夢
――夢を、見ていた。
本棚に囲まれた白い部屋。『私』のお城。出ることの出来ない監獄。
それは『私』が14歳から16歳までの2年間を過ごした、懐かしい病院の個室だった。
母はお見舞いの度に本を買ってきてくれた。
何を基準にして買ってきているのかは分からなかったが、古典文学が多かったような気がする。
そ
れは果たして愛情だったのか、何も出来ぬ私への手向けだったのかは今ではもう分からない。あの人にそれを問う事すら、もう出来ないのだから。
夢の中の『私』は本棚から一冊の分厚い本を取り出す。
タイトルは、《北欧神話大全》。
……はて、こんな本は見たことがない気がする。似たようなものならば持っていた気がするのだけど、ここまで厚くはなかった。
その間も『私』の手は淀みなく動き、黄色の付箋がついているページで動きを止めた。
ページのタイトルには≪癒しの女神メングラッド≫と書かれている。
【巫女グロアの息子であるスヴィプダーグの恋人。
「治癒の丘」を意味するリュフベルグという山に館を構えており、メングラッドやその侍女たちは、救いを求める病人や貧しい者をその場所で救済している】
……へえ、いい女神様じゃないか。
巫女グロアだったら知っているけど。グロアは確か人間だが、主神オーディンと同じ呪術を使える凄腕の術者だったような……、まあどうでもいいか。
それにしてもリュフベルグか、何処かで聞いた気もするが……、駄目だ思い出せない。
そんな事を考えていると、『私』は今度は赤の付箋がつけられたページに手をかけた。
どうやら『私』は私の思考ペースに合わせて動いてくれているらしい。
夢だというのに都合がいい、そうか、これが覚醒夢というやつなのか。
そして、私は開かれたページに目を向ける。
≪狡知と悪意の神ロキ≫
【オーディンの義兄弟。
神々に敵対する巨人族の一人だが、容姿が美しいため、神々とともに生活し、神族の一人として数えられた。邪悪で術策に優れ、気紛れな性格をしている。
その知恵で神々に宝物をもたらしたり危機を救う事もあるが、ほとんどの場合は困難に陥れる。
多彩な変身の能力でどのような姿をとることもでき、性別も自由に変えることが出来る。
光の神バルドルを謀殺した罪で神々に罰せられ、暗い洞窟に鎖で縛られた。――――etc】
……長いな。
ロキは北欧神話を知らない人も知っているくらい有名な神だ。ほら、女神転生とかにも出てくるし。
北欧神話でのトリックスターだと言ってもいいだろう。
神話の中でロキは悪い神として書かれているのだが、私はそんなロキが決して嫌いではない。
自分の欲望に素直で他者を顧みず行動を起こし、最後には足を掬われる。
強大な力を持っているくせに、上手く世渡りが出来ないその様は、『私』に奇妙な親近感を与えてくれた。
『力ある者』ですら駄目なのだから、弱い『私』が上手く立ち回れなくても仕方ない。そんな風に思う事もあった。
今考えると神話に対してそんな事を考えるなんて、『私』は相当病んでいたんだと思う。
まぁ、心の内を打ち明けられる人が居なかったのだから、仕方ないのかもしれない。
――お見舞いに来てくれる人は、確かにいた。でも、会わない事を選択したのは紛れもない私だ。
弱っている姿を人に見られたくなかった、ただそれだけ。本当に、くだらない意地だった。
……今さら後悔しても遅い、人との繋がりを断ち切ったのは『私』自身なのだから。
そして『私』は静かに本を閉じて、本棚に元通りに戻した。
その足取りは鈍く、体を蝕む病の重さが容易に見て取れた。
『私』はふらふらと鏡の前に向かい、無表情でじっと立ち続ける。
扱けた頬。白すぎる肌。ぼさぼさの短い黒髪。死んだ魚の様な目。
……目を背けたくなるほどに陰鬱な空気を醸し出している、『私』。
後悔は死ぬほどしている。
両親よりも先に死んでしまった事。
友人を全て切り捨てた事。
努力をやめて何もかも諦めた事。
人を、信じなくなった事。
――全部、今さらだ。
目を閉じてしまいたい。心の底からそう思った。
いくら私が変わりたいと思っても、『私』を変える事はもう誰にも出来ない。それだけは変わらないのだ。
私は『私』に許してほしかった。
自分を変えようとした私を、認めてほしかった。誰でもない、『私』自身に。
そうすれば、そうすればやっと私は自分を好きになってあげられるかも知れない。
それは、――どんなに幸せな事だろうか。
もしかしたらそのための《転生》だったのかもしれない。
私による『私』の為の『私』の魂の救済劇。
そんな風に考えてしまうくらい、私は『私』と別物になってしまっていた。
元は同じだというのに、今はこんなにも違う。それはとても不思議な感覚だった。
そしてただただ鏡を見続けていた『私』は突然、
――ふわりと微笑んだ。
その時の私の衝撃は計り知れない。
こんな風に笑うことが出来たのは、あの時以来だったと思う。もうずっと、まともに笑うことすら出来なかった。
……心に刺さった大きな棘がそれを許してくれなかったのだ。
『私』は微笑みながら、そっと鏡に手を触れる。
その瞬間、鏡の中の『私』の姿が私の姿に変化した。
そして『私』は囁くように呟く。
「……ごめんなさい。辛かったよね、苦しかったよね。
――もういいんだよ。『私』に縛られなくてもいいの。
今まで『私』を忘れないでくれてありがとう。
――好きになろうとしてくれて、本当にありがとう。
変わろうという気持ち、確かに受け取ったよ。
――『私』は、貴女を誇りに思う」
――これは、夢だ。
死にゆく私が見ている都合のいい夢なんだ。
それなのに、何でこんなに泣きたい気分になるのだろうか。救われてしまったような気分になるのだろうか。……ご都合主義にも程がある。
でも、それでも私はこの言葉を忘れる事なんてできない。無かった事になんてしたくない。
たとえこれから逝く先が地獄であろうとも、絶望なんてきっとしないと誓える。――それほどまでに嬉しかったのだ。
「幸せになってね。『私』の分まで長く生きて。――友達を悲しませちゃだめだよ。
もう貴女は『私』みたいになっちゃいけない、絶対に。だから、――もうお別れ」
――でも私はもう死んでいるのに。そう言うことは出来なかった。
……私には開くための口が無かったから。
そう言うと『私』はそっと目を伏せた。同時に私の視界も暗くなる。
――夢の終わりだった。
◇ ◇ ◇
腹部に衝撃を受け、意識が急速に覚醒する。
げふっ、という悲鳴にも満たない声が出た。い、痛い。何なんだ一体。
恐る恐る目を開けてみる。ここがもし地獄と言うのならば、目の前には針山や血の池が広がっているのかもしれない。
一度は死んだ事がある身とはいえ、死後の世界は初体験だ。違った意味でドキドキする。
そして、目に入ったモノ。
私にマウントポジションをとり、今にも喉笛に噛みつこうとするその姿。
――――我が友、銀狼の姿だった。
ちょっと短め。