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最後の王

   王国暦三〇〇七年 一〇月



    一


 カルバレイク王ヤムスト七世は、自室でひとり、本を読んでいた。

 石造りの壁にはここスベリウム特産である高価なカーテンがたっぷりと掛けられ、暖炉の火も燃料を惜しむことなく焚かれてはいたが、本来南国の人間である彼にはそれでもまだ不十分といえた。

 この地へ来るのは二度目。昨年も同じように冬に訪れ、深い雪に身ごと埋もれたような気分で春のはじめまでここにいた。

 今年もまだ冬の入りだというのに、外は今日も雪が降っている。積雪はまだそれほどでもないが、年中温暖な南国で生まれ育った彼にとっては、漂う空気まで雪を含んで重くなったように感じられて、陰鬱な気分になった。

 ヤムスト七世はひととき本をおいて、窓の外で音もなく降りつづくそれらを眺めた。外はすでに暗く、舞うように落ちる粉雪を確認できるのは、室内から漏れる灯りに照らされた範囲のみだ。

 熱帯気候である故郷カルバレイクでは、一度も雪を見たことがなかった。雪というものがどういうものなのかは、書物の記述でしか知ることができなかった。雨が冷やされて固まったものが降ってくると教えられ、それでは氷の粒が降ってくるのかと思っていた。そもそも氷自体、人工的に固められたものしか見たことがなかった彼は、そんなものが降ってくる環境で人が生きていくことができるのかと不思議に思っていたこともあったのだ。

 実際に雪は、その手に取ってみれば確かに水が凍ったものではあったが、彼が想像していたよりもずっと細かく、またはかないものであった。彼の手の上であえなく()けて、ただの水に戻った淡雪のはかなさに、彼は自身を重ねて見ずにはいられなかった。

 カルバレイク王ヤムスト七世の即位式が行われたのは、まだほんの二年ほど前のこと。それも正式な即位式に使われる錫杖も王冠もなく、教会の承認すら得ずに行われた、通常ならばどの国からも認められないであろう即位式だった。

 だが今、彼の即位に異論を唱えるものはない。

 なぜなら、すでにこの世界に人の国はなく、彼こそがこの世界に残った最後の王族だったからだ。


 勇者フェイ・トスカが魔王グローングに敗れたのち、各国は連合軍を結成して魔王軍と相対した。伝説の再現は失敗に終わり、戦争が始まったのだ。当初こそ圧倒的な兵力差でもって優勢に進軍していたものの、次第に各国間の損害の差などから連携に支障が出始める。

 そもそも、異世界よりの侵攻というかつてない事態に対抗するため協定が結ばれたとはいっても、すべての国々が友好関係にあったわけではない。大きな武力戦争こそ久しく起こっていなかったものの、協定の盟主となったサンクリーク王国をのぞけば、どの国にも少なからず敵対心を抱く相手はいた。

 それでもはじめのうちは魔王軍の圧倒的な武力への危機感から結束していたが、緒戦を勝利したことが逆にその結束をゆるめることになってしまった。

 一人一人は強力な魔族であっても、兵力を集中すれば勝てない相手ではない。そのことを知った人々は、やがて少しでも自国の損害を減らし、(本来の)敵対国の損害を増やすために政治的駆け引きをはじめた。

 補給が追いつかない、指揮官が負傷した、自国で反戦デモが起きた、等々の理由で前線まで兵を送らない国々が目立ち始める。領土の小さい島国、マホラ公国などは、「我が国の軍隊は自衛のための防衛軍であり、自国の領土が脅かされない限り、軍隊を派遣する理由がない」と宣言して軍隊を戻してしまった。

 それでも、盟主のサンクリーク王国に加え、第二王女がサンクリーク王国に嫁いだばかりのフェネリカ王国や、非常に好戦的なことで知られているトールバック王が自ら陣頭指揮をとるランジア王国などが中心となって、魔王軍と互角以上の戦いを進めていた。

 だが、一つの敗戦をきっかけに、戦況はいともあっさりとひっくり返ってしまう。

 魔王軍の重要な拠点を攻める戦いで罠にかけられ、トールバック王が戦死してしまったのだ。勇猛だが思慮に欠ける面のあったトールバック王は、敵を深追いしすぎて伏兵に遭い、あっけない最期を迎えてしまった。

 さらに悪いことに、トールバック王には三人の息子がいたが、王は後継者を明確に指名していなかった。そのため後継者争いが勃発し、ランジア王国はとても戦争を続けられる情勢ではなくなってしまったのだった。

 中心戦力の一角を欠いた連合軍は、次第に敗戦を重ねるようになっていった。徐々に戦力を減らしていく連合軍に対し、魔王軍の兵力はむしろ増えていった。異世界から際限なく増援が送り込まれてきていたのだ。

 兵力差という最大の武器を失ってしまったら、もはや人間に勝ち目はない。日和見を続けていた諸国もようやく重い腰を上げ始めたが、それは遅すぎる判断だった。

 一度傾き始めた天秤の針を元に戻す力は、もうどこにも残っていなかった。


 カルバレイクは大陸の南方、赤道付近に位置し、領土の面積はそれなりに広いものの大部分は熱帯雨林に覆われ、生産性は決して高くない。総国力も連合国の中では中の下というところで、対魔王軍の前線も領土からはかなり離れたところにあった。

 当時のカルバレイク王はリナス三世といい、暗愚ということはなかったが名君と呼ばれることもない男だった。治世においてはそれで十分といえたが、乱世を乗り切るには器量不足というほかはなかった。

 ほかの連合諸国と同様に、前線から遠いことを理由に挙げ、自国軍を前線に送ることはせず、補給線の維持にのみ部隊を割いていた。

 トールバック王の戦死は大きなニュースとして伝わっては来たものの、それでもまだどこかに、対岸の火事という気持ちは残っていた。これは出兵に非協力的な諸国が多かれ少なかれ持っていた感情といえた。

 この段階で兵力を結集することができていれば、あるいは違う結果があったかもしれないが、今となってはわからないことだ。

 魔王軍はこのころから爆発的に兵力を増し始めていた。連合軍の中心であるサンクリーク、フェネリカでは一進一退の攻防を続ける一方、別動隊が動きの鈍い周辺諸国を攻略し、外堀を埋めていった。

 リナス三世はこの動きに対応することができなかった。はるか先にあったはずの前線が気がつけば目と鼻の先に迫り、あわてて臨時徴兵を発令したが、これは泥縄もいいところだった。

 隣国の友好都市国家、エルネリア市国からの援軍要請を受けて軍を出動させたが、実際にはこのときすでにエルネリアは陥落しており、魔王軍はカルバレイク領に進入していた。

 これまでの動きの鈍さを取り戻そうとでも思ったのか、強行軍でエルネリアへ向かおうとしていたカルバレイク軍は、補給線が延びきったところで魔王軍の奇襲を受けて、あっけなく壊滅した。

 主力を失ったカルバレイク王国にもはや抵抗するすべはなく、首都リンドーが陥落するのはそのわずか三日後だった。

 リナス三世は自害し、残った王族も次々と自害、あるいは捕らえられて処断された。ほかの敗戦国同様に、王族は徹底的に捜索、排除され、王位継承権をもつもので国外へ逃亡できたものは一人もなかった。


 ヨウネ・アン・ファウは、王族としては傍流もいいところで、王位継承権は三一位。自分が継承権を持っていることすら普段は忘れて暮らしていた。

 読書を好み、研究者の道を志して学問のさかんなフェネリカの国立大学へ留学するため、単身カルバレイクを旅立っていたが、フェネリカへついて幾日もしないうちにカルバレイク陥落の報を聞く。

 逃げ仰せたのは、まだフェネリカ領内が本格的な侵攻を受けていなかったことにくわえ、戦争によって留学手続きを完了する前に大学が閉鎖されてしまったため、すでにフェネリカに滞在していながら公式にはまだカルバレイクにいることになっているという、曖昧な立場だったからだ。

 敗戦国の王族が皆殺しにされていると知った彼はすぐに姿を消した。各地を転々としながら、戦争が終わるまで、魔王軍の追跡を逃れ続けたのである。


 それが、今のヤムスト七世だった。

 やがて最後まで抵抗を続けたサンクリーク王国が敗れ、その王族の首が城下にさらされるころ、ひそかにヨウネに接触を図ったものがいた。カルバレイク出身の若者で、留学前に通っていた私塾でともに学んだテスという男だった。

「もはやヨウネ様を除き、正統な王族であることを証明できるものは、カルバレイクのみならず、誰一人この世におりません」

 テスの目的は、各国の敗残兵を集めてレジスタンスを組織し、魔王軍へ抵抗することだった。「今こそ、カルバレイク王として御起ちになり、我らを導いてくださいませ」

「わたしは、戦に興味などない」ヨウネははじめ、この申し出を固辞した。「レジスタンス活動がしたければ、勝手にすればいいではないか」

「扇には要が必要です」テスは一歩も引かなかった。「各国の兵力をまとめれば、まだまだ魔王軍に対抗できる戦力になりえます。しかし、各地に散らばっている兵力をまとめ上げるための旗頭がなければいけません。この世に残された最後の王族であるあなた様こそ適任、いえ、あなた様にしかなせないことなのです」

 結局ヨウネは押し切られる形で要求を呑み、カルバレイク王ヤムスト七世として即位した。もちろん、魔王軍の監視をかわしながらである。

「いつかかならず、あなたさまをカルバレイクへお連れして、正式に、盛大な即位式を執り行いましょう」テスは、涙ながらにそういったものだった。

 そうして組織されたレジスタンス軍は、二年たった今でも抵抗を続けている。とはいえ、魔王軍を揺るがすほどの大きな動きとなるはずもなく、少しずつ規模を小さくしていた。今では散発的に市街を攻める程度で、レジスタンスというよりはテロリストに近くなってしまった。


 今拠点としているスベリウムは、大陸北部につらなるハルパー連峰の山間部に位置する小国だった。もちろん今は魔族に攻め滅ぼされ、国は残っていない。

 ヤムスト七世たちは、かつて首都オーケンがあった場所からさほど離れていない、ティアネという小さな山村を接収し、そこを拠点としていた。

(抵抗を続けながらも、気がつけばこんな辺境までやってきてしまった)

 窓の外を見ながら、ヤムスト七世は顔を曇らせた。

 かつて、自分を説得したときにテスが語っていたこと──敗残兵をまとめ魔王軍に対抗する、という言葉や、いつか必ずカルバレイクへ帰り、正式な即位式を執り行う、という言葉。いろんな言葉があったが、それらのほとんどは、いまやまるで実現性のないものとなってしまった。

 もっとも、彼はテスの言葉を本当に信じていたわけでもなかった。テスの語る展望は、あまりにも希望的観測に満ちていたし、実際集められた兵たちの士気も、そこまで高いものでもなかった。

 それでもテスの言うことを最後は呑んで、形ばかりとはいえ王座についたのは、結局のところ、自分に付き従うものを見捨てることができないという自分の性分、おそらくはそれが王族の血筋というものなのだろうと思っていた。

 降り続く雪を窓越しに眺めながら、そんなことを夢想していると、控えめにドアがノックされた。

「お夕食の準備が整いましてございます」

「・・・すぐ行く」

 年若い小姓の声に返事をすると、開きっ放しだった本を閉じ、棚に戻してから広間へと向かった。


 今レジスタンスが拠点にしているのは木造二階建ての屋敷で、王侯貴族が常時滞在するものとしては少々手狭と言えた。

 とはいえメインの大広間は十人ほどなら一度に食事ができるスペースが確保されている。今この拠点で生活しているのは王とその護衛、小姓や料理人といった世話係を含めても二十人もいないから、少々無理をすれば全員一度に食事をするのもできないことではない。

 しかし、やはり十人ほどが座れる大きな長方形のテーブルに用意されている食事は、王が食する一人分のみだった。

 これはカルバレイク流のしきたりで、身分の異なるものが食卓をともにすることは不躾(ぶしつけ)であるとされているからである。

 ヤムスト七世は即位する直前までそんなことを気にしたことはなく、三日とあけずに下町の飲み屋にくり出しては、生まれも育ちもバラバラな仲間と酒を酌み交わしていたから、このしきたりにはいまだに慣れなかった。

 そうした仲間の一人であったテスも、今では近衛隊長として常に王のそばにたちながら、けっしてともに食卓につこうとはしなかった。

 今も彼は王の左斜め後ろにたち、無言で周囲に気を配っている。

 食卓には焼きたてのパンのほか、大きめにカットした肉や野菜のシチューに、冬野菜のサラダが並べられている。品数は少なかったが、ヤムスト七世からすれば十分な内容だった。

 シチューはこっくりとしたコクがあって、寒い冬に冷えた体を内側から暖めてくれたし、サラダは新鮮でみずみずしく、パンもふんわりと柔らかい。

 生まれたときから宮殿で暮らしているようなものなら、何の感慨も抱かなかっただろうが、庶民同然の暮らしを送っていたヤムスト七世には、こうした食事の裏にある苦労や工夫がよくわかった。

 レジスタンス組織はすでに末期状態で、組織的な活動能力はほとんど残されていない。本拠地は魔族の軍勢に見つからないように、定期的にそのありかを変えるのだ。そんな中にあっては、新鮮な食材を手に入れてくるだけでも一苦労のはずだった。

 そうして寂しくも暖かい食事を半ばほど終えたところで、ヤムスト七世は背後で動く気配を感じた。すこしだけ首を動かしてテスの方を見やると、近衛兵の一人がテスになにやら耳打ちをしていた。

 報告を聞いているテスの表情が険しくなる。ただごとではなさそうだ。

「どうした」

 はっきりとテスを見据えてそう問うと、テスは神妙な面もちのまま答えた。

「この場所が知られたようです」


 それから二クラム(約一時間。一クラムは約三〇分)もたたないうちに、ヤムスト七世は屋敷を後にした。付き従うのは近衛隊長のテスを始め護衛が八人、さらには小姓が一人のみで、残りは屋敷にとどまった。

 屋敷にとどまったのはほとんどが非戦闘員で、うちヤムスト七世と背格好がにているものに王の衣装を着せ、急ごしらえの影武者とした。偽装としてはなんとも心許ないが、しないよりはましというものだった。

 そもそも大局に影響を及ぼす力を持たないレジスタンスは、魔族からすればわざわざ殲滅(せんめつ)する価値もないはずだったが、どういうわけか彼らは執拗に拠点を探し出し、どこまでも追いかけてくる。

 どうやらそれはヤムスト七世の存在が大きいようで、魔族は人間の王族の存在を全く許さなかった。戦前に各国の王位継承権を持っていたものは、たとえ戦争を逃げ延びたとしても残さず見つけだされて処刑され、ヤムスト七世が最後の王族である、というテスの言葉はまったく掛け値のない真実だった。

 テスがそう言ったように、正統な王族が魔族への反抗勢力をまとめる存在になりうるというのも要因であろうが、この執拗さはそればかりとは思えない。ヤムスト七世はそう考えていた。だが、ほかの要因というのが何であるのかは想像のしようもなかった。

 雪は降り続いていた。しかしまだ本格的な降雪期ではなく、積雪もそれほどではない。木々も白く染まってはいたが、よく見ればその下には針葉樹の緑の葉を確認できた。

 なんにしても、馬を使うことができるのはヤムスト七世にとってはありがたかった。より冬が深まれば、馬が通行できないようなところもあると聞いている。寒敷(かんじ)きをはいて徒歩で逃げるような事態は想像したくもなかった。

 一方近衛隊長のテスからすれば、せめてもう一月、拠点の発覚が遅れていればという思いがあった。この地方は十一月から二月頃までは天候が崩れやすく、数ログ単位での積雪があり、吹雪も多い。そうなれば、襲撃は春まで遅れていただろう。隙をついて逃亡することもずっとたやすかったに違いなかった。

 この時期の発覚は最悪だ。すでに積雪がはじまり、タイムリミットが近づいている。仮にテスが襲撃側の立場だったとしても、一刻も早く拠点を確保しようと動くだろう。

 拠点の場所が知られた、という報だけで、王の食事を中断してまで屋敷を放棄したのはそのためだった。屋敷に詰めている戦力だけでは防衛のしようがないのだ。

 今、一行は王の馬を中心として、四方をそれぞれ騎乗した兵が護るようにして進んでいる。護衛の残る四人は二組に分かれ、一五〇ログ(約一〇五メートル)ずつ徒歩で先行させていた。二組のうちひとりずつはこの山に詳しい現地徴用員で、それに山岳訓練の経験がある近衛兵をひとりずつ付けていた。

 王の世話のためにひとりだけ連れてきた小姓は、王と一緒の馬に乗っていた。まだ一一歳(じゅういっさい)の小姓は乗馬の経験がなく、手綱は王が握っている。

 当初、小姓はあまりのおそれ多さに騎乗を拒み、徒歩でついてくると言って聞かなかった。しかしそれでは逆に足手まといになると、最後は王が半ば強引に抱えあげるようにして馬に乗せたのだった。

 王の前に座らされた小姓は、今も王からできるだけ離れて、馬の首にしがみつくようにしていた。緊張か寒さか、身体がふるえているのが見て取れた。

「もそっと近くによれ。寒いであろう」

 王がそう声をかけても、小姓は動こうとしなかった。王はやはり強引に、小姓の腰のあたりをつかんで自分の方に引き寄せた。小姓の身体を引き起こして抱きすくめるようにすると、身につけている外套で包み込むようにする。

「わたしが寒いのだ。だからこうしていろ」

 そう言ってやると、小姓はかすれた声で「はい」とうなずき、その姿勢で固まった。やがてふるえは治まり、固い身体も少しは弛緩(しかん)したように感じられた。

 しかしそれも束の間、馬が自然と歩みを止めた。王が見やると、先行していた近衛兵のひとりが戻ってきてテスに何事か告げていた。

 報告が終わると、テスは厳しい表情で逡巡した後、近衛兵に二、三指示を出した。兵はうなずいて、また先行する。

「先に行かせた方のしるしが途切れているそうです」

 テスは振り向き、全員に聞こえるようにそう言った。

 先行させた二組には、一定距離ごとに安全確認のしるしとして、木の幹に決まった傷を付けておくように指示していた。まず先を行く組がしるしを付け、後を行く組がそこにしるしを重ね、最後にテスがそのしるしを確認しながら進む手はずであった。

「ルートを変えます」

 それが途切れているということは、何らかのトラブルがあったということである。敵が待ち伏せているという最悪の事態から先行者が王を見捨てて逃亡した事態まで、原因は様々考えられるが、それを確認する余裕はない。とにかく少しでも危険のあるルートは避けていくほかなかった。


 それからさらに二クラム(約一時間)ほどの間、しんしんとした静寂に包まれた雪山の中を、一行は進んでいった。誰ひとり口を開かない。雪は少しずつ強くなり、風も出始めている。吹雪になるかもしれなかった。拠点としていた屋敷を襲撃され、そこから追いかけられる可能性を考えれば、足跡が消えることはありがたかったが、寒さは耐えがたいものになってきていた。

 出立の前のテスの話では、一アルン(約二時間)ほど行けば山を抜けられるとの話だったが、途中でルートを変えているからこの数字はもう当てにならない。どんどん山奥へ入っていくように感じられて、ヤムスト七世はすっかり辟易していた。

 前に座っている幼い小姓も疲労が顕著だ。身体をつけるようにしてからもしばらくはできるだけ王に体重を預けないように努力をしていたようだったが、今はもうそんな余力はなく、小さな背中を王に押しつけるようにして身体を預けていた。もっともヤムスト七世からすれば、その方が腹周りが暖かいので助かっていた。

 屋敷を出てからどれほど経ったか、時を告げるものがないので正確にはわからなかったが、ずっと休憩なしで進んでいる。できるだけ迅速に距離を稼がなければいけないことも理解していたが、身体は悲鳴を上げていた。

 少し止まるように言うべきだろうか、とヤムスト七世が口を開きかけた時、先頭を進むテスの馬が停止した。

 こちらの状態を汲んでくれていたのかと安堵したのは一瞬のことで、テスの表情を見たとたん、またしても非常事態であることがわかった。

「・・・しるしが途絶えました」

 テスの言葉はつまるところ、先行していたもう一組の消息も途絶えたということだった。

 状況は刻一刻と悪くなっていた。敵が屋敷を襲撃してくれれば、その間に山を下りることができる。そう踏んでいたのだが、敵は屋敷ではなく、拠点の山村へと通じる山道を包囲している可能性が高くなっていた。こちらの計画は読まれていたのだ。

 だが、やり直しはきかない。事態を打開する手段を見つけなければ、魔族に捕らえられて首を切られるか、山中で凍え死ぬだけだ。

 テスは、近衛兵のひとりを呼ぶと指示を与えた。

「付近を偵察してこい。ただし、二〇〇ログ(約一四〇メートル)より先へは行くな。異変を見つけたらすぐ戻れ。なにもなくとも、半クラム(約一五分)経ったら戻れ」

 近衛兵は了解の仕草をすると馬を下り、徒歩で先へと進んでいった。

 近衛兵の姿が見えなくなると、テスは王へと視線を移し、ほんの少しだけ表情を柔らかくした。

「少しとどまります。馬から下りて、身体を伸ばしてください」

 偵察が戻るまでの小休止だが、寒さと疲労を少しでも和らげることができるだろう。ヤムスト七世は安堵した。事態の悪化は深刻だが、休むと決めたら少しでも休まなければならない。

「下りるぞ」小姓に一声かけて、先に自分で馬を下りた。それから小姓のわきのしたに手をやって、引っ張りあげて下ろしてやった。

 小姓は本来なら自分が世話をしなければならない王に、またしても手間をかけさせてしまったと気づいて青ざめたが、ヤムスト七世は気にしなかった。市井(しせい)での生活が長い彼にとっては、王らしく振る舞う方が疲れるのだ。跡取り息子でさえなかったから、屋敷でもたいして良い扱いではなかったし、町で集まる仲間は立場も年齢もてんでばらばらで、足りないものは足りるものがフォローするのが当たり前であった。

 テスもかつてはそうした仲間同士であったが、王になってからは王らしく泰然と立っていろ、大局をみるのが仕事だから目の前の他人などほっておけ、と小言ばかり言うようになった。今も何か言われるかと思ったが、あたりの様子を探るのに必死で、それどころではないようだった。

 近衛兵のひとりが、酒の入った飲み口付きの皮袋と木の実をたっぷり練り込んだ焼き菓子を持ってきた。酒は葡萄酒かと思ったが、口を付けてみるとこの地方特産の、アルコール度数の高いスピリッツだった。ヤムスト七世はあまりこの酒が好きではなかったが、火を使えないなかで体を温める手段はこれしかない。文句を言うわけにもいかなかった。

 焼き菓子の方は保存食の一種で、日持ちするように砂糖を多く使っているからかなり甘いはずだが、食べてもあまり味を感じなかった。

 焼き菓子を食べ終えると、あとは偵察にでた兵士が戻ってくるまでは待つばかりになった。酒はまだだいぶ残っているが、寒さはだいぶやわらいだし、あまり飲み過ぎない方がいいだろう。

 ヤムスト七世はちょうど背後にそびえ立っていた大木に寄りかかり、偵察が戻ってくるのを待つことにした。

 偵察の兵士が消えていった先は、これから進む予定だった方向だ。緩やかに下っているように見え、雪のせいもあってあまり遠くの方まではわからないが、道幅は少しずつ狭くなっているようにも見える。これまでずっと、王の馬を中心に前後左右に兵を配して進んできたが、この先は前後はともかく、左右に馬を並べるのは難しいかもしれない。

 ほかのものたちも皆食事を終えており、あたりは静けさに包まれていた。木の枝につながれた馬たちが、時折ぶるると鼻を鳴らす以外には、何の音も聞こえない。

 こうした静けさは、故郷の南国では感じたことがなかった。雪が音を吸うのだ、と教えられたことがある。そのときはよくわからなかったが、こうして実際に雪のなかに包まれていると、その意味がよくわかった。

 この静けさは嫌いではない。ヤムスト七世はそう思った。故郷の、あのなにもかもが明るくにぎやかな景色も忘れがたいが、この静けさと、ただひたすらに、実直さまで感じるほどひたすらに白い景色も悪くない。ただ、寒さだけは如何ともしがたかったが。

 目を閉じて、そんな物思いに(ふけ)っていたからだろうか。小さな音に最初に気づいたのは、ヤムスト七世だった。

 がさがさと、何かを掻き分けるような音。いや違う、足音だ。偵察の兵が戻ってきたのだ。

 しかし、ふつうの足音とはどこか違う。積もった雪をかき乱し、蹴りとばしている。走っている。それも必死に。

 そもそも、半クラムというにはまだ早い。これは、なにか異変があったと見るべきだ。

「テス!」

 近衛隊長に注意をうながしたが、そのころには彼も足音に気づいていた。

 雪の向こうに、うっすらと人影が見え始めた。まだ表情は伺えないが、もがくように走るその影は尋常ではなかった。

「馬を──」

 テスの命令をかき消すように、影が叫んだ。

「お逃げください!待ち伏せがっ──」

 叫び声が唐突に途絶え、影が──偵察の近衛兵が──一瞬ふるえ、それから前のめりに倒れた。

 王たちのところから四〇ログ(約二八メートル)ほどのところで倒れた近衛兵は、それきり動かない。首のあたりから一筋、黒い線が延びている。

 矢が付き立っているのだ。

「木陰に!早く!」

 テスが号令し、めいめいに木の陰に隠れる。小姓だけが先にテスが言った言葉を実行しようとしたのか、馬のつなぎをほどこうとして悪戦苦闘していたが、ヤムスト七世がひったくるようにして小姓を抱えると、彼も木の陰に飛び込んだ。


 しばらくの間、全員がその場を動かなかった。

 相手側も動きがない。森はふたたびしんとした静けさに包まれていた。ただしそれは、困難が去ったわけではない。

 テスは背中に装備していた弓に矢をつがえながら、この場を切り抜ける手段を探して頭脳を働かせていた。

 近衛兵が叫んだことで、王一行がその場にいることは知られてしまっただろう。その近衛兵の首を一射で正確に射抜いたことから、自分たちも射程に入ってしまっている可能性は高い。

 うかつに動けば、狙い撃ちにされかねないのだ。

 とはいえ、このままじっとしているわけにはいかない。こちらは追われる立場なのだから。

 相手が大人数で包囲しているとしたらはっきり言って絶望的だが、拠点の発覚からそこまで時間は経っていない。追っ手が少人数なら、山中で姿をくらます方法はいくらでもある。

 そのためにも、まずは自分たちを捕捉しているであろう狙撃手を何とかしなければならない。だが、雪のなかで身を隠す狙撃手を見つけだすのは至難の業だ。

 時間はない。しかし有効な手段もない。焦りばかりがつのるなか、テスはふいに、駆け出す足音を間近に聞いた。

 見れば近衛兵がひとり、木陰を飛び出して進んでいくではないか。少し先で事切れている兵の元へ向かっていくように見え、テスは思わず呼び止めようとした。

 しかし、その直前、ほんの一時目があって、テスはすべてを理解した。おとりになるつもりなのだ。

 盾すら持たない近衛兵は、剣を抜くと眼前に構えた。そうして顔と首を護りながら、できうる限りでたらめに、ジグザグに軌道をとりながら進んでいった。一本でも多く矢を打たせて、狙撃手の位置を知らせる腹づもりである。

 テスの隠れているところから一〇ログ(約七メートル)ほど進んだところで、最初の矢が飛んできた。近衛兵はタイミング良く右に飛び、矢は雪の上に残った足跡を穿った。

 間髪を容れずにもう一射。今度は前に転がって避けた。タイミングは近かったものの二射ともほぼ同じところから飛来しており、テスは狙撃手はひとりだけだと結論づけた。それならば、何とかなるかもしれない。

 だが、まだこちらから狙えるほど位置を特定できたわけではない。せめて後一射、そうすればおおよその目安は付けられる。

 そして三射目、ついに躱しきることができず、矢は近衛兵の右肩を貫いた。声を上げる間もなく第四射が左のふとももに突き立ち、近衛兵は剣を取り落とし、ひざをついてしまった。

 もはやこれまで。そう言わんばかりに近衛兵は胸を張り、木々の隙間から漏れる空を見上げて喉をさらした。かくして最期の一射は狙いあやまたずに無防備なその喉笛を喰い破り、うなじから突きいでて赤い花を散らした。

 命を失った近衛兵が仰向けに倒れていく様を、しかしゆっくり眺めている余裕はない。今こそ最大の好機だ。テスは弓に矢をつがえて木陰から半身乗り出すと、貴重な五射の間にあたりをつけたポイントに向かって矢を放った。もう一人別の木陰にいた兵も同じように身を乗り出し、こちらは立て続けに二発の矢を放つ。

 しかし木陰に身を戻したテスは、やがて顔をゆがめた。

 手応えはなかった。

 貴重な命を代償にして手に入れたチャンスを、活かすことができなかったのだ。

 そればかりではない。さらに風を切る音と矢の突き立つ音を聞いたテスがそちらをみやると、反対側にいた近衛兵が力なくその場に倒れ込むところだった。

 テスは矢を放った後すぐに木陰に身を戻したが、その兵は続けて第二射を放った上、すぐに隠れずに矢の行方を見届けてしまった。そこを狙い撃たれたのだった。

 矢は額の中央を正確に射抜いていた。おそろしい腕前だ。先ほどおとりになった近衛兵に五射も使ったのは、ひょっとしてこちらの隙を引き出すための罠だったのかもしれない。

 テスは青ざめた。あまりにも能力が違う。これは完全に自分のミスだ。相手の力量を計り間違い、ただでさえ少ない人員を小分けにしてしまった。その結果各個撃破され、戦闘要員はもはや自分一人。王を逃がすタイミングさえ失ってしまった。

 王の命だけでも何とかできないか。荒い息をつきながら必死で考える。しかしどれだけ考えを巡らせたところで、頭の中は深まる雪のごとく白いままだった。


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