シュテンの町
新魔暦一〇年 三ノ月
一
魔族の歴史書には「解放戦争」と記されている、一〇年ほど前の魔族と人との戦争で、魔族は完全なる勝利を収めた。結果、人の築いた国家はすべて解体され、王族は皆殺しの憂き目にあった。地方領主もほとんどが同様で、領地を召し上げられたあげく殺された。全く先の見えない世界で、それでも生きたいと望む人は、異形の魔族にひざまずき、頭を垂れて忠誠を誓い、奴隷となるほかに道はなかった。
魔王は解放戦争の戦功に応じて領地を分配して、自由に治めさせた。領地間の諍いには介入したが、領地内の経営に関してはほぼ介入せず、領主である魔族の好きにさせていた。そのため、人の奴隷の扱いも領地によって様々で、特に理由もなく殺される人が毎日のように出る領地もあれば、人が治めていた頃の奴隷とたいして変わらない扱われ方をされている領地もあった。
グレンデル領は大陸の西にある小さな領地である。領主グレンデルは、解放戦争が本格化する以前から魔王につき従っていた重鎮であり、かつては人の王国の姫君を誘拐・幽閉する作戦の責任者でもあった。
しかし姫君の誘拐には成功したものの、後に勇者によって奪回をされるという失策を犯した上、老齢を理由に解放戦争では前線にたつことをしなかったため、わずかな領地しか与えられなかったのだった。
とはいえ領の気候は安定しており、人が治めていた頃からの農地をほぼそのまま活用したこともあって戦争からの復興も早かった。人の奴隷の扱いも道義的であったため、周辺から逃亡奴隷が流入してくることもあったほどだった。
グレンデルは三千年の時を生きてきた、魔族の中でも最古参といえる存在であり、小領の主に収まった今でも多くの魔族から慕われていた。魔族と人間の双方から信頼を得た領主の善政の元、グレンデル領は多くの地が未だ戦後の混乱から抜け出せない時期にあって、穏やかな平和の時を過ごしていた。
グレンデル領、シュテンの町。領地の中心であるこの町は、三日後に迫った春の祭りの準備がそこここで進められ、中央広場はいつにもましてにぎわっていた。
中心部にはすでに櫓が建てられ、その周りで祭りを仕切る役員たちが打ち合わせに余念がない。もちろんそのほとんどが魔族であったが、中には人の姿も混じっていた。
その年の豊作を願って行われる春の祭りは、もともと魔族の侵攻以前に人々の間で行われていたものだった。戦争で途絶えていたが、グレンデル領となってから領地経営が安定しだした三年前から復活した。その際、以前からこの土地で暮らしていた人の奴隷に祭りのしきたりや作法を尋ねた。以来、祭りの時には必ず人の奴隷から数名が、執行委員として駆り出されるようになっていたのだ。
奴隷の立場から解放されているわけではないが、身分的に上の存在である魔族と人が同じ目線で会話を交わすことが許されているのは、この時代としては非常に珍しいことであった。
そのようにして普段よりいくらか浮ついた空気の流れる町の中。その中を、元気に駆けてくる人の少年の姿があった。
人である以上奴隷のはずだが、不潔にならないよう切りそろえられた黒髪や、質素だがしっかりと洗濯がされた白い服は、奴隷にしては整っている印象を受ける。
何よりその雰囲気、屈託のなさが違う。年の頃は風体からすると一四、五といったところだが、はつらつとした空気がもう少し下の歳にも見せていた。
人が奴隷に落とされて一〇年前後が過ぎ、多くの人がその立場を受け入れるようになったとはいえ、それは受け入れざるを得ないという敗者としての消極的姿勢にすぎない。その結果、ほとんどの人から活気というものが失われた。自分とは姿形からして違う魔族の主に対する、得体の知れない恐怖というものもあるはずだ。だが、この少年からはそうした諦観や畏怖といったものが感じられなかった。
広場にはいってきた少年は、見知った顔を見つけると大きな声で挨拶していた。人も魔族もお構いなしだ。こうしたとき、困惑の表情を浮かべられるのはたいていが人に挨拶をしたときだった。
櫓のそばで祭りの打ち合わせをしていた魔族のひとり、半魚人のリーヤーは、近づいてくる挨拶の声で、少年が広場に来たことを知った。打ち合わせをいったん止めて、少年に声をかける。
「やあセト、おつかいかい?」
「リーヤーさん、こんにちは!」
セトと呼ばれた少年は、リーヤーにも笑顔で挨拶をする。あまりの気持ちよさに、リーヤーも自然と笑顔になった。
「いつも元気だね」
「あいさつはしっかりしなさいって、じいちゃんいつも言ってるから」
半魚人のリーヤーは老齢ということもあるが、種族の特長として身体は大きくない。身の丈は二〇〇オーログ(約一四〇センチメートル、一オーログは約〇.七センチメートル)ほどで、セトよりも小さい。だがこの少年と顔を合わせる機会が多いリーヤーは、彼のことを孫のようにかわいがっていた。今も自然と目を細めてしまっている。
「そうか、そうか。・・・長老の具合はどうだい?」
訪ねると、それまでのはつらつとした空気にほんの少し陰が差したようだった。
「あんまりよくないよ。今日もこれから薬をもらいに行くんだ。もう歳だから仕方ないってじいちゃん言うけど、ヘンな咳するし・・・」
セトが口をとがらせるようにして下を向いてしまったので、リーヤーはなんだかとても悪いことをしてしまったような気分になった。
「そうかい、心配だね・・・。長老にはお大事に、と伝えておくれ」
そう伝えると、セトはまたすぐに笑顔を取り戻して、「はい!それじゃリーヤーさん、さようなら!」と挨拶すると、ぺこりとお辞儀をしてから去っていった。
リーヤーが半魚人特有のヒレのような手を振っていると、背後から先ほどまで打ち合わせをしていた人の奴隷が声をかけてきた。
「今のは・・・?」
「おや、知らないのかい?長老が育てている子供のひとりで、セトというのさ」
「長老というと、グレンデル様・・・ですか?」
「そうだよ。グレンデル老は、戦争で身寄りを亡くした人の子供を何人も引き取って育てていたのさ。もっとも、今はお年を召されてほとんど隠居状態だから、それもしていらっしゃらないがね。今一緒にいるのは、セトのほかには女の子がひとりいるだけじゃなかったかな」
リーヤーと別れた後も、セトは多くの魔族に挨拶をし、また魔族からもたびたび呼び止められた。町の領主の元にいるとはいえ、立場上奴隷であることには変わりがない。それでも彼は、町中の魔族から愛されているようだった。
町に住む魔族は、領主を慕ってついてくるものが多い。特にこのシュテンの町のような、辺境であるならばなおさらだ。領主がそうであるが故に、町の住民も多くは人間に対して寛大であった。
セトが広場を抜け、裏路地に入ろうとするとまた声がかかった。
「よう、セト!今日は素通りか?」
「リタルド兄ちゃん!」
振り向いたセトの顔がぱっと輝く。声の主は、二年前までセトとともに長老の家で暮らしていた人間のリタルドだった。
色白なセトとは対照的に浅黒い肌を持つリタルドは、体格もセトとは比べものにならないほど大きい。実際四つ年上なのだが、同年代と比べてもがっしりとした筋肉質の体つきをしていた。髪も短く刈り込まれていて、彫りの深い顔立ちがいっそう精悍に見えた。
そんな彼が血の付いた分厚い肉断ち包丁を肩に担いでいるとなれば、戦いを終えて帰ってきた戦士とも思えるがそんなことはなく、鎧の替わりに防水使用の前掛けを身につけている。グレンデルの元を出て以来、肉屋に住み込みで働いているのだった。
「今日はいい豚が入ってさ。さっき捌き終わったところなんだ。夕食にどうだい?お前、好物だろう?」
そう言われて、炙り焼きにした肉の油がしたたり落ちる様を想像してしまい、セトは思わず生唾を飲み込んだが、あわてて首を振った。
「だめだよ。そんなにお金、ないし。それにじいちゃん今調子悪いから、肉なんて食べられないしさ」
断ったものの、一度想像してしまった肉の香ばしく焼ける匂いを簡単には打ち消せず、店頭に並べられた切り肉から目が離せなくなってしまっている。そんな様子はまだまだ子供だなと、長年一緒に暮らして弟のように感じている少年の姿にリタルドは苦笑した。
「わかったわかった。じゃあ俺が買って持っていってやるよ。じいさん調子悪いなら、見舞いも兼ねてな」
「え、ホント!?」一瞬笑顔を浮かべて、それからまた表情を暗くする。「でも、うち、本当にお金・・・」
セトを養っているグレンデルはこの地の領主であるが、現在は隠居状態であることに加え、本人が清貧を好むことから、財産をほとんど持っていない。今はセトらが面倒を見る鶏などわずかばかりの家畜の肉や卵をたまに売る以外に収入はなく、グレンデルを慕って訪れるものたちが置いていく食料や貨幣をやりくりして生活しているのが実状だった。無駄遣いをする余裕はないのだ。
もっとも、領主を慕っている、という点ではリタルドも同様である。
「俺が買う、って言っただろ。春祭り用に貯めてあった分を一足先に崩せばいいだけだから大丈夫。俺の分と、お前の分。それと・・・女の子いたよな。名前は・・・」
「シイカ」
「そうそう、シイカ。三人分持っていけばいいだろ?」
「・・・うん!」
満面の笑みを浮かべるセトにつられて笑いながら、リタルドはシイカの姿を脳裏に描いた。ちょうど自分が家を出たのと入れ替わるようにして長老の家に入った女の子なので、面識はあるが一緒に暮らしたことはない。セトとそう変わらない歳らしいが、詳しいことは知らなかった。
ただそのはかなげな面立ちと、自分などが乱暴にさわったらそれだけで壊れてしまうのではないか、と感じる身の細さが印象に残っている。
その姿を思い浮かべて、リタルドはちょっと不安げにつぶやいた。
「あの子・・・肉なんか喰うのか?」
仕事が終わったら長老の家に行く、というリタルドと別れて、セトは裏路地に入った。長老の薬をもらいに行くのだ。
にぎやかな広場や表通りと違って、一歩入っただけで静かになり、空気すらヒヤリと冷たくなったように感じられる。もともとこの町は人間が暮らしていた町をほぼそのまま使っているので、大通りはともかく、狭い裏路地は体の大きなものも多い魔族には使いづらい。そのためたまにすれ違うのもほとんどが人であった。
裏路地のちょうど中程に、セトの目的地があった。住居のたたずまいは人が使っていたほぼそのままなのに、入り口の扉だけより大きなものに造り替えられている。いかにも無理矢理といった風情でバランスが悪い。その無理矢理な扉の上端に、お手製の看板が掲げられていた。実はその看板はセトがまだもっと小さな頃に作ってあげたものであった。
「がんふぁのくすりや こちら」
作ってからだいぶ経ち、セトはいい加減恥ずかしいのではずしてくれと頼んでいるのだが、いっこうに聞いてもらえない。まだ背丈が足りなくて看板に手が届かず、自分でははずせないので、セトは早く大きくなって自分であの看板をはずそう、と思っていた。
そんなことより今は薬をもらおうと、セトはドアノブに手をかけ引いた。ノックはしない。ノックをしたところで返事が来たためしはないのだ。ちなみにいちおう店舗型住宅なので扉の脇にはカウンターが設置され、そこで商売ができるようになっているのだが、この薬屋の主がそこを使っているところを見たことは一度もなかった。
扉を開けて中にはいるとすぐに階段があり、二階に上がるようになっている。光が入ってこないので薄暗く、少し湿っぽい。これは薬草の品質を保つためにわざとそうしているのだと聞かされていた。
「ガンファ、来たよ!」一応大声でそう声をかけてから、階段を上がっていく。石造りの階段はそれほど広くない上、ところどころ端っこに薬が入っているらしい壷が無造作に置いてあって、気をつけないと蹴りとばしそうになる。セトは幼い頃実際にこの壷を割ってしまったことがあって、ひどく怒られたのを覚えていた。
階段を上がってすぐの部屋をのぞき込むと、先ほどから漂っていた薬の独特のにおいが強くなって、セトの鼻をつんとついた。
床の上は衣類や何かの書類が散乱しており、テーブルの上には食べかけの食事(といってもさっきまで食事をしていたわけではなくて、ずっと放置されているようだ)。全く整頓されていない室内であったが、奥に設置されている薬草棚の中だけは、いつでもしっかり整理整頓されていることをセトは知っていた。
その棚の隣にある大きな作業机の上で、薬屋の主、ガンファが今も作業に没頭している。セトの方には背を向けたままで、来客に気づいている様子は全くなかった。
「ガンファったら」
背中に向けて声をかけても一向に気づく様子はない。作業がはかどっている時はいつもこうなのだ。つきあいの長いセトは慣れっこなので、ひとつ息をつくと散らかった部屋を片づけ始めた。
ガンファはセトの倍はあろうかという巨漢なので、服を畳むのも一苦労だ。それでも何とかやっつけて、次いで散らばった書類をまとめてテーブルの上に置いたあたりで、ようやくガンファはこちらに気づいたようだった。
「あれ・・・セト」
身体を半分回してこちらをみたガンファは、目玉が一つしかなかった。両目の片側を失ったという意味ではなくて、元から一つだけの目玉が顔のほぼ中央に付いているのだ。
単眼の巨人・ガンファは、その風貌にはおよそ不似合いなのんびりした口調でセトに話しかけた。
「いつ来たの・・・?」
「さっきからいたよ。ガンファ、ちっとも気が付かないんだもの」
「そうか。長老の、薬、かい・・・?」
ガンファはいつもゆっくりとしゃべる。驚かせてもゆっくりと驚くし、怒るときも一言一言、噛み砕くようにして怒る。セトはそんなガンファが大好きだった。一緒にいるだけで自分の心までもが落ち着いて、澄んでいくような気持ちになるのだ。
「うん」セトがうなずくと、ガンファはゆっくりと腰を上げた。薬草棚の一番上の引き出しを開けて、調合済みの薬が入った小さな包みをいくつか取り出す。
それらを一つの麻袋にまとめて入れると、セトに手渡した。
「はい。分量は、いつもと、同じだから」
「ねぇ、ガンファ。もっとよく効く薬はないの?」
セトは思わずそう尋ねてしまった。
ガンファを信用していないわけではない。むしろ、ガンファの薬草師としての腕前は一級品であると、セトは信じていた。だが一方で、グレンデルが体調を崩す頻度は日に日に増しているのだ。
セトの不安を読みとったガンファは、優しい笑みを浮かべた。
「セト。薬はね、強ければいいというわけじゃ・・・ないんだ」
「・・・」
「老いれば弱るのは、人も、魔族も同じだよ・・・。長老は、もうずいぶん長い時を過ごされてきたんだ・・・。効力の強い薬を与えても、それは、毒にしかならない・・・んだよ」
セトは聡明な子供だったから、ガンファの言葉を理解することができた。そして柔らかく笑うガンファの表情の奥の悲しみを感じて、下を向いた。
「・・・ごめん」
ガンファは何もいわず、その大きな手でセトの頭を優しく撫でた。
ガンファと別れ、薬屋を出る頃には、狭い路地の間の空がうっすらと暗くなり始めていた。
「あれ、もうこんな時間だ」
セトの暮らす長老の屋形は町のはずれにある。少し急がないと、着く頃には日が落ちてしまっていそうだった。
急ぎ足で路地をでて、広場にはいる。人が集まる中央広場は出店もよくでているが、この時間になるとどの店もそろそろ店じまいを始める頃で、昼間とは違ったざわつきが感じられた。
そのまま広場を抜け、帰り道の通りに入ろうとすると、正面からやってきた人の奴隷が片手をあげてセトに挨拶した。見覚えのない人だったが、セトは日頃の習慣で挨拶を返した。
すると、その人が笑顔を浮かべてこちらに近づいてきたので、セトは少し戸惑った。この町は奴隷に寛大とはいえ、顔見知りでもない人の奴隷に親しげに接触されることはこれまでほとんどなかったのだ。
「きみ、セト君?」
「はい、そうです」
「グレンデル様のお屋敷に住んでいるんだって?生まれはどこなの?」
戸惑いながらも、純朴なセトはやり過ごすということを知らないので、正直に答えた。
「どこで生まれたかは・・・知りません。小さい頃からずっと、ここでじい・・・長老に育てていただいたので」
「ふうん。サンクリークのあたりの出身に見えるよね。・・・ご両親は?」
「・・・わからないです」
なぜそんなことを聞かれるのかわからず、セトは少し不安になった。
「あの・・・すみません、ぼく、急いでるので」
「ああ、引き止めて悪かったね」
申し訳なさそうに言うと、意外とあっさり解放してくれた。
セトはぺこりと頭を下げて、その場を離れた。
残った奴隷のほうはというと、先ほどまで浮かべていた人当たりの良さそうな笑顔を少しゆがめて、企み事をしているかのような表情を浮かべていた。
「ふうん・・・近くでみると、確かに面影があるかな。まぁ、決まりだろう」
身を翻し、街門のほうへと歩いていく。
翌日には、この奴隷は町から姿を消していた。