竜の試練(四)
六
巨人の死体を処分したあと、自警団の一行は村へと戻ってきた。無論、セトも一緒に。
村を脅かす魔物を無事退治できたというのに、一行を取り巻く空気は硬かった。時折、思い出したように口を開く村人もいるものの、会話が続くことはほとんどなかった。まだしも行きの道の方が、軽口をたたくものもいて砕けた雰囲気があったものだ。
原因は、もちろん巨人を斃したあとのフェイ・トスカとセトのやりとりである。
セトは犯罪を犯したわけではないから、つながれるようなこともされずにおとなしく一行について歩いている。だが、行きの時には道すがらいろいろと話を聞かせてくれた村人たちは、今ではセトを遠巻きに見るばかりで、目を合わせることもしてくれなかった。
やがて一行が村の集会所に戻ってくると、数人の女たちが出迎えた。自警団に参加している男の妻のうち、この集会所の近くに家があるものたちだ。
出発の時には村のはずれに住むシフォニアをはじめ、多くの女性たちがこの集会所に集まっていたが、今は夜が更けたこともあって、家が遠いものたちは一足先に帰宅している。とはいえ夫や家族の無事が知れるまでは、家で灯りをともして待っていることだろう。
出迎えた女たちは、一行がことを為したにしては暗いので、目標を逃がしてしまったか、あるいは誰か怪我人が、と案じたが、フェイ・トスカから報告を聞くと、心配するようなことはなかったと知って一様に安堵の表情を浮かべた。
だが、セトを監禁房に入れるので準備をお願いします、というフェイ・トスカの言葉にまた戸惑うことになった。
集会所の一角に設置されている村唯一の監禁房は、万が一村で犯罪が起こったときなどに使われる。だが、基本的に平和で人口も少ないこの村では犯罪など滅多に起こらない。この中に誰かが入ることなど、数年単位でなかったことなのだ。
命令違反を犯したセトを反省させるためだ、というフェイ・トスカの説明に女たちは一応納得したものの、その場でのやりとりを見ていないからか、男たちとは違ってセトに同情するような目を向けるものもいた。
「入れ」
監禁房の扉を開いたフェイ・トスカは、厳しい口調でセトに告げた。セトは答えず、しかし逆らうことはせずにおとなしく扉をくぐった。
犯罪者を入れる為の部屋であるからといって、集会所のほかの部屋と特別な違いがあるわけではない。違うのはほかの部屋より小さく、入り口には扉──当然、外から鍵を閉めるようになっている──があり、窓に木の格子が嵌められていることくらいだ。寝台はなく、板張りの床の隅に薄く綿の入った布団が置かれている。反対側の隅には簡単なしきりの向こうに便所があるのが見えたが、普段は使われていないこともあって特に臭いもしなかった。
閉められた扉の向こうで錠前をおろす金属の音がしばらく聞こえた後、扉につけられているのぞき窓が開いて、そこからフェイ・トスカが顔をのぞかせた。セトのいる室内には灯りがないが、フェイ・トスカの持っている魔法の角灯の光がのぞき窓からかすかに差し込んで、その周辺だけ少し明るくなった。
「食事は昼に一度運んでもらうように言っておく。反省が済めばすぐだしてやるが──」
「言いつけを守らなかったから、ここに入れられることに文句はないよ、父さん」セトはフェイ・トスカの言葉を途中で遮ると、その目を見ながらはっきりと告げた。
「だけど、あの巨人を護りたいと思ったことについては、今も後悔してない。殺す必要のない生き物まで殺すなんて、間違っているよ」
フェイ・トスカは目つきを──のぞき窓はそれほど大きくは切られていないので、表情のすべては伺いしれない──変えぬまま、数拍の間無言だったが、やがて重々しく口を開いた。
「あれが一時の気の迷いでないと言うなら、おまえはこの村では生きていけない。それどころか、ほとんどの国、ほとんどの町でも村でも、その考えを口にする度に、半ば強制的に出ていくことになるだろう。おまえがこの村で母さんと一緒に暮らしていきたいと思っているなら、この監禁房にいる間にその考えを捨ててしまうことだ。魔族を生かしておきたいなどという考えをな。この世界は人間の世界なのだから」
「戦争に勝ったからって」セトは反論した。「相手を全部殺していいなんておかしい」
そうだ。現実の世界で魔族は人類に勝利したが、人類を皆殺しにしてしまうことはなかった。
だが、この世界で魔族に勝利した人類は、魔族を皆殺しにしようとしている。
ふたつの世界を知るセトにとって、この違いはとても大きなものであるように感じられた。だが、フェイ・トスカにそのように言うことはできない。相手はこの世界のことしかわからないのだ。
「魔族はもともとこの世界にはいなかった生き物だ。それを排除するのは自然なことだ」フェイ・トスカの声は頑なだった。「その考えを口にしなくて済むようになったら、ここから出してやる」
その言葉を残して、のぞき窓は閉められた。足音が遠ざかっていくのがかすかに聞こえる。
セトはその音を聞きながらため息をひとつ吐くと、布団の上に寝転がった。
フェイ・トスカが灯りごと立ち去ったため、今では窓の格子の隙間からわずかに漏れいる月明かりが室内を申し訳程度に照らしているばかりだ。
普段ならもう眠っている時間だろう。静けさの中で目を閉じると、すぐに眠気がおそってきた。
だがその一方で、空腹も感じている。ここのところ毎日のようにお腹いっぱい食べていたので、出掛けにシフォニアから渡された米粥一杯では満足できなかったのだ。シュテンにいた頃は、腹一杯食べられることの方がよほど珍しかったのだが。
寝床にしても、床の上で眠るのは久しぶりだ。こちらはマーチの隠れ里で暮らしたとき以来、ずっと寝台で眠ることが続いていた。
暖かくて柔らかい寝床と、おいしい母の手料理を脳裏に思い浮かべながら、セトは眠りについた。
翌日、セトはほとんどいつも通りの時間に目覚めたが、狭い室内に閉じこめられている状態ではする事もない。そのまま布団の上で限界まで惰眠をむさぼった後、こわばった身体を柔軟体操などでほぐしたが、その後は壁に寄りかかって考えごとをするほかなかった。
閉ざされている扉の向こうには見張りが立っている気配もない。ただ、定期的に誰かが見回りにやってきてはいるようである。聞こえてくる教会の鐘の音と照らしあわせると、だいたい一アルン(約二時間)に一回の間隔だった。
昼には食事も出されたが、フェイ・トスカから言いつけでもあったのか、薄い米粥と何種類かの漬け物だけの質素な内容で、セトは午後からも久しく忘れていた空腹感と戦わなければいけなかった。
手持ちぶさたのセトは、腰帯に差していた短剣を取り出して眺めてみる。魔物討伐に向かう前、弓矢とともにフェイ・トスカから渡された短剣だ。ここに入れられるときに取り上げられるかと思ったが、フェイ・トスカは忘れていたのかそれとも気にしなかったのか、なにも言わなかった。
短剣は質素な革製の鞘に収められており、柄などにも特別な意匠はない。刃渡りは二〇オーログ(約一四センチメートル)ほどで、かつての勇者が所持していたにしてはなんの変哲もない品物だった。
短剣を眺めながら、昨夜のフェイ・トスカとのやりとりを思い出してみる。
この世界に、魔物が生きていていい場所などない──。
その言葉とともに思い出されるのは、フェイ・トスカの凍り付いた視線だ。
そして、あまりの言葉に困惑したセトが辺りを見回したとき、周囲に集まってきていた村人たちも、フェイ・トスカと同じ目をしていたのだった。
普段、あんなにも朗らかで心優しい村人たちが、こと魔物や魔族の扱いに対しては、皆一様に冷たい反応を示す。しかも、だれもそのことを疑問に思っていないのだ。
セトにはそのことが一番ショックだった。
あの巨人は確かにその気になれば人間を殺す力を持っていただろう。だが、その力を行使するかどうかは別の問題だ。あのとき暴れていたのは、ワナにかかって興奮していたのと、フェイ・トスカから向けられた敵意に反応していたにすぎない。
巨人が本当に村人たちに害を与える存在であったかは、あの段階では誰にもわからなかった。そして、それを知る手段は、確かにあったはずなのだ。
だが、フェイ・トスカを含め、村人たちは誰ひとりとして、その手段を探そうとはしなかった。それどころか、あえて遠ざけているようにすら、セトには感じられた。
そのものが善きか悪しきかは関係なく、ただ「魔」という言葉にくくられる存在であるというだけで、排除すべき存在になってしまう。
それが正しいことだとは、セトにはどうしても思えなかった。
ふと、ガンファの顔が浮かんだ。あの優しい一つ目の巨人は、この世界ではどうしているのだろうか。彼でさえも、もしこの村に現れたとしたらフェイ・トスカによって殺されてしまうのか。
そのシーンを想像してしまいそうになって、セトは大慌てで頭を振り、不吉な考えを追い出した。ガンファは優しい上に思慮深いから、迫害を受けるとわかっていて人里に出てくるようなまねはしないだろう。ひょっとしたら、彼が生まれたという異世界に帰っているのかもしれない。
ガンファをはじめ、ほとんどの魔物や魔族はこの世界とは異なる軸を持つ世界から来たのだ、という話を、セトはかなり昔に彼から聞かされていた。もっとも、幼かったセトには異世界という概念は理解できず、「簡単にはいけないくらい遠くにある場所」くらいに思っていた。
それを聞いてセトは、ガンファの生まれたところに行ってみたい、としばらくは彼の顔を見る度にそうせがんだのだが、その都度ガンファは困ったような顔をするのだった。
あそこは、とても暗くて、とても寒いから、僕はもう、行きたくないな。
そう言って笑ったガンファの顔がとても悲しそうだったのを覚えている。
セトはまた頭を振った。この世界で人間からの迫害におびえながら生きているにしても、もう行きたくないと言っていた異世界にいるとしても、ガンファが幸福な暮らしをおくれていないであろうことは想像に難くなかった。
一方で、フェイ・トスカが敗れた現実世界では、人間と魔族の立場は逆になっている。世界を支配しているのは魔王グローングを筆頭とした魔族たちであり、人間は奴隷として生きていくことを余儀なくされている。
しかしそのことは、人間が魔族に問答無用で虐げられ、迫害されているということをそのまま意味していない。確かに戦争終結直後は、王族や高位貴族、さらには聖職者が多数捕らえられて処刑されるといったことがあった。今でも一部の領地ではむごい扱いを受けている奴隷も少なくない。
だが別の側面として、それこそセトの暮らしたグレンデル領のように、奴隷であるからといってもそこそこに豊かな──経済的にではなく心理的な面で──生活ができる地域はあるし、そうした場所は年々増えている。また、グローングがここ数年の間に施行した法律の中には、理由なく奴隷を虐待したり殺したりすることを戒めるなど、奴隷の保護を目的としたものも存在する。
なぜこのような違いがあるのか。その理由を詳しく検証できるほどには、セトの知識は深くはなかった。
だがわかったことがある。数ヶ月の間暮らしたこの世界は、セトにとってあたかも理想のように見えていた。しかしそれはある一面──人間の立場からみた側面でしかない、ということだった。
魔族の存在をすべて消し去ろうとするこの世界は、魔族にも失い難い友人のいるセトにとっては、ひどく歪んで見えるのだ。
現実の世界でも、セトはずっと貧しい暮らしをしてきたし、今は人間にとって住みよい世界とはいえない。だからこそ、この世界が魅力的に見えた。
現実も、フェイ・トスカが創り直そうとしているこの世界も、どちらも歪みがある。だが、歪みの幅が小さいのはどちらだろうか。そして、歪みを取り去ることのできる可能性があるのは──?
もっと簡単な考え方もできる。この世界では、ガンファやユーフーリン、それにシュテンの町でセトによくしてくれた多くの善良な魔族たちは、いずれも謂われのない迫害を受けるか、彼らの生まれたという異世界へ──帰る手段があるのだとすれば──帰ってしまっているのだろう。もう生命がないものがいてもおかしくはない。
セトにとって、その想像は耐え難いものだった。この世界を受け入れてしまったら、多くの友人を失うことになるのだと、セトは気づいた。
試練の答えは決まった。
だが、セトはすぐに答えを口にすることはできなかった。扉の脇の壁に寄りかかり、窓に嵌められた格子の隙間からのぞく空を見て、ため息を吐いた。
現実の世界には、ガンファやマーチ、シイカなど、セトを待ってくれているものがいる。だが、欠けているものもある。
この試練を受けるまで、セトは思いもしなかったことだ。それはもともとセトにはないもので、欠けているなんて考えたことはなかった。
あの世界には、母がいない。
セトの母シフォニアは、現実には死んでしまっているのだ。