『かみのて』
四
明けて翌日、満月となる今夜は再びフェイ・トスカとまみえることになる日である。
セトは全体的に浅い眠りではあったものの、合計で三アルン(約六時間)ほどは眠ることができた。完調とはいかないまでも、支障のないレベルにはなっている。
「では、行くか」
昼になり、出発の準備をすませたセトたちの元へとグローングがやってきた。なぜか、少々疲れた面もちである。
「出る前に、最低でもこれだけはこなしていけと政務官に言われて、さっきまで仕事をしておった」
「大丈夫ですか?」とセトが聞くと、グローングは豪快に笑い飛ばした。
「わしは人間ほど貧弱な身体ではないから、一日二日眠らずとも支障はないわ」
しかしそういった後であくびをして、「とはいえわしもだいぶ老骨だからな。眠いものは眠い・・・」と言った。
本都グローングの魔王城から飛び立った一行は、月の祭壇のある旧魔王城へと一路邁進していた。
と言っても、シイカ・ドラゴンほどには速く飛べない魔王グローングのペースに合わせているため、ずっと彼女が全力で飛ぶ上で踏ん張っていなければいけなかったセトからすれば、ずいぶん快適である。
快適になったのは、速度が遅いこととセト自身が騎乗になれてきたこともあったが、魔王城の宝物庫にあった竜用の鞍をシイカが装着できたことも大きかった。
手綱などはなく、シイカの長くのびたたてがみを握っているのは変わらないが、座りごこちもいいし、なによりありがたいのは、鞍にベルトがついていてセトの身体を固定してくれていることである。これのおかげで始終気を張っていなくても滑り落ちることもないし、シイカが突然宙返りしたって大丈夫だ(もちろん、セトはシイカが絶対にそんなことをしないようにお願いしたのだが)。
南の大河カカリ川を越えて行くと、いつしか大地から緑は消えて、荒廃し、半ば砂漠と化した土地が目に入るようになる。
「このあたりは、熱帯の上に雨が極端に少なく、安定した食糧供給が難しい」
シイカと並んで飛ぶグローングが、セトにむかって言った。
「ここや、さらに南方の、海を隔てた先にある大陸など、異常気象で我らが住むことが出来ない土地はまだ多くある。そうした土地が開拓できれば、魔族と人間がともに暮らすことで上昇した人口密度など、さまざまな問題が解決できるのだが・・・」
グローングはすっかり政治家の口調になっている。いかめしい風貌には少々不似合いだが、これが魔王グローングの本性と呼べる一面なのかもしれない、とセトは思った。
「城が見えてきたわ」
シイカが言った。セトが正面を見ると、視界のさきのほうにまだ豆粒ほどの大きさではあるが、自然のままの周囲とは明らかに異なる人工の建造物があるのがわかった。
まだ太陽は西の空に浮かんでおり、夕刻よりもいくらか早い。
「このまま乗り込みますか?」
シイカが首を曲げて、グローングに聞いた。城には結界が張られているが、グローングなら解除は簡単なはずだからだ。
グローングは、その問いにすぐには答えなかった。しばらく四つの目を一様に細めて城の様子を見ていたが、やがて言った。
「いや、一度近くに降りよう。少し様子がおかしい」
本都グローングの魔王城と同等の大きさを持つ旧魔王城。そこは周辺を砂漠に囲まれているにも関わらず、旧魔王城を中心とした一帯のみに草木が生え、小さな森が形成されていた。さながらオアシスのようである。
森と城の間にある草地に降りたったセトを乗せたシイカとグローングは、そこから少し歩いて魔王城の正門付近へむかった。グローングはある地点でシイカを制止すると、自分はもう少し先へと進んでなにやら探りはじめた。
「やはりおかしい。結界が書き換えられておる」
しばらくしてシイカとセトの元へと戻ってきたグローングは、忌々しげにそう吐き棄てた。
「どういうことですか?」セトが聞いた。
「ここの結界はわしの認証があればすぐに解除できるようにしておいたのだが、それが出来なくなっておるのだ」
「勝手に書き換えられている?」とシイカ。「簡単に出来ることではないはず」
「そうだ。かなり強力な魔力を持つ何者かが──」そこまで言って、グローングは口をつぐんだ。
何者か、と言われて思い浮かぶ心当たりは、セトにもシイカにも、そしてグローングにもひとりしかいなかった。
「まさか、父さんが?」
「しかし、かつて戦ったときはそこまで強い魔力を持っているようには見えなかったが・・・」
「魔力は年齢に応じて多少変化するものです。フェイ・トスカの場合はそれが強まる方へと働いたのでは」シイカの声にすこし焦りが混じっている。「城の中に、警備のものなどはいますか?」
「いや、おらん。人員を割くのは費用がかかるし、実際、この城は重要拠点ではあるが、宝物が納められているわけでもないし、この地そのものに価値はない。入れないようにしておけば十分だと判断しておった」
シイカはそれを聞くと、少々強い声で言った。
「ならばなおのこと、このようなことをするのはフェイ・トスカ以外に考えられません。おそらくフェイ・トスカはすでに転移の魔法を使い、城内に進入したうえで、儀式を邪魔させないように結界を逆手に取ったのです」
「父さんがもう中にいるってこと?」セトの声も強くなる。「それって、まずいんじゃ」
「まずいわ」シイカが空を見上げた。まだ空の色が変わるほどではないが、太陽は少しずつ西へとかたむきはじめている。「グローング王、結界の解除は可能ですか?」
「可能だが、簡単ではない。ふつうにやれば、おそらく一~二アルン(約二~四時間)は見積もる必要があるな」
それでは遅い。月がのぼるまで、せいぜい一アルンといったところだ。シイカがめずらしく、獣らしいうなり声をあげた。
「強引に突破するわけには・・・」
「やめておけ。竜であるそなたは耐えられても、人間は無理だ。耐魔法の服を着ているといっても、せいぜい灰になるのが消し炭になるというほどの差しかないだろう」
「しかし!」
「おちつかんか。まったく、竜とはいってもやはり年若いものは同じだな。いくら逸ったところで事態は変わらん」
グローングに叱責されて、シイカは面目なさそうに首を下げた。
「ふつうにやれば解除まで二アルン、だが強引にやれば話は違う。竜よ、手を貸せ。魔王の名にかけて、月がのぼる前にやってみせるわ」
グローングは左腕をぐるぐると回しながら、再び結界のそばまで近づいていく。シイカも今度は後に続いた。
セトはシイカの上に乗ったまま、空を見上げた。いくらか空の端の色が変わりはじめているように見える。
魔力を持たないセトでは、この局面で出来ることはない。歯がゆさを感じながら、土の上に座り込んで集中を始めた魔王の背中を眺めるのだった。
旧魔王城内の最上階に、フェイ・トスカはいた。
そこはかつて、フェイ・トスカが勇者として魔王に戦いを挑んだ場所だった。あのときは高い天井に覆われていたが、いまそれは取り払われて、一面に空が広がっている。
空はすでに夕闇にいろどられていた。月の光がここまで届くのも、もはや秒読み段階だ。
グローングの座っていた玉座があったところに祭壇が設置されており、フェイはすでに『太陽の宝珠』をそこに安置していた。古文書にあったとおりの手順はすでにこなし、あとは月がのぼるのを待つばかりである。
フェイは石床の上に座り込んで瞑想し、魔力の回復につとめていた。転移の魔法に加え、邪魔ものの進入を防ぐために結界の書き換えをおこなった。相当に魔力を消耗したはずである。
だが、そう考える一方で、フェイは自分がさほど疲れていないようにも感じていた。転移の魔法は消耗が激しく、かつてはじめて使ったときは魔力どころか体力も使い果たし、そのあと一日は寝台から起きあがれなかった。だがいまは、転移の魔法を使った直後に魔王がつくったであろう結界に強制介入して書き換えるなどという芸当も難なくこなせるほどになった。
もちろん、かつてに比べればフェイ自身の魔力は強力になっているが、それにしてもここしばらくの成長は異常と言ってもいい。
ひょっとしたら、『太陽の宝珠』を長く身につけていたことで宝珠の魔力に影響を受けているのかも知れない、とフェイは考えていた。
結界は、しばらく前から何度となく揺らいでいた。外から干渉されているのだ。グローングがフェイ・トスカの動きに気づき、遅まきながら妨害にやってきたのだ、とフェイは考えた。
度重なる干渉で結界の魔力は弱まり、じきに突破されてしまいそうだった。
(だが、もう遅い)フェイはほくそ笑んだ。
もう空に明るさはなく、空の端まで見渡せるところであれば、月の姿も確認できるころだろう。この祭壇へ月の光が届くまで、もう時はないはずだ。わずかな差だが、状況はフェイに味方していた。
さらに言えば、たとえ結界が解除され討手が来たとしても、そしてそれがグローングだったとしても、フェイ・トスカは戦って勝てる自信があった。それくらい、心身ともに充実しているのを感じていた。
今の自分ならなんでもできる。そんな昂揚感にかられて、フェイ・トスカは瞑想をやめ、立ち上がった。
『太陽の宝珠』の側まで近づき、その様子を眺める。魔力の満ちた宝珠は煌々とした光をたたえながらも、まだ変化の兆しは見えない。
ついで上空をみたフェイ・トスカは、はっきりと笑顔になった。城の壁と空の境に、月の上端を見つけたからだ。
「さあ、早くのぼれ!」フェイは思わず叫んだ。
結界の魔力もかなり弱まっているのをフェイは感じていたが、それでもこの調子なら月がのぼるのが早い。
月はフェイを存分にじらしながらゆっくりとその姿を露わにし──ついに一寸の欠けもない満月となって祭壇を照らした。
「おお・・・」
フェイは感嘆の声をあげた。
それまで黄金色の光を放っていた『太陽の宝珠』が、月の光にさらされたとたん青白い光へと変貌したのである。
宝珠は徐々に輝きをまし、放たれる光がフェイ・トスカの視界を完全に奪うかどうか、といったところで、いったん収束した。
だが次の瞬間、宝珠の光は一気に拡散した。
「!」
フェイは光の波に押し流されるように感じて、両腕を前に出し、目を閉じてその場にふんばった。
フェイの身体を押す圧力はしばらく続き、唐突に収まった。
腕を解き、目を開けたフェイは、その光景に息をのんだ。
自分の立っている床やその先の柱、石壁が、ヒカリゴケが全体に付着したかのようにうっすらと発光しているのだ。先ほど宝珠から放たれていたのと同じ、青白い光だった。
さらに上空を見上げると、ちょうどかつて天井があったほどの高さを、やはり青白い光が包んでいるのだった。これまでこの旧魔王城を包んでいたのとは別の、この月の祭壇だけを包み込む結界であるようだった。
「なんだ?急に結界が──」
一アルンあまりの間、結界を解除するため休むことなく一点を見据えて魔力を注ぎ続けていたグローングが、頓狂な声を上げた。完全に解除するまでにはもうしばらくの時がかかると思われていた結界が、唐突に力を失ったからである。
「シイカ、あそこ!」
セトが指さした先──旧魔王城の最上階からは、青白い光が漏れだしている。夜の闇に映えるその光は、なにもないところに光の壁が出来たかのようになっていた。
「間に合わなかった・・・」首を伸ばしてその様をみたシイカが半ば放心したようにつぶやく。
「手遅れなの!?」
「城の結界は破れたぞ。今からでも突入できんのか?」
セトとグローングから相次いでそう言われて、シイカは思い直したように首を振った。
「グローング王は、ここに残ってください。ああなってしまっては、あの中に入れるのは私と、セトだけです」
グローングは、何か言いたげに口を動かしたが、それも一瞬のことだった。
「わかった」
「セト、覚悟はいいですか?」
シイカの声を聞き、その背上のセトは身体を震わせた。怖いのではない。これは武者震いだ。ここから先、たくさんのひとの運命が間違いなく自分にかかってくる。
「大丈夫。シイカ、お願い!」
精一杯、腹から声を出した。
「はい!」
シイカも威勢良く返事をし、翼をはばたかせはじめた。
結界の中のフェイ・トスカは、あたりを覆いつくしたその光景に一瞬目を奪われながらも、すぐに我に返って祭壇へ向きなおった。
『太陽の宝珠』は、祭壇に安置されたまま、青白い光を放出し続けている。ただし、目を塞がれるほど強い光ではなく、周囲の床や壁より少し強い程度の光だ。
そしてその横に、黒い影が浮いていた。
光に照らされた何かの影ではない。影そのものが質量をもったかのように、その場に浮いているのだった。
長細い影の大きさはだいたいフェイと同じくらいだ。
「宝珠の力を解放したのは、おまえか」
影がしゃべった。
影に口があるわけではなかったが、フェイにはそれがその影の声であるということがはっきりとわかった。
「そうだ」フェイは答えた。「おまえが神か?」
「ちがう」影が言った。「わたしは『かみのて』だ」
『太陽の宝珠』の力が解放された後のことについては、古文書に詳細な記載はなかった。だがフェイからすれば、願いさえ聞き入れられればあとはどうでもいいことだった。
「名前はどうだっていい。古文書にあった『力を持つもの』ってのはおまえのことか」
「おそらくそうだろう。わたしは神ではないが、神の遣いとして戦いに勝利した勇者か魔王の願いを聞き、神の代行としてその願いに力を与えることが出来る」
「それだけ聞ければ十分だ」
『かみのて』とやらの口調は抑揚がなく、しかもゆったりしているので、フェイは少々苛立ちながら言った。
「なら、俺の願いを聞いてくれ」
だが、『かみのて』の答えは意外なものだった。
「それは出来ない」
「なに?」
フェイは戸惑った。これ以上条件があるなどとは聞いていない。
「どういうことだ。『太陽の宝珠』の力を解放するだけでは足りぬと言うのか」
「ちがう。いまのおまえには資格がない」
「資格だと?俺は魔王と戦った勇者だぞ!」
「ちがう」『かみのて』はまったく抑揚なく言った。「おまえは勇者ではない」
「なっ・・・」フェイの頭は真っ白になった。
まさかここまできて、そんなことを言われるとは思いもしなかったのだ。
「ばかな!俺は伝承のとおり、かつて勇者が身につけた武器防具をまとい、一対一で魔王と戦ったんだぞ!俺が勇者でないというなら、この世に勇者など存在しない!」
「ちがう。おまえは思い違いをしている」『かみのて』を名乗る影の固まりが姿を変貌させた。ただの長細い球体だった影から頭部と手足が生え、人間の身体のようになったのだ。
「勇者とは、『竜の加護』を得たもののことを言う・・・いまから来る」
影の右腕に当たる部分が上げられ、フェイの背後を指した。
フェイが振りむくと、青白い光の結界の先に、巨大な竜の姿が見えた。
結界の光にはいかにも魔法の力がありそうだったので、突入するときには衝撃が来るかとセトは覚悟して目を閉じていたのだが、意外にも何の抵抗もなく、セトを乗せたシイカ・ドラゴンはするりと結界の中に入り込んだ。
着地のゆるい衝撃でセトが目を開けると、三〇ログ(約二一メートル)ほど先に重鎧に身を包んでこちらをみている男の姿があった。
「父さん!」セトは叫んだ。大急ぎで鞍と自分を結びつけているベルトをはずし、ゴーグルを脱いで鞍のでっぱりにひっかけると、滑るようにしてシイカの背から下り、一〇ログほどの距離まで駆けよった。
「間に合った・・・のかな?」
フェイ・トスカは険しい表情でこちらをみている。その様子では、まだフェイ・トスカの「世界をリセットする」という儀式は完了してはいないようだった。
「よくぞきた、勇者よ」
別の方向から声が聞こえて、セトはそちらをみた。人間の影をそのまま立体にしたようなものがいる。ほかに人影はなく、どうやら声はその影が発したようだった。こんな魔族もいるのかな、とセトは思った。
「あ、こ、こんばんは」勇者と呼ばれるのはまったくくすぐったかったが、影が自分に向かってそう言ったのは確かだったので、セトはグレンデルの教えにしたがって挨拶をした。
「貴様、なぜ生きている?」挨拶に被さるように、フェイ・トスカの声が響いた。「それに、竜だと?まさか・・・」
「セトは竜の試練を乗り越え、『竜の加護』を得たのです」答えたのはシイカだった。「『竜の加護』がどんな力を持っているかは、あなたも知っているのでしょう?」
『竜の加護』は、一度に限っては即死に至るほどのダメージでも無効化するという力を持っている。グローングはフェイ・トスカとの決戦において、この力によってフェイ・トスカに勝利した。
「勇者とは、神の遣いである竜によって選ばれた、『世界を正しき姿に導く』存在。竜は自らが選びしものに、証として『竜の加護』を与える」影が淡々と言った。
「それはおかしいだろう、『かみのて』さんよ」フェイ・トスカが言った。内心に渦巻く怒りを何とか抑えながら。「それなら、俺が戦ったグローングは魔王じゃなくて勇者だってことになっちまう」
「それはその通りだ」
『かみのて』は、フェイの言葉をあっさり肯定した。それから、体の向きを少し変えて、セトの後方にいるシイカに向かって言った。
「この男は、勇者と魔王の戦いのことを正しく知らないようだ。おまえやおまえの先代の竜は、正しいことを教えていなかったのか」
「それは──」『かみのて』の口調はやはり淡々として抑揚がなく、責めるような響きがあったわけではないが、シイカは首を下に向けた。
「おまえは、ずいぶん若い竜だな。──では、わたしが語ろう。ルールは正しく理解されていなければ、ときに公平さを欠くこともある」
『かみのて』はそう言うと、フェイとセトの二人に向かって語りはじめた。