勇者
私がようやく混乱から抜け出した頃、もうすでに外は暗くなり月が顔を出していた。
あれからどうやって部屋に帰ったのかよく覚えていない。ただ、シエルが何か言っていたような気もするがどうにも上の空だったためやはり覚えていない。
クロガネも私の反応の乏しさに飽きたのか、シエルが家を出るのと一緒に森に帰って行った。
……悪い事をしたと思う。だけど、そんな余裕はさっきの私には無かったんだ。
――あれは確かに千尋だった。間違いない。
勇者一行がこの村に来ているという話はさっき聞いたばかりだ。シエルと話していた彼らがきっとそうなのだろう。
でも、何故あいつがあのメンバーに入っているのだ。
一行の中の一人、女の子はどことなく日本人のような容姿をしていた。まさか彼女と一緒にこの世界に召喚されたと言うんじゃあるまいな。
……だが、あいつならばそんなご都合主義の展開があり得なくもないと思ってしまう。
これは決して過大評価なんかじゃない、かつてあいつと敵対していた私の正当な判断だ。
……敵対と言っても私があいつに勝てた事なんて一度もなかったけど。
でも、何故彼らはこの村に居るんだ?
もしも、仮に千尋が勇者だったとしよう。あいつは一体何の為に私の家に来た?
1・私の正体を知っていた。
――あり得ない。考えるだけ無駄だ。
2・私が謎のパワーの持ち主で、彼らは私を迎えに来た。
――それはない。
3・銀狼の密猟についての事情聴取。
――可能性はある。だが、それならば勇者一行がわざわざ動く必要もない。……そもそも今回の事件は偶発的なものであり彼らが知っていたとは思い難い。
4・特殊能力者、――『治癒術者』の確保。
――この可能性は捨てきれない。彼らが何らかの方法でシエルの称号の発現を予知していたとしても私は驚かない。この世には不思議なことが多すぎるからだ。
――シエルが祝福を受けたのは女神メングラッド。癒しを司る女神だ。
死の淵にいる人間を回復させる事の出来るシエルは、今やこの世界でも確認されていない程優秀な癒術の使い手だ。「勇者一行」のメンバーとしてこれ程相応しい人材は他にいないだろう。
あの日私が森に向かった事は、あの場にいた者ならばきっと知っているはずだ。そして、こうして死なずに村に戻ってきてる事も。
この称号という物は、適正さえあれば成人前にも発現することがあるらしい。今回の一件で私も疑うべき対象に入ってしまったのかもしれない。
でも、きっと一番疑われているのはシエル自身だ。
紋章自体は神官に解析さえされなければいくらでも誤魔化せる。だが、ばれるのはきっと時間の問題だ。
シエルはきっとそのことを彼らに隠している。それはそうだ。話したら最後無理やりにでも魔王退治の旅に付き合わされる事になるに決まっている。
――あの子が連れて行かれる。それだけは何としても阻止したかった。
あの子は優しい子なんだ。血で血を洗うような戦場にいていい子じゃない。
そんなのは他で勝手にやってくれ。魔王なんて私たちはどうだっていい。あの子の助けが無ければ滅ぶような世界ならば滅んでしまった方がましだ。
――身勝手だと罵ればいい。
それでも私はシエルと居られればもうそれだけでいい、それ以外は望まない。
――もう、決めたんだ。
でもそうとなればやはりこの村に長居は出来ない。
――少なくとも解析が出来る者の到着までには村から出なくては。
そう再度決意を固め、何となしに窓の外を眺めた。月明かりが優しく部屋の中に溢れる。
何日も眠り続けたせいかどうにも目がさえてしまい、眠りにつく事が出来ない。
これからしなければならない事は沢山あるが、こんな夜遅くに明かりを付けていると嫌でも近所の連中から怪しまれる。まるで疑ってくれと言わんばかりにだ。
……とりあえず顔でも洗ってから今後の予定でも考えようか。
私はそう思い立ち、外にある井戸に向かう。あそこならば家の裏手にあるので、あまり近所の目を気にしなくてもいい。
薄手の上着を羽織り井戸に向かう。
いくらまだ暖かい季節とはいえさすがに夜は冷え込む。ここなんかは森が近いから尚更だ。
辺りの家々の明かりは当に消え失せ、梟の鳴き声くらいしかこの耳には入ってこない。――いつも通りの村の夜だ。
こんなにも人の気配が無いと、まるで自分一人しか人間が存在していないのではないかという錯覚すら受ける。まぁ、実際はそんな事はあり得ない訳だが。
「空が、綺麗だな」
なんとなく、そう呟いた。
頭上には溢れんほどの星々と、満月とは言い難いがそれでも十分に丸に近い形をした月がきらきらと輝いていた。
こんなにも穏やかな気持ちで夜空を眺めたのは何年振りだろう。少なくとも今生では一度も無かったと思う。
おそらくは『私』が幼い頃に千尋と天体観測に行った時以来ではないだろうか。
あの頃はまだ私たちの関係に軋轢なんてなかったし、敵対という言葉の意味すら理解していなかった。
――ずっとあの頃のままの関係でいられたら、どんなに良かっただろう。
私たちはあの時決定的に互いのボタンを掛け間違えてしまった。
……後悔をしていないと言えば嘘になる。今考えるとあれはどう考えても私に非があるのだし。
――きっとあの時どちらかが折れてさえいればあそこまで修復不能な関係にはならなかったはずだ。でもあの頃の私たちは互いが互いに子供すぎた。
私も千尋も『自分』を譲ろうなんて一切思いはしなかった。弱い『私』にも譲れないプライドが確かにあったのだ。
――私の努力を平気な顔で追い抜いて行くあいつが嫌いだった。
その度、呆れた様に私に諦めを促すあいつを見返してやりたかった。
「才能が無い」なんて私が一番よく分かっている。だから何度も同じことを言わないでほしい、そんな仕方ないとでも言いたげな顔で私を笑うなよ。心が、折れそうになる。
そんなマイナスの感情が溢れて止まらない。さっきあいつを見た時なんかが一番酷かった。
……でも私はあいつが嫌いだが、別に憎いわけではないのだ。
憎くはない。でも嫌い。その相反する感情は一体どこから来たのだろうか。
客観的に考えてみる。千尋は平時ならば優秀で人当たりのいい人間だ、私が突っかからない限りは穏やかな人物であると言える。……私からみても優しい奴だと思う。
困っている人がいたら手を差し伸べ、積極的に人が嫌がることを進んで行う。聖人君子もいいところだ。
そんなあいつが私を嘲るのは、私がこりもせずに何度も勝ち目のない喧嘩を吹っ掛けるからだと思う。……うん、でも悪いのは私の方だ。ちゃんと自覚している。
こんなのはただの妬みで、歪んだ嫉妬心に過ぎない。あいつの事を考える度に醜い私を思い知る。――今さら何を言ったところで意味はないけれど。
それでもただ私は、千尋に格下だと思われたくなかったのだ。
一度でいい、一度きりでいいからあいつに挫折を味あわせてやりたかった。
そうすれば、何かが変わるような気すらしていた。
その思いは果たして鬱屈とした劣等感から来るものだったのか、幼馴染と対等でありたいと思う純粋な気持ちだったのか、私には判断がつかない。きっと、どちらも正しかったのだろう。
――私は私なりに、掛け間違えたボタンを直そうとしていたのだ。
……昔の対等な関係に戻りたかった。きっとそれが全ての根源。
嫌い、嫌い、大嫌い。
――それでも友人に戻りたかったなんて、戯言にも程がある。
今、私達の歩む道はもうどうする事も出来ない程に分かれてしまっていた。きっと交わることは二度とないだろう。
勇者と平民とでは立場が違う。ただでさえ『私』はもういないのだ、私と千尋は今や面識のない赤の他人でしかないのだから。
だからこそ、私はこの世界で千尋と話そうだなんて微塵も思っていなかった。思ってなんていなかったのだ。
それなのに――――、どうして。
「こんばんは」
懐かしい声だった。彼に似合いの優しげな人を安心させるような声色。
――それなのに何故こんなにも心が痛むのだろうか。
井戸の縁に寄りかかりながら、記憶と違わぬ人好きのする優しい笑顔で千尋は私に笑いかけた。
『私』が入院する前の笑顔と何も変わらないように見えるソレは、何故だか私にはとても恐ろしく映った。
……同じ?変わっていない?
――――――違う。
私の知っている千尋はこんなにも薄っぺらい笑顔なんてしなかった。もっと人間味のある優しい笑顔だったはずだ。
こんな、――完璧な表情なんてしなかった。
かつては存在していた幼さが今では欠片も見当たらない。成長したのだと言ってしまえばそれまでだが、そんなレベルの問題ではない。
私は何があっても千尋だけは正しいまま大人になるのだと思っていた。
何一つ間違えず、誰からも好かれて、何でも出来る主人公。それが私の中の千尋のイメージだった。
だからこそ、私はそんな彼の正しさが認められずに足掻いていたというのに。それなのに、これは一体何の冗談だろうか?
ここにいるのは確かに千尋の筈なのに、私はそれを認められない。
だってこれではまるで、――無個性な偶像みたいじゃないか!!
たかだか数年の間に何が彼をこうまで変えてしまったのだろう。
千尋、私の知らない数年の間に何があった?
お前はもっと強い人間で、自分の意思をしっかりともっていた筈だ。なのにどうしてこんなにも変わり果ててしまったんだ?
私の勝ちたかったあいつは、こんな人形のような男じゃない。
『私』の幼馴染はもっとずっと、――≪人間≫だった!!
彼は呆然と立ち尽くす事しか出来ない私にゆっくりと近づくと、思いもよらない言葉を投下した。
「君たちの事、逃がしてあげようか?」
そう言うと彼は今までの表情から一変し、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
その時、ようやく彼の顔に感情の変化が現れた気がした。
……それでもまだ、私の知る千尋には程遠かったけれど。
――この夜の邂逅はきっと『私たち』にとって最後の分岐点だった。