女神
『神々は人を救わない』
それは人間たちの間では周知の事実だ。
無理もないだろう、――神の力は人には強大すぎる。
ささやかな干渉すら、人にとっては災害となる事もある。だからこそ、神々は人への干渉をやめたのだ。
――だが中には例外もいる。
悪意をもって人に関わる者や、何も考えず行動する者達も居るが、そういった輩は上位の神々によって粛清を受けることになる。
その他にも力の強い神は人から対価を受け取り、その者の願いを聞いたりする者もいたりする。
だがその対価は莫大で、中には命を落とす者も少なくはない。――まるで悪魔の取引の様だ。
だが、だからこそシエルは祈らなくてはならなかった。それはつまり、自分の命を犠牲にすれば間違いなく彼女は助かるということだ。
彼の決死の祈り。必死の懇願。――そんな尊い想いは、確かに神に届いたのだ。
祠に現れた白く輝く女性、彼女の名をメングラッドという。古い伝承に出てくる医療を司る女神だ。
――だがしかし、その事を今のシエルが知る由もなかった。
◇ ◇ ◇
――女神様だ。本当に現れてくれたんだ。驚きのあまり声を忘れかけた。
僕は呆然としながら目の前の女神様を見つめる。
祈りが、届いたのだ。
これで、りっちゃんは助かるの?村に、帰れるの?ねえ、神様!!
「女神様!お願いです、彼女を、リオンを助けて下さい!!血が止まらないんです、呼吸だってこんなに辛そうでっ……」
縋るように叫ぶ。
早く、彼女を救ってほしい。もう時間なんてほとんどないんだ。
お願いします女神様、何でもしますから、僕はどうなっても構いませんから、だから彼女だけは助けて下さい……。
そんな僕の懇願を聞きながら、女神様は静かに口を開いた。
≪彼の方に連なる者よ。その少女を助けるのは私ではありません。――――あなた自身が少女を救うのです≫
女神様が諭すように語りかける。
……意味が解らない。それができないから貴女に縋っているというのに。
僕が何も出来ない事は僕自身が一番よく知っている!!それなのになんでそんな残酷な事を言うのですか、女神よ!!
僕の困惑した様子を見つめていた女神様は、緩やかな足取りで近づき、流れるような動作で僕の左手をとって告げた。
≪メングラッドの名において汝に祝福を与えよう≫
直後、左手に焼けるような痛みが走った。――痛い。
とっさに女神様から手を引き抜こうとするが、強い虚脱感に襲われそれはかなわなかった。
≪私が司る力は癒し。シエル、我が巫子よ。――あとはもう、貴方一人でも大丈夫です≫
そういうと女神様はふわりと微笑んだ。
――一体何が大丈夫だと言うのだろうか、そう言いかけた瞬間、凄まじいほどの情報が頭の中を駆け巡った。
莫大なまでの呪歌の数々、癒しの呪文、失われたルーン文字、脳裏に僅かに過る僕に良く似た女性の姿。
――頭が、痛い。割れてしまいそうだ。僕は、何をされた?
≪少し、魂の記憶を逆流させました。――貴方にはきっと必要なはずだから≫
魂の記憶?今の情報が?
痛みを堪え、女神様に向き合う。
「あの女の人は、一体……」
≪貴方の魂の祖となる方です。――本当に、貴方は義母様によく似ているわ≫
女神様は懐かしそうに僕の事を見つめている。
祖とは一体どういう事だろうか?
まさか、僕の前世だとでも言うのか。――あれじゃあまるで魔女の様だ。
だが、御母様とは一体……。
……分からない。僕には分からない事だらけだ。
≪巫子。私がここに留まっていられるのも、もう限界です。やり方は、解るでしょう?≫
やり方。――女神様が司る癒しの力の使い方。
ええ、大丈夫です。僕はただ、真摯に祈るだけでいい。
後はこの紋章、――『治癒術師』の称号が補ってくれる。
リオンの体を起こし、抱きかかえるようにして彼女の手を握る。
刻みつけられた情報に従い、意識を集中させる。
そして目を閉じ、出血が止まる様子を想像する。その次は傷の修復、その次は血液の増幅、といった具合に傷一つない彼女をイメージできるまで瞑想を続ける。
僕は動いていないのに、じわじわと体力を削られていく感覚がし始めた。紋章のある左手が熱くてたまらない、だけどそれでも彼女の回復だけを祈り続けた。
女神様は出来ると言ったんだ。――僕が彼女を救える、確かにそう言った。
ならば、僕は愚直なまでにその言葉を信じよう。それしか、今の僕には出来ないのだから。
――そして突如、莫大な疲労感と倦怠感が僕を襲った。
力が、抜ける。……成功、したのだろうか。
恐る恐る目を開けてみる。
彼女の左手、――抉るような怪我を負っていた場所からは血は残っているものの、あのひどい傷は影も形も無くなっていた。心なしか、顔色もいい。
――ああ、生きている。リオンは、生きている!!
これも全て、女神様が僕の声を聞き届けてくれたからだ。本当に、奇跡としか言いようがない。
疲労感とともに安堵感が僕の全身を支配する。彼女が死ななかった。それだけで救われる。僕は、安心して命を捧げる事が出来る。
――願いを叶えた対価は、支払わなくてはいけない。
だけど、後悔はしていない。彼女は僕にとって命を懸ける価値のある人なんだから。
「女神様っ。この御恩は決して忘れません。ええと、その、僕には自分自身しか対価となる物を持っていません。僕如きでは足りないでしょうが、彼女からは何も奪わないでください。――どうかお願いします」
僕が頭を下げながらそう言うと女神様は首を横に振り、そっと眠るリオンに触れた。
≪いいえ。助けたのは私じゃないわ、――貴方よ。だから対価は必要ないの。私達の人への干渉は基本的に制限されている。対価抜きで許されているのはただ一つ、――祝福のみ≫
女神様の言葉に、僕は目を見開いた。――そんな都合の良いことがあっていいのだろうか?
祝福、きっと僕らがいう『称号』の事だろう。
成人の日に、神々から贈られるもっとも身近にある奇跡。
僕が贄となった条件が、こんな所で活かされる事になるなんてどんな皮肉だろう。
いや、そんなことはどうでもいいんだ。彼女と一緒にまだ生きていられる、その事実がたまらなく嬉しい。
そして女神様は立ち上がると、僕に向かって言葉を紡いだ。
≪巫子よ。この娘が大切ですか?≫
その言葉に僕は力強く頷いた。
当たり前だ、大切じゃないわけがない。――彼女は僕の全てと言っても過言ではないんだ。
≪そう、ならこの娘から目を離さない方がいいわ。――彼女の背負った因果は人の身にはあまりにも重すぎる≫
「え、それはどういう……」
僕が最後まで言葉を告げる前に、女神様の姿は月明かりに溶けてしまった。
……感謝の言葉すら満足に告げられていないのに。
光が消えた祠の中で、僕は女神様が残していった不思議な情報について考える。
女神様は何も説明してくれなかった。疑問ばかりが増えていく。
――魂の祖。
――莫大な呪術の知識。
――女神様の御母様。
――そして、彼女の因果。
頭が痛くなりそうだ。
……僕一人ではどうにもならない事だけは確かだけど、これ以上彼女に心配はかけたくない。相談するわけにはいかないんだ。僕が、何とかしないと。
――いつまでも弱いままではいられない。それを思い知った、嫌というほどに。
弱いから、大切なモノを失うはめになるのだ。停滞は確かに心地よいけれど、前に進まなければまた後悔をすることになる。そんなのは嫌だ。
僕に出来る事なんてあんまり無いけど、それでも強くならなくてはいけない。彼女の為だけではない、僕の為にもだ。
女神様が授けてくれたこの『治癒術師』の称号は僕にとって諸刃の剣となる。
きっとこれは特殊称号だ。死の淵にいる者も癒せる術者なんておとぎ話でしか聞いたことがない。
……希少種ともなれば国家レベルで狙われてもおかしくない。眩暈がしそうだ。
そして僕の事はともかく……、彼女の事だ。
「目を離さない方がいい、か」
言われなくともそのつもりだ。
今回の一件で、彼女が僕の為に容易に命を投げ出してしまえる事がよく分かった。それだけは、許すことが出来ない。許してはいけないんだ。
君の命が僕より軽いなんて、そんなのは間違っている。
僕は悲劇のヒロイン役なんて死んでもごめんだ。
――それはきっと死ぬより辛いに違いないから。
「ごめんね、りっちゃん」
だから僕は、――君に残酷な嘘を吐こう。君を現世に縛りつける強力な鎖となる嘘を。
ごめん。僕はこんな事になってもやっぱり君の手だけは離すことが出来ないようだ。
この先に地獄が待っていようとも、君が隣に居ない未来だけは想像出来ない。
本当にごめん。――だから、一緒に生きてほしい。僕も、がんばるから。だから見捨てないで。側にいて。
――――今度は僕が守るから。
巻き込んで、ごめん。それでも、逃がしてはあげられない。
腕の中で静かに寝息をたてる君の頬に、そっと唇を寄せる。
たとえ明日が地獄でも、君が側に居るならば耐えられる。
――――今は眠るといい、愛しい人よ。
――――――おやすみ、リオン。
シエルのターンは一先ず終了。
――おっと、どうやら勇者様がアップを始めたようです。