしいものがある。
「ユエ、大丈夫――じゃないよね。立てる?」
「……うん。何とか」
◆ ◆ ◆
案内された部屋はベッドが一つと、小さなテーブル、椅子が一つだけある小さな部屋だった。
とりあえずベッドにユエを横たわらせ、テーブルに置いてある水差しからコップに水を注ぐ。
「ほら、お水」
「……ありがとう」
ユエは水を受け取ると、ちびちびとコップに口を付け始めた。
その度にこちらの様子を窺うように、ジッと訴えかけるように私を見つめてくる。
「ごめん、もっと気を付けてあげればよかった。――先輩がまさかウオッカを強制してくるとは思わなくて。あの人、ほんっと碌な事しないな……」
「あはは。……実は僕、ラウルさんちょっと苦手なんだ。――あの人、いつも本当の事言わないから」
「ああ、きっとその時の気分で話してるからかな。きっとどうやったら面白い方に話が進むか一瞬で判断してるんだろうね。愉快犯みたく。困るよね」
「あ、いや、そうじゃなくて……。ううん、なんでもない」
「? でも付き合い方さえ間違えなければ、それなりにいい人だと思うよ」
――あくまでも『それなりに』だけど
私自身でさえ、今でも先輩とこうして仲良しごっこをしているのが不思議に思う事がある。その行動が彼にとって何か意味があるのか、それとも何もないのか、私には分からない。
今はそれでいいけど、もしかしたら何時か答えを出さなくてはいけない時がくるのかもしれない。考えすぎなのかもしれないけど。
なんだかユエの様子が少し変なのが気にかかったが、気にするほどでも無いだろう。体調が悪いだけだと思うし。
水を飲み終わったのか、コップをテーブルに置くと、ユエは目線はそのままに、ごろりとベッドに横になった。
「――シエルさんってどんな人なんですか?」
ふと、突然思いついたかのようにユエがそんな事を聞いてきた。
「どうしたの、いきなり」
「あの場だと何だか聞きづらくて……。お友達なんだよね?」
「うん、私の親友。 綺麗で、優しくて、明るい、私には勿体ないくらい良い子なんだ」
本当に、私には勿体ない。迷わないと決めたけど、あの子の隣にいるのが私で良かったのか今でも考えてしまう時がある。それでも、――やっぱり一緒に居たい気持ちだけは確かなんだ。
「大事なんだ、その子の事」
「……別に笑ってもいいよ。先輩の話聞いてたでしょ? 守る力が欲しいからって、誕生日間際に足掻くなんて馬鹿みたいだって自分でも分かってるし。――でも、何かせずにはいられないんだ」
私は、無駄な努力なんて存在しないと信じたい。――もちろん必ずしもそれが結果に繋がるとは思ってないけど。そんな事は、動かない理由にはならないと思う。
「――いいなぁ」
「え?」
ユエが心底羨ましいと言った風に呟く。彼の瞳はどこか遠くを見ているようで、少し悲しげな色をしていた。
「そんなに真っ直ぐ想ってもらえるなんて、シエルさんが羨ましい」
「……真っ直ぐなんかじゃないよ」
この想いはそんなに綺麗なものじゃない。きっと私が思っているよりもずっと黒くてドロドロしてエゴに塗れているのだろう。
そんな風な事をユエに言ってみたのだが、彼は微笑ましそうに笑うだけだ。
「――やっぱり、リオンは姉さんに似てるよ。そういう所も含めて。初めて会った時なんか化けて出てきたのかと思って焦っちゃった」
いっそわざとらしいくらいに明るい声音で、彼はそう告げた。
――化けて、という事はすでに故人なのだろうか。
返す言葉が上手く見つからない。こんな時普通はなんて言えばいいのだろう?――そんなの、私にはわからなかった。
「ああ、そんなに困った顔しないでよ。別に困らせたかったわけじゃないんだ。……ただ、あまりにもそっくりだったから」
懐かしくなっちゃって、とユエが苦笑する。
「ご、ごめん。こういう時何て言えばいいのか分からなくて……」
「ううん、いいんだ。僕も話したかっただけだから。――――ねぇ、ちょっと暗くなるけど続けてもいい?」
「……ユエさえよければ」
それじゃあね、とユエが続ける。
「姉さんは僕より8つ上だったんだけど、父親が違うんだ。それでも姉さんは僕に優しかったし、僕も姉さんの事が大好きだった。
――でも10年前だったかなぁ、父さんと母さんが流行り病で死んじゃって、色々な所を盥回しにされて此処に来たんだ。それから2年後かな、姉さんが死んじゃったのは。
……僕はまだ小さかったから分からなかったけど、姉さんはすごく酷い事をされてたみたい。僕、そんな事全然知らなかった。だって姉さん僕の前ではいつも笑ってたから。
――シエルさんの事を語ってるときのリオンはその時の姉さんとよく似てるよ。だから、――――リオンも、いつかシエルさんの為に死んじゃいそうな感じがする」
「――そんな事は、」
「あはは。――嘘つき、」
間髪入れずにそう返され、言葉が詰まる。
でも、ユエの言葉にも否定できないところがある。私はきっと、シエルの為ならば死ねる。今は制約でそれは許されないけれど、そういう状況下に陥れば私は自分よりもシエルを優先することだろう。
「駄目だよ、そういうのは。――置いていかれた方の気持ちは考えたことある? それって、場合によっては死ぬよりも辛いんだ。本当に、辛いんだよ。――だから、リオンはシエルさんの事置いていっちゃだめだよ。きっと、悲しむから」
「……耳が痛いな」
「忘れないでね。――絶対に、忘れちゃだめだよ」
ユエはいつになく真剣な顔でそう言った。
――うん、忘れないよ。大丈夫。――大丈夫だから。
「ユエは、その、今でも辛い?」
「今はもうよく分からないや。ここには僕と似たような境遇の人がいっぱい居るし、ルナさんみたいによくしてくれる先輩だって居る。ただ、時々すごく苦しくなる。――僕は一人きりなんだなぁって」
「ひとり、きり……」
――私が壊れそうなときは、シエルが一緒にいてくれた。
彼には、その『誰か』がいないのだ。
「そんな顔しないでよ、僕はまだ恵まれてる方なんだから」
「でも、」
何か言葉を噤もうとした私の声を遮ると、ユエは困ったように笑った。
「いいんだよ。でもさ、今の話に同情してくれたならお願いがあるんだ」
「何?」
「――ねえ、リオン。もしよかったら、……よかったらでいいんだけど、その、――僕と、友達になってくれないかな」
軽い口調で、ユエはそんなことを言って見せた。
いつもの私ならば、「これがセールストークという奴か」などと思ってしまったかもしれない。
でも、そうは思わなかった。――彼の右手が、微かに震えていたから。
肯定の言葉を告げようとした、その瞬間。
「なーんて、全部ウソだよ。あはは、信じちゃった?――そもそも僕に姉なんかいないよ。面白かった?」
ユエはベッドから起き上がり、にっこりと笑いながらそんな言葉を言い放った。
――嘘? あれが全部?
「何を、」
「駄目だよ?こういう所にいる人間の言葉を簡単に信じちゃ。勉強になったかな?これからは気を付けた方がいいよ。リオンはとっても優しいから簡単に付け込まれちゃうから」
「――――ユエ」
「――だから、僕みたいなのにあんまり優しくしない方がいいよ。すぐに勘違いしちゃうから。――大切な子が居るんでしょ?重たい荷物は持つものじゃないよ」
そう言うと、自虐的にユエは笑った。
その笑い顔は今まで私が見てきた中で一番儚く、痛々しく、――美しいものだった。
……どちらの言葉が本当なのだろうか。
全部嘘だと言う彼。友達になってほしいと言った彼。普通に考えれば世間知らずの私を彼がからかったと考えるのが妥当だろう。
――でも、そうじゃないんでしょう? 姉の事も、全部本当なんでしょう?
――人は嘘をつく時、視線を左に泳がせたり、瞬きを不自然に増やしたりだとか、変化がみられる。
目は口ほどに物を言う。まさにその通りだ。
それに此処までの言動がすべて嘘だと言うのならば、もう私は何を信じていいのか分からない。――ならば、私は信じたい方を信じる。
……本当に悪役には向いていない子だ。いっそ憐れと言ってもいい。
中途半端に自分を傷つけて、自身を嘲笑して、そんなのが楽しいはずがない。
それなのに、こんな一度会っただけの小娘に心を許そうとするなんて、なんて、…………。
――――――真っ直ぐなのは、君の方じゃないか。
その姿が、シエルと被る。
……あぁそうか、羨ましいのか、私は。
私がたどり着くことが出来ないであろう、人として気高い心を彼は持っている。それを羨まずに、何を羨めと言うのか。
――何を言ったらいいか分からない。――彼が私に何を言ってほしいのかも分からない。
慰め?憐れみ?嘲笑?それとも笑い飛ばせばいい?
――違うだろ。そんなの、誰も望んじゃいない。
私は無言のままユエの隣に腰掛けた。その瞬間、彼の肩が少し震えたような気がしたが、そんな事は些細なことだ。
優しくて、臆病な彼に贈る言葉を考える。そう、――飾り気のない本心を。
「あのさ、私はお金持ちじゃないし、気の利いた言葉も言えない。そんなに面白みのある人間じゃないよ。
――でも君さえよければ、たまに遊びに来てもいいかな? 私、ここに来てから働いてばかりだったから、知り合いが全然いないんだ。
だから、えっと、その、――私と友達になってくれると、とても嬉しい」
私はそう言うと、右手をユエに差し出した。
――そう。騙されてもいいんじゃないかと思ってしまうくらいには、私はユエを気に入っていた。親しい人なんてシエルが居れば十分だと思っていたけれど、彼との出会いをこれきりにしたいとはどうしても思えない。
彼は目を見開いて私の右手を見つめている。何度か声を発しようと唇を震わせるが、音になっていない。
「――バカじゃないの」
「うん」
「あんなの全部嘘なのに」
「……うん」
「リオンは僕に騙されてるんだよ!?なんで怒らないんだよ!!」
初めて、ユエが声を荒げた。焦りを含んだ表情で、叫ぶ。
解るよ。ユエは、きっと私に拒絶してほしかったんだ。受け入れられるのが怖かったんだ。
まるで昔の私のようだ。周りから全てを遠ざけて、切り捨てた。捨てられるのが怖かったから、自分の方から先に手を放したんだ。その方が傷は少なくて済むから。でも、
――ひとりぼっちは寂しいんだ。とても、寂しい。
私にはシエルが居てくれる。でも、ユエには?
ここで私が名乗りを上げるのは少々おこがましいのかもしれない。でも、私は聞いてしまった。ユエのSOSを。
お酒の勢いかもしれない、ちょっとした油断だったのかもしれない。それでも私は聞いてしまったのだ。見て見ぬふりなど出来ない。
――――あの日の誓いを思い出す。
生と死の境界で私は意地を通すことを決めた。
ここで何もしない事を選択してしまえば、また私は自分を嫌いになってしまう。
諦める事の辛さを知っている。挫折する事の苦しさを知っている。もう二度とあんな思いをするのはごめんだ。
理想主義だと笑えばいい。でも私にはこの生き方しかできないんだ。――したくないんだ。
「私だって引き際くらい心得てるよ。だから、――騙してくれていいよ。
私、自分が思ってるよりも融通が利かないみたいなんだ。
――だから目の前で泣きそうにしている男の子を放っておくなんて、私にはできない」
――――お金までは出せないけどね。と冗談を言うように付け加える。
「……泣いてなんか、ない」
「私の気のせいならそれでもいいよ。――――でも君はどうしたい?」
俯くユエに穏やかに声を掛ける。
「僕は、」
「うん」
「リオンが思っているような綺麗な人間じゃ、ない」
「…………」
「ここが何処だか分かってるでしょう?――僕だって例外じゃないんだ。花を売って生きている薄汚い人間なんだよ。
――君が僕を騙そうだなんて思ってない事は分かってる。さっきの言葉も全部本当だって。だって、リオンは嘘をついてない。だから、」
――怖いんだ。とユエは小さな声で告げた。
「リオンの申し出は、凄く嬉しい。でも、それでも僕は臆病だから、――君に幻滅されるが怖いんだ。君の手を取った後、何時ふり払われるかに怯えて暮らすのは、……辛いよ。
みんなよく言ってる。『信じた方が負け』だって。そうやって泣くことになった人たちを僕は沢山見てきた。君たちと違って、僕らは待つ事しか出来ない。飽きられたらそれでお終いなんだ。
――だからこれ以上希望を持たせないでほしい」
――それは、悲しい決意だった。
その生き方は確かに賢いし、堅実だ。
いくら信じていたところで、この世に永遠なんてものは存在しない。変わらない物なんて無いんだ。でも、
「……それで?」
「え?」
「私は無理に自分の意見を通そうとは思っていないよ。ユエの意思を最優先にするつもり。ユエが望むのなら、今すぐにでもここから立ち去るよ。
――――でも、なんでだか分からないけどさ、さっきから君が言ってる言葉が私には『助けて』と言ってるようにしか聞こえないんだ」
「――――っ、」
「怖いとか、そんなの此処じゃなくても一緒だよ。私だっていつも怯えてる。いつかあの子の手を離さなきゃいけないって、考える時もある。
――それでもさ、後悔だけはしてないんだ。あれが最善の選択だと今でも思ってる。ユエは、ここでこうして私と話してる事を後悔する時がくると思う?
――そんな先の事、私だって分からないよ。だから私は再度君に聞くよ。この差し出しっぱなしの私の右手、掴む?それとも叩き落とす?」
「……そういう言い方は、狡いよ」
「ごめんね。私、君が思ってるよりも優しくないみたいだ」
にこり、と先輩のまねをしてニヒルに笑ってみる。うまく笑えているといいのだけれど。
「――リオンは女の子っぽくないよね」
「…………」
なんだかいきなり酷い事を言われた気がする。いや、それは自分でも自覚しているけど。
返答に困る私を見て、ユエはくすくすと笑った。ただ、その笑みはからかっているようなものではなく、とても自然体のものだった。
「なんだか王子様みたいだ」
「それって喜んでいいのかな……」
私が次の言葉を告げる前に、ユエがそっと両手で私の右手を包んだ。
マメや切り傷だらけの私の手と違って細部まで手入れされてるその手は、とても暖かかった。でも、その手は微かに震えていた。
「――やっぱり怖い。でも、リオンは嘘をついてないって分かるから、だから、――信じるよ。
――僕と、友達になってくれますか?」
「――もちろん、喜んで」
そして、お互い顔を見合わせてくすりと笑った。
臆病者同士の歩み寄りは、これくらいの問答があってちょうどいいのかもしれない。
それから暫く二人でいろんな話をした。
どんな風に生きてきたのか、得意な事、この辺りの美味しいお店の事など、色々。流石に話せない事もいくつかあったが、それは彼も一緒なのでお互い様だと思う。
私は彼の孤独を埋められたら、なんて傲慢な事は考えない。でも、支えの一つくらいにはなれたらいいと思う。
シエルの様な清廉な心を持ち、私の様な臆病な考え方をする彼の事はどうにも他人の様には思えないのだ。親近感というか、どことなく庇護欲すら感じられる。一応彼の方が年上なんだけど。前世を含めなければの話だが。
でも流石に気がついたら二人で眠りこけてたのには驚いた。最後の記憶がないので多分寝落ちしたのだと思う。
挨拶もそこそこに、再開の約束をし、店の前で先輩と合流する。
「あー、何というかまぁ、――よく眠れたみたいだね」
「そうですね、熟睡してしまいました」
先輩が呆れたような顔で言う。……私に何を期待してるんだか。
「ちぇっ。『昨夜はお楽しみでしたね』みたいな事言ってからかってやろうと思ってたのに、ガッカリだよ。空気読めよなー」
「先輩。そういう事は心で思ってても口に出しちゃいけないと思うんですが……」
「いーんだよ、別に。――ま、楽しめたならいいんじゃない? あ、実際誕生日って何時だっけ? 来週?」
「10日後、……いや、夜が明けたから9日後ですね。とんだフライングですよ。
でも私、ここに来れてよかったです。――友達も出来ましたし」
そんな報告をすると、先輩は何とも言えない微妙な表情をした。
「リオンさぁ、一応親切で言っておくけど、あんまりこういう商売してる子らに気を許さない方がいいよ? たいていの場合碌な事にならないからさ」
「……分かってますよ。でも、」
「ユエは違うって?」
「…………」
「お前がいいならいいけどさ、シエルを泣かせるような事だけはするなよ。流石の俺でもそれは可愛そうだと思うし」
「え? なんでそこでシエルが出てくるんですか?」
今の流れには全然そんな要素は無かったはずだ。わけがわからない。
そんな私に対し、先輩は『うわ、ありえねぇコイツ』とでも言いたげな眼で見てくる。なんなんだ一体。
「お前らの関係ってマジ意味不明。――いや、おかしいのは多分リオンの方だな。気づいてないのか気づきたくないのかは知らないけど、そろそろ答えは出した方がいいんじゃないの。時間は有限なんだし」
「……はぁ。考えておきます」
意味がよく分からなかったがとりあえず頷いておいた。だが、適当に返事をしたのが先輩にはバレバレだったらしく、結構な勢いで頭を叩かれた。痛い。
声にならない悲鳴をあげながら頭を抱えて痛みに耐えていると、入口の方から誰かに声を掛けられた。
「リオンちゃん、ちょっといい?」
小鳥がさえずるような美しい声音。――――ルナさんがそこに立っていた。
ルナさんは先輩に断りをいれて、私の手を掴んで店の脇の路地まで連れて行こうとする。どうしたのだろうか。
そして先輩が完全に見えなくなる位置まで来ると、ようやく私の手を放した。
「ルナさん、一体――」
「お願いがあるの」
どうしたんですか、と言い切る前にルナさんが言葉を挟んだ。
「時々でいいの。――ユエに会いに来てくれないかしら。花代は私が出すわ。……お願いよ」
そう言ってルナさんは深く頭を下げた。
「あ、頭を上げてください。どうしたんですか、いきなり?」
私があわてて顔を上げてくれるように頼むと、ルナさんはとても真剣な眼で私を射抜いた。その視線に、少したじろぐ。
「今朝ね、ユエと会ったの。嬉しそうに笑ってたわ。――友達が出来たって。
……ねぇリオンちゃん、私は貴女がどんな意図をもってそんな事を言ったのかは分からない。でも、あの子が泣く様な事はしないでほしいの。彼女によく似た貴女に捨てられたら、きっとユエは立ち直れないから」
「……ルナさん」
「私、あの子に何もしてあげられなかった。彼女から頼まれてたのに。――だから、お願いよリオン。あの子からこれ以上希望を奪わないであげて」
……なんだ、ユエ。こんなにも君は愛されているじゃないか。次に此処に来た時は言ってあげよう、ルナさんがとても心配してたって。君は信じないかもしれない。でも、それでも知っていてほしい。君には味方が居るんだって!それは――――とても尊いものだから。
心がなんだか温かいような気持ちになる。ふわふわして掴みどころがないけど、悪くはない。
「私、そんなにユエのお姉さんに似てますか?」
「……ユエから彼女の事聞いたの?」
「はい」
「ええ。――よく似ているわ」
私の事を見つめながら、懐かしそうに呟く。でも、その瞳に映っているのは私ではなく『彼女』なのだろう。
「大切な親友だったの。だから、ユエに対しても出来る限りの事はしてきたつもり。……対した事は出来なかったんだけどね」
「そんな事は無いと思います。ユエはルナさんにとても感謝してましたよ。
――――ルナさんは、ユエのもう一人のお姉さんなんですね。ずっと、今まで見守っていてくれたんですよね? 私が彼女だったら、きっと貴女にお礼を言うと思います。『ありがとう』って」
私がそう告げると、ルナさんは泣きそうな顔で笑った。
「――ありがとう。そう言ってもらえると、嬉しいわ。
ねぇ、リオン。――約束してくれる? また、此処に来てくれるって」
「言われなくてもそのつもりでしたよ。そりゃ頻繁には無理ですけど、ユエは――大事な友人ですから」
自分で言った言葉に、顔が熱くなるのを感じた。こういうのは口に出すのは案外恥ずかしいものがある。昨日あんなにぽんぽん言葉が出てきたのはやはりアルコールの効果もあったのだと、今さらながらに実感した。
「良かった……。――ね、リオンちゃん。ユエも、――――私も待ってるから。あ、指切りしましょ。ね?」
ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます。
そして、最後に彼女は童女の様に朗らかに笑った。
店の前に戻ると、暇そうにしていた先輩にまた絡まれたが、それすら気にならないくらいに私は上機嫌だった。
ユエも、ルナさんも、とても優しい人達だった。
この広い世界の中で、そんな人たちに出会えたことは素晴らしい事だと思う。
「先輩」
「ん?」
「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです」
ぺこり、と頭を下げながら感謝の言葉を告げる。
が、頭を上げようとしたその瞬間。ガシッと両手で頭を押さえつけられた。
「――いや、いいよ別にそういうの。感謝される筋合いはないし。からかいたかっただけだから」
上から押さえつけられているため、先輩の表情は窺えない。
だけど、何故だろうか。それは照れ隠しの様にしか聞こえない文面の筈なのに、
――――――懺悔の様に聞こえたのは。
先輩は言い終わると、そのまま両手で私の頭をかき回し、短い髪をグシャグシャにした。前髪が目に入って痛い。
それから挨拶もそこそこに、三叉路で別れた。
その後はいつも通りシエルと朝食を一緒に取った。
何故だか分からないけど、シエルには昨日の事は言ってはいけないような気がした。それから少しだけ訓練場に顔を出して、惰眠を貪った。
――――その二日後、私はさらなる驚愕の事実を知る事となる。
「?先輩、そんなに蒼い顔してどうしたんですか。二日酔いですか?」
「――ん、いや、そうじゃないけど。昨日の夜また殺人鬼が出たって話、もう聞いた?」
「いいえ、聞いてないですけど。そういえば昨日がそうでしたね」
先輩の口ぶりから察するに、また被害者が出たらしい。
……物騒な話だ。憲兵はもっと仕事をすればいいのに。
「――――――――だよ」
「え?すいませんもう一度お願いします」
「――――今度の被害者は、ルナだ」
この時の私は知らなかった。
――――とうの昔に歯車は動き出していたという事を。
第二章は少しだけミステリテイストで進みます。