約束
八
死者の魂は、かつての自らの肉体を離れると、通常は空へと浮かび上がり、やがて天空に吸い込まれて、次に生まれるあらたな魂の礎となる。そのように言われていた。
ただ中には、たとえばこの世に強い未練があったものなどは、天空へと吸い込まれずにそのままこの世界に残るものがいるという。そうなったものは、あらたな生命となることはできず、ただ消滅するまで、この世界を漂い続けている。
その魂が天空へとあがることなくそこへ留まっていたのは、強い未練があったからであろうか。生前の彼を知るものなら、そうに違いないと言うだろう。自らの望む世界を実現するために、すべてを犠牲にして邁進した男であった。
だが、魂のみの存在となった彼には、もはやそういった未練など残されていなかった。まるでどこかに置き忘れてきたかのように、すっぽりと抜け落ちてしまっていたのである。
魂はあたりを見回した。といっても、目玉があるわけではないから、感覚的な問題である。
周辺は破壊し尽くされていた。つい先ほど、頭上から落ちてきた空を覆い尽くすほどの巨大な火球が原因だった。
その場所は生身の人間ではとてもいられないほど高温になっていたが、魂である彼には関係のないことだった。だが、彼はそこに居たくないと思った。
魂はそこから離れた。
あらためて見回すと、たくさんの光の粒が、あちらこちらに浮かび漂っているのがわかる。
きっとあの光は、自分と同じように行き場をなくしてさまよっている魂なのだろう。彼はそう理解した。
まだ自分に肉体があった頃のことを思い出すことはできるが、そうして思い浮かぶ光景にはいろがなかった。あのとき自分がなにを思っていたのか、なにをしたかったのか──そうした感情が、いっさい抜け落ちていたのだ。そのせいで、まるで他人の記憶のようだった。
このまま、あのたくさんの光と同じように、自分もさまよえる魂となって漂い続けるのだろう。
魂はそう思ったが、そんな中にひとつだけ、ひとところに留まり続ける光を見つけた。
その光はとても澄んでいて、まっすぐな輝きを放っていた。その清廉な輝きに目を奪われるうち、魂はひとつだけ、果たすことのできなかった約束を思い出した。
そうだ、俺は戻らなければいけなかったんだ。
その場所はきっと、あの美しい光の元だ。魂となった今ならば、時間も距離も制約にならない。きっとすぐにたどり着けるだろう。
すべきことを思い出した魂は喜びに光を強くし、空を舞うようにしてまっすぐな輝きを放ち続ける光の元へと向かった。
セト、シイカ、そしてグローングの三名は、『かみのて』が破壊した旧魔王城の惨状を呆然と眺めていた。
本来、火に強い石造りの城ではあるが、『かみのて』の作り出した火球の熱量は、それをものともしなかった。超高温で焼かれた旧魔王城はところどころマグマのように溶かされながら、もとの形を想像できないほどぐずぐずに破壊されてしまっている。
旧魔王城の周辺にわずかばかり広がっていた森林もまずは火球の圧によってなぎ倒され、えぐられた土の上で骸のようになって燃えていた。
「竜よ」
グローングがやっとの思いで言葉を出した。
「止める手だてはないのか」
そう言われても、シイカはすぐに答えることができなかった。答えることができない、それ自体が雄弁な答えになっていることを自覚しながら。
「・・・『太陽の宝珠』は、神とこの世界を直接つなぐ唯一の媒体、『かみのて』はその管理人です。つまり、『太陽の宝珠』と一体化しているあの『かみのて』を倒せば、この世界は神の管理から切り離されることになります」
「ほお、意外と分かりやすい突破口だな。だが──」
グローングの言葉に、シイカは首を縦に振った。
「『太陽の宝珠』の魔力は膨大です。世界を破壊するという『かみのて』の言葉も、駆け引きではありません。本当にこの世界を残らず破壊できるだけの力を持っているのです」
「弱点があったりしないのか?」
「フェイ・トスカの身体を媒体に使っているとはいっても、あれはもはや生命ではなく、魔力の固まりです。魔力を放出しきってしまえば消滅しますが・・・」
「そのころには、世界も破壊し尽くされているというわけか」
「・・・」
シイカはうつむいた。
「でも、行かなきゃ」
そう言ったのはセトだ。「ここで見ていても、なにも変わらないよ。行けば、何かが変わるかも」
「そこまで楽観的には考えられんが、行動を起こすべきという意見には賛成だ」と、グローング。「せいぜい邪魔をして、相手に無駄な魔力を使わせれば、ひょっとしたら世界を破壊し尽くす前に魔力が尽きるかもしれん」
「ですが・・・」
シイカはその言葉に否定的な目を向けた。『かみのて』はもうこちらを敵視しないだろう。そんな必要はないのだ。かりにうまく挑発してこちらを攻撃するようにしむけたとしても、どれほど浪費させれば『太陽の宝珠』の魔力が尽きるのか、シイカには想像することもできなかった。
どう考えても、こちらの体力が尽きる方が早い。
口に出さずとも、その考えはグローングへと伝わったようだ。というよりも、やはりグローングも同じように考えてはいたのだろう。
「絶望的でも、やらんよりましだ」グローングは言い切った。「このまま大地ごと我が人民が貪られていくのをただ見ているなど耐えられんしな」
砂漠地帯であるこのあたりには人間も魔族も住んではいないが、『かみのて』がじきに北上してそうした地を攻撃することは自明だ。
グローングが決断できずにいるシイカを置いていこうとするのを見て、ようやくシイカも決意が固まったようだ。
「・・・わかりました。でも──」
シイカはせめて、セトを下ろしてやりたかった。威嚇をするのに、セトが乗っていても意味はないからだ。だが、セトは先手を打った。
「僕も行くよ、シイカ。相手の攻撃をよけるのに、目は多い方がいいでしょ」
「下が安全とも言えんぞ。竜の翼ならよけられる攻撃でも、人の足ではそうはいかんからな。流れ弾一発でおわり、ということもありうる」
グローングにもそう言われてしまうと、シイカはそれ以上言うことはできなくなった。
「見て!」
セトが指さしたその先で、『かみのて』がゆっくりと移動を始めていた。その行く先は──。
「やはり、北へ向かうか!」
グローングが吐き捨てるように言う。『かみのて』は人や魔族の住む北の大陸から破壊するつもりなのだ。
こうなれば、もはや迷う時間も議論する余裕もない。
「ほかに手はない。できるだけ奴の近くを飛んで、進路を邪魔し、魔法で攻撃させろ!そして体力の続く限り、それをよける!奴の魔力がどれだけあろうが、それが尽きるまでやるのだ、いいな!」
グローングが号令し、セトとシイカがうなずいた。
先にグローングが翼をはばたかせ、落下を使って速度をかせぎながら『かみのて』を追う。シイカも同じようにしながら、別方向から『かみのて』へと迫った。
どれほどの抵抗ができるかはわからない。だが自分たちの背中に多数の生命がかかっていることを知っている以上、抵抗をしないわけにはいかないのだった。
同じ頃──ユーフーリン領でセトたちの帰りを待つマーチは、ユーフーリンの屋敷の一室にいた。
マーチはいすに座り、机に突っ伏して眠っていた。その手にはセトが預けていった首飾りが握られている。
つい先ほどまでは、窓から空をのぞいて遠く東にいるセトを案じていたのだが、昨晩はさすがに心配が先に立ってあまり眠れなかったために、簡単な昼食を済ませた今頃になって眠気にあらがえなくなったのだった。
ただ、このとき彼女が眠っていたことは、世界にとって幸運であったといえる。
眠っていなければ、こんな夢を見ることもなかったのだから。
「ここは・・・?」
マーチは闇の中にいた。
先ほどまでいた室内ではない。座っていたはずのいすも、机も、なにもない。ただひたすらに暗闇であった。
だが、人間ならば誰でもが抱く闇への恐怖心は感じられなかった。不思議なことに、やすらぎすら感じられるほどだ。
これは夢なのだろう。マーチはほとんど直感的にそう理解した。
夢にしては現実感があるが、夢であることを理解しながら夢を見るということもときにはあることだ。
とはいえ、こう暗いだけではいったいなんの夢なのか。そんなことを考えていると、自分の胸のあたりからぽうっと柔らかな光が生まれた。
目線を落としたマーチは自分の胸が光っているのを見て少しだけ驚いたが、すぐにその光の正体に見当がついた。
胸元に手を入れて、その光を放つものを取り出す。セトから預けられた首飾りが、淡い青の光を放っていた。
精緻な竜の細工は崩れてしまっていても、こうして光に包まれた銀の首飾りは美しい。
マーチがその光景に見とれていると、光が首飾りを離れ、ひとりでに中空へと舞った。
すると光は唐突に広がって、瞬く間に人の姿をかたどったのである。
マーチはその人物に見覚えがなかった。
美しく長い黒髪をもつその女性は、こちらを見ると、かすかに首を傾げてやんわりとした微笑みを浮かべる。そして、鈴を転がしたような声音を発した。
「マーチさん、ですね?」
「え?あ、はい。そうです」
思わずこちらの口調も丁寧になってしまう。見た目の年齢はマーチとそれほど変わらないようにも見えるのだが、その物腰から、こちらもいい加減な対応をしてはいけない気分にさせられたのだ。
「私は、シフォニアといいます。セトの母です」
会釈して膝を落とす、貴族式の挨拶をされてマーチははっとした。セトが首飾りをマーチに預けるとき、この首飾りには母さんが宿っていると、確かに言っていたのだ。もっとも、竜の試練の詳細を知らないマーチには、そのときは単に母の形見だという以上の意味には思えなかったのだが。
シフォニアは、あらためてマーチに視線を向けると、相好を崩した。
「あなたが、セトの選んだ女性なのね」
「うえっ?あの、まあ・・・はい」
ずばりと言われて、マーチは赤面した。
シフォニアは、あわてて下を向いたマーチの初々しさを微笑ましく見つめていたが、それも束の間、すぐに表情を険しくした。
「いろんなお話をしたいけれど、残念ながら時間がないの。あなたに、伝えなければいけないことがあります」
マーチも、シフォニアのただ事ではない雰囲気を感じ取って、顔を引き締めた。
「なんでしょうか」
「その前に・・・驚かないでくださいね」
シフォニアがそう言うと、彼女の身体から分かれるように赤い光が飛び出してきた。シフォニアが青い光であったのと対照的なその赤い光は、やがて同じように広がって人の形になった。
その姿に、驚かないで、と言われていたものの、マーチは驚かずにはいられなかった。
「フェイ・トスカ!」思わず叫んでしまう。
赤い光が形作ったのは、セトが止めに向かったはずのフェイ・トスカ本人だったのだ。
フェイ・トスカはなにも言わず、無表情でマーチのことを見つめている。あの高圧的な暗闇色の鎧は身につけておらず、どこか清廉な印象さえ受けるその立ち姿に、マーチは戸惑った。
「彼は、魂となるときによほど強い衝撃受けたのか、記憶のいくつかを落としてきてしまったようです。彼の魂は傷ついていて、残された意識も薄れつつあります。あなたに危害を加えたりはしませんから、安心してください」シフォニアがそう説明する。「彼は昔に交わした私との約束は覚えていて、こうして私のもとへと帰ってきてくれました。そして、私に戦いの顛末を教えてくれました──彼の記憶を知ることによって」
「顛末・・・って、もう戦いは行われたの!・・・ですか?」
ついいつもの口調で叫んでしまって、あわてて語尾を付け加えた。
「でも、眠ってしまう前は、やっとお昼を過ぎた頃だったはずで・・・」決戦は満月の夜に行われるものと思っていたマーチは、自分がそんなにながく眠りこけていたのかと思ったが、シフォニアはその考えを優しく否定した。
「あなたがこの後目覚めても、まだ夕方前です。そうではなくて、セトが今いる場所はあなたがいる場所よりもだいぶ東側なので、日が沈むのが早くなるのです。・・・あまり詳しい理屈はわかりませんけど」
通信や長距離の移動などが一般的でないこの世界では、時差という概念は確立していない。一部の魔法使いが知っている程度だ。
「とにかく、戦いはすでに行われ・・・セトはフェイ・トスカを説得することはできませんでしたが、戦って打ち倒すことには成功しました。しかし、神はセトの願い──思想の異なるものを異世界に閉じこめることをせず、魔族も人間も等しく同じ世界で暮らすという願いを聞き入れませんでした。それどころか、勇者が神のルールに背く発言をしたことに怒り、この世界を破壊すると宣言したのです」
「世界を、破壊・・・?」
マーチはシフォニアの言葉を繰り返したが、言葉の意味を実感することができなかった。
シフォニアはマーチが首を傾げるのを見て、眉根をひそめてすこしだけ悲しげな表情を浮かべた。
「実感できないのも、無理はありませんが・・・」
どうしたら真実味を持ってもらえるだろうか、とシフォニアが思案したあげく、とんでもないことを言い出した。
「マーチさん、あなたもフェイに触れてみてください」
「えっ!」
マーチは思わず高い声を上げてしまう。
「夢の中は、魂の世界と似ています。あなたがフェイに触れれば、私がそうだったように、あなたにも彼の記憶がわたるかもしれない」
そう言って、シフォニアはフェイ・トスカの右手をとってマーチに差し出した。
マーチはその右手を凝視したまましばらく動けないでいた。彼女にとってフェイ・トスカは、セトの父親であるということは知ってはいても、やはりセトを突き殺した張本人で、悪人のイメージが強すぎたからだ。
だが、マーチがあきらかにためらう様子を見せても、シフォニアはフェイ・トスカの右手を引っ込めようとはしなかった。マーチが困った顔でシフォニアを見ても、神妙な顔でうなずきかえすだけである。
マーチはしぶしぶと手を伸ばし、指先でフェイ・トスカの手の甲にちょんと触れた。
その途端、フェイ・トスカの魂に残された記憶が、奔流となってマーチの脳裏に流れこんできた。
映像が映し出されるわけではなく、音声が響くわけでもない。まさに記憶は記憶のままで送り込まれてきた。
渡されたのは、祭壇で『かみのて』を呼び出し、セトとふたたびまみえ、戦って敗れた記憶。そして、魂となったフェイ・トスカが、もとの肉体から『かみのて』によって追い出された記憶。
そして、肉体を乗っ取り、異形へと変貌した『かみのて』によって、天を覆うほどの火球が頭上に落とされる記憶だった。
「う、・・・あっ!」
マーチは、自分の中に自分のものではない記憶が生み出される感覚に戸惑い、振り払うようにしてフェイ・トスカから手を離した。
「今のは──本当のこと・・・なの、ね」
色のない記憶は、どこか空虚なものがあった。だが、口で語って聞かされるよりはよほど鮮明で、説得力のあるものだった。マーチは納得するほかなかった。
「セトは、まだ無事なの?」おそるおそる、そう口に出してみるが、その問いに答えられるものがこの場にいないのは明らかだった。今この場にいる三人は、みな同様にあの場所でのフェイ・トスカの記憶を持っているのだから。
「すくなくとも、あの巨大な火球が落ちてくるとき──近くにセトの姿はなかったようです。無事でいると信じるほかはありません」
シフォニアの言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。
「私たちは、これからセトの元へと向かいます」
「これからって・・・セトはずっと遠くにいるのでは?」
「魂である私たちには、距離や時間は問題になりません」
シフォニアはあっさりとそう言った。そもそも、つい先ほどまでセトと戦っていたフェイ・トスカの魂が今ここにいるのだから、確かにそうなのだろう。
「フェイは力を貸してくれると言っています。セトのために、できることをしにいきます」
シフォニアは、小さく笑顔を浮かべていた。はじめて両親として息子になにかしてやれることが、嬉しくすらあるかのように。
「マーチさんはこの夢から醒めたならすぐに、世界が崩壊の危機にさらされていることをひとりでも多くの人に伝えてください。『かみのて』はきっと息子が何とかしますから、それまでは少しでも安全なところに隠れているようにって」
「そんなの、どうやって・・・」
マーチは戸惑った。ろくな通信手段もないこの世界で、遠くへ意思を伝えるのは簡単なことではない。まして時間もないのだ。
「無理なら、あなたの周りの人だけでもかまいません。できるだけ頑丈な建物に入るなどして、すこしでも犠牲になる生命を減らせるように。お願いします」
シフォニアは頭を下げた。そのいさぎよい態度を見て、マーチはこれ以上戸惑っている姿を見せるわけにはいかないと、対抗心のようなものを感じて、「わかりました、努力します」とできるだけ張りのある声で答えた。
それを聞くと、シフォニアは笑顔になった。「ありがとう」といってもう一度頭を下げた。
「セトは、かならずあなたの元へ帰します。──そのときはあの子のこと、よろしくお願いしますね」
「は、はい!」
最後の返事は、少しばかりうわずってしまったのだった。
形容しがたい緑と白の怪物と化した『かみのて』は、進路を変えることなく、順調に北上を続けていた。
速度はそれほど速くはない。シイカばかりでなく、グローングも余裕で追跡が行える程度だ。ただし、もちろんただ飛んでいるだけではなかった。
『かみのて』がここまで通ってきたところは、ほとんどが半砂漠化した荒れ地ではあったが、そうした土地の上に、『かみのて』は容赦なく魔法の災害を降らせているのだ。
火球の雨を降らせて岩山を削り取り、雷を落として大地に大穴をあける。使われる魔法も、時間がたつごとにどんどん強力なものになっていくようなのだ。
セトを乗せたシイカ・ドラゴンと魔族の王グローングは、『かみのて』の周りをうるさく飛び回り、少しでも『かみのて』の注意を自分たちの方へと向けさせようと努力していた。
直接的な攻撃は予想通りほとんど効果を持たなかった。グローングがなんどか接近してそのたるんだ皮膚を鉤爪で斬り裂いたが、斬り裂きはできるものの出血もなにもなく、すぐに傷口がふさがれてしまう。ひょっとしたら傷口をふさぐのに魔力が使われているかもしれないが、そうだとしても微々たるものだろう。
セトは長剣を鞘に収め、両手でシイカのたてがみをつかんで手綱のように操っていた。シイカは首を曲げないと見える範囲が限られているので、セトが周囲を警戒して伝えてやる方がより確実な機動が行えるのだ。
セトとシイカ、そしてグローングは交互に『かみのて』の正面をふさぐ。『かみのて』はほとんどの場合意に介さず、高度を上げ下げしてよけていこうとするが、それでもくらいつくと、時折強烈な魔法をセトたちにむけて放ってくるのだ。
だが、それも『かみのて』がこれまで大地にむけて放った魔法の量からすればほんのわずかなものでしかなかった。
そうしているうちにも『かみのて』は北上を続け、ついには大陸南の大河、カカリ川が視界に入ってくる。
あの川の周辺はすでに人や魔族の暮らす地域だ。そして、川を越えてしまえばすぐにいくつかの都市があり、本都グローングももうそう遠くはない。
「あはははは、壊すのは楽しいなぁ!」
『かみのて』が叫んだ。
黄色の目玉を見開いて叫ぶその声色は心底嬉しそうだった。先ほどまでの平板な口調とは全く違っている。
「美しく作り上げた世界を自らの手でたたき壊す!これほど爽快なことはない!おそらくはこれこそが神のご意志!この快感のために世界は作られたのに違いない!」
「なにを言うんだ!」
それを聞いたセトが叫びかえした。
「壊すために作るなんて、そんな神さまがいるもんか!」
「力のないものにはわからんのだよ」
『かみのて』はそういうと、目元をぐにゃりとゆがめた。ほかに表情を示すパーツがないのでわかりにくいが、おそらく笑ったのだ。それも、セトたちをさげすむような笑いだった。
『かみのて』は眼前に迫りつつあるカカリ川へと視線をむけた。
「そろそろ魔力を使うことにもなれてきた。次はあの川を氾濫させてみよう」
「やめろ!あそこにはもう、人がいるんだ!」
「だからどうした。心配しなくとも、世界は等しく破壊してやる。生き物がいようがいまいが、関係なくな」
セトからすれば、『かみのて』の言動はすでに常軌を逸していた。その姿に一瞬、祭壇での戦いで強力な魔法を連発していたときのフェイ・トスカの姿が重なって見えた。
強大な力を持つと、みなあのように変わってしまうのだろうか。
そんな思いにとらわれたものの、すぐに現実に引き戻される。
『かみのて』がセトたちにむけて火球を放ち、シイカが急な機動でそれをよけたのだった。
「セト、気をつけて!」
たてがみから伝わるセトの気配が一瞬途絶えたことを案じたシイカが声をかける。
「ごめん、シイカ・・・」
セトはそう口に出しながら、ふいに背後から圧力を感じて振り返った。
「シイカっ!」叫びつつ、たてがみを引いて回避を指示する。
一度避けたはずの火球が、弧を描いてシイカの背後から迫ってきていたのだ。これまでそうした攻撃は一度もなかったため、シイカは攻撃をよけきったつもりになってしまっていた。セトも一瞬とはいえ思索にとらわれてしまったことで、反応が遅れてしまった。
シイカはそれでもセトの指示に従って右へ身体をひねったが、火球はなおもその動きを追尾する。ついにはシイカ・ドラゴンの左翼に命中した。
「うわっ」
セトは衝撃で身体が浮き上がるのを感じたが、鞍にベルトで結びつけられているためシイカの身体から飛ばされることはなかった。だがバランスを崩したシイカは身体を安定させようとしない。
見れば、首が下がってしまっており、気を失っているようだった。飛び散った火球の破片が頭にあたりでもしたのだろうか。
意識を失ったシイカが、高高度から落下する。
セトは、たてがみをめいっぱい引っ張って、何とかシイカを覚醒させようと試みた。だが、シイカは頭から落ちていくため、セトも落下の風圧をもろに受ける。その衝撃はすさまじく、セトの意識さえ奪っていく──。
セト。負けてはいけませんよ。 懐かしい声が聞こえた。
約束したんだってな。 もうひとつ、別の声がした。
一本とったら、おまえにやるって。だから──。 やはり懐かしい声だった。
大事に使えよ。使ってくださいね。 ふたつの声が、暖かくセトを包み込んでいく。
意識が戻ると、シイカも目覚めていて、竜の巨体は墜落を免れ、地面すれすれを飛行していた。
「シイカ、大丈夫?」
「私は平気です。でも──声が聞こえました」
シイカは首を巡らせて、セトを見やった。
「あなたのことを、よろしく頼むって。その声で、意識が戻ったのです」
セトは、笑顔になった。「お父さんと、お母さんだよ。僕も聞いたんだ」
「セトには、なんて?」
シイカに聞かれて、セトは首を傾げた。
「おまえにやるから、大事につかえって。でもなんのこと──」
「セト、剣が!」セトの言葉を遮って、シイカが叫んだ。
セトが腰に目をやると、鞘に収めたままの長剣が光を放っている。
セトが剣を抜くと、刀身の長さが変わっていた。よく見れば、柄のデザインまで変わっており、まったく別物へと変貌していた。
そしてその姿に、セトは見覚えがあった。
「これは──破邪の剣だ」
父フェイ・トスカが、グローングに戦いを挑んだ際に使った剣。
邪な心を直接打ち砕くといわれる魔剣。試練の世界で、フェイ・トスカが持っていたものに間違いなかった。
その言葉を聞いたシイカは、しばらくしてはっと声を上げた。
「破邪の剣・・・それならば、『かみのて』に有効かもしれない」
「どういうこと?」
「それがまさしく破邪の剣ならば、肉体よりも精神にダメージを与える魔剣です。魔力とは精神に因っているもの。その剣で攻撃すれば、『かみのて』の魔力を削り取ることができるかも」
「本当に?」
「ただ、どれほどの効力があるかはわからないけれど」
「それでも、さっきまでよりはぜんぜんいいってことだよね!」
セトは空を見上げた。かなり上空なので見えないが、『かみのて』はもちろん健在のはずだ。今はシイカがここにいるのでグローングがひとりで抵抗を続けているはずである。
「でも、どうして──?」
シイカは首を傾げたが、セトは破邪の剣が与えられた理由が何となくわかっていた。
「僕、父さんと約束したんだよ」
フェイ・トスカから一本とったら、破邪の剣を成人の儀式で自分にくれるという約束。ただし、それは試練の世界での約束で、相手はまぼろしのフェイ・トスカだった。
試練の世界ではフェイ・トスカから一本とることはできなかったが、祭壇での戦いで勝利したことで、セトは現実世界において約束の条件を達成したのだ。
もちろん、試練の世界での約束が現実世界で果たされたことに疑問を感じることはできたが、セトからすればそんなことは些細なことだ。
父と母が自分に声をかけ、力を貸してくれた。それだけで十分なのだ。
「さあシイカ、行こう!『かみのて』を止めなくちゃ!」
セトにたてがみを引かれ、シイカが再び高度を稼ぎはじめる。
セトは右手で破邪の剣を握り、その柄越しに父と母の思いを感じながら、先ほどまでの絶望感が嘘のように高揚する思いに駆られながら、『かみのて』のいる上空を見据えるのだった。