竜の試練(三)
五
それから数日は、セトはこれまでとほとんど変わらない日々を過ごしていた。森に入ったり、薪を割ったり、シフォニアを手伝ったり、フェイ・トスカに稽古で痛めつけられたり。
だが、表面上はその暮らしぶりが変わらなくとも、セトは内心悩み続けていた。試練の答えをどうするかについてだ。
もちろん、まぼろしを打ち破り、現実の世界へと目覚めるべきだ。セトは最初にそう考えた。だが、思考を深めていくうちに、だんだん自分がどうすべきか分からなくなってしまっていたのである。
シイカの声が言うには、セトは仮に目覚めたとしたら、、現実の世界を「リセット」して創り直そうとしているフェイ・トスカのたくらみを止めるため、戦わなければいけないのだという。そして、今セトが暮らしているこの世界こそ、フェイ・トスカの宿願がかない、魔王グローングを退治した世界なのだ。
セトはこの世界で暮らせば暮らすほど、フェイ・トスカのやろうとしていることは間違いではないのではないか、という思いにとらわれ始めていた。
現実の世界では、魔王の政策によって人間は奴隷としての生活を余儀なくされ、その結果、ほとんどの人間たちはまともに自分の感情を表すことさえできなくなっている。
一方で、この世界ではそんなことはないのだ。人々は皆生き生きと人生を謳歌している。セトが直接知っているのはファーリの村の中だけではあるが、両親や村人に聞いた話ではどこかで大きな戦争が起こっているという話もなく、今世界は平和そのものなのだ。
現実の世界もこうなるのなら、それはいいことなのではないか?セトは、その考えを否定することができないでいた。
「今日、水田近くの魔物用のワナを見回ったら、いくつかエサをとられているところがあった。近々、自警団の招集がかかるかもな」
そんなある日の夕食の席で、フェイ・トスカがそう口にしたのを聞いて、彼の向かいに座っているシフォニアがまた顔をしかめた。
「そうなったら、本当にセトを連れていくの?」
「ああ。もう自警団の主だった面々には話を通してある」
フェイ・トスカの回答に、シフォニアはため息をついた。
「前にも言ったろ。危険なことはさせないって」
「でも・・・」
ここのところ、この話題が出る度にこんなやりとりが交わされている。険悪というほどの空気ではないが、普段はけんからしいけんかをほとんどしないふたりである。この程度でも言い争いをするのは珍しいことだったし、またその原因が自分にあると感じて、傍らで聞いているセトは居心地が悪かった。
「危険なんて、どこにひそんでいるか分からないものでしょう?」
「そんなことを言い出したらきりがないだろう。こいつを一日中、おまえの目の届く家の中に閉じこめておけっていうのか?」
連日同じことをやり合っているせいか、やりとりがだんだん相手の揚げ足を取るような内容になってきている。このままでは本当にけんかになりそうだった。
このふたりが感情をむき出しにして怒鳴り合う姿は見たくない。そう思ったセトは、会話に割り込むことにした。
「大丈夫だよ、母さん」
「セト・・・」
「自警団についていくことになっても、危険なことはしないし、ちゃんと父さんのいうことを聞いておとなしくしてるさ。心配しないで」
セトができるだけ落ち着いた口調でそう告げたが、シフォニアはまるでしかられた子供みたいに目を伏せてしまった。
「でも・・・わたしは──」
セトが言っても、シフォニアは安心できないようだ。むしろ、彼女は自警団が危険だからセトを参加させたくないわけではないのかもしれない。。そう考えたら、彼女が渋っている本当の理由はすぐに想像がついた。
シフォニアは、セトが村を出ていってしまうことが怖いのだ。
フェイ・トスカは、セトが将来剣を生業にしたいなら、自警団についていって現場の空気を知ることは有意義だと言った。おそらくシフォニアは、今度のことを許してしまったら、セトが成人とともに(やはりフェイ・トスカがそう言っていたように)村を出て傭兵になってしまうと思っているのだろう。
となれば、シフォニアを安心させてやれる言葉はひとつしかない。
セトは迷った挙句、その言葉を口にした。
「母さん、僕は村を出ていったりしないよ。成人しても」
その言葉に、シフォニアだけでなくフェイ・トスカも、食事の手を止めてセトを見た。ふたりからすればその発言は、セトの将来をある程度固めてしまうものだ。
そして、セトにとっては別の意味もある。
この村に──この世界に、この先もとどまり続ける。そう言う意味にもつながる言葉だった。
もしこのとき、シフォニアがセトが予想した通りの反応を──満面の笑顔で両手を叩いて歓迎するような──示していたなら、セトの心は完全に決まっていたかもしれない。
だが、シフォニアの反応は予想とは異なっていた。彼女は伏せた顔を上げ、セトをまっすぐに見たが、その表情に笑みはなかった。
「本当に、それでいいの──?」
歓迎どころか、聞いてはいけないことを聞いてしまったかのような、戸惑いの表情を浮かべている。セトは少々面食らったが、一度口に出した言葉を撤回するつもりはなかった。
「うん、いいんだ。母さんの言うとおり、この村にも仕事はいっぱいあるし」
そこまで聞いて、ようやくシフォニアはゆるやかに笑顔になった。
「そう──そうなの」
「でも、自警団にはついていくよ。まだ父さんから一本とってないしね」
「なんだ、まだあきらめてなかったのか」
セトが付け加えると、フェイ・トスカが豪快に笑いながらそう言った。それが呼び水になって、食卓に明るい空気が戻ってきた。
「もちろん。破邪の剣のこと、忘れないでね」
「忘れちゃいないが、今の調子じゃ来年どころかあと五年はかかりそうだからなあ」
「僕はまだ成長期なんだから。油断してると痛い目に遭うよ。とりあえず、背丈は父さんよりも高くなりそうだよね」
「おまえ、それを言うか!」
笑顔で言い合いながらシフォニアを見ると、ふたりのやりとりを優しい笑顔で見守っている。
きっとこれでいいんだ。この世界は悪くないし、なによりこのお母さんを悲しませることはしたくない──セトは半ば無理矢理に、そう自分を納得させようとしていた。
翌日以降もワナが荒らされることが続き、村の自警団が招集されることが正式に決まった。
ワナが荒らされたのはどうやら夜中であるらしく、警らは夜に行われることになった。
フェイ・トスカはそれに備えて魔法の灯りを複数作るため、日中から村の集会所で作業をしている。また、シフォニアもこの日は炊き出しの手伝いなどですでに家にはいなかった。いつも静かな村が、その日は少しばかり騒がしくなっている。
セトは日中は家に残り、夕刻になったらフェイ・トスカの自室から彼が指示したとおりの武器を持って村まで降りてくるように、と言付けされていた。
セトはこのところフェイ・トスカに代わって自分の日課にしている薪割りを終えたあと、時間までどうやって過ごそうかと考えた。普段なら森へはいるのだが、魔物と遭遇する可能性があるので今は禁止されている。
木剣を使って型の訓練でもするか、と考えたとき、ひとつひらめいた。
セトはフェイ・トスカの自室にはいると、彼に指示されていたとおりの刀剣類を部屋から運び出した。短剣が二本と、あとは黒塗りの鞘に収められた長剣が一本。
セトはそれらを抱えたまま裏庭に出ると、短剣は薪割り台の切り株の上に置いて、長剣を鞘から抜いた。
この剣は現実の世界ではセトの愛剣だった。だが、ここではフェイ・トスカの持ち物である。もともとそうだったからだ。フェイ・トスカと打ち合いをするときも剣は必ず木剣で、長らく真剣はさわることができなかった。
今ならフェイ・トスカもシフォニアもいないので、誰にも咎められずにこの剣を振るうことができる。それに、どうせ後でフェイ・トスカのもとへもっていく剣なのだから、持ち出すこと自体は何の問題もないのだ。
どうせなら破邪の剣を、という欲求もないわけではなかったが、フェイ・トスカからさわらないように言われていたこともあったし、なによりあの剣はセトがフェイ・トスカから一本をとったときの賞品でもあるのだから、今ここで手にしてしまうのは卑怯だと感じて、セトは手を出さなかった。
久しぶりに手にしたセトの愛剣は、やはりしっくりとくる重さがあった。木剣とは根本的に違う鉄の重みは、かつては扱いにくさを感じるばかりであったが、今手にすると逆にその手の中に残る重さが安心感を与えてくれるようにすら感じる。
試しに以前隠れ里でユーフォに教えてもらった剣の動きの型をひとつやってみると、自分でもはっきりと分かるほどに動きに鋭さが増している。それに、ついこの間まで自分が扱うには長すぎると感じていた剣の刀身を邪魔に感じることがなくなっていた。
この数ヶ月、フェイ・トスカを相手に厳しい稽古を続けてきた。フェイ・トスカには未だに子供扱いされることが多いが、それでもこの身体には成果が身に付き始めているのだと知って、セトはうれしくなった。
結局それから夕暮れ時まで、セトは剣を振り続けていた。我に返ったときには空の端はすでに暗くなり始めていて、もう村へ降りなければいけない頃合いだった。ここは村からは離れすぎていて、村の教会で鳴らされる鐘の音はほとんど聞こえてこないのだ。
たっぷりと汗を掻いていて、セトはできればしっかりと汗を流してしまいたかったが、もうそんな時間は残っていなかった。仕方ないので上衣を脱いで、水に漬けて絞った布で上半身を軽く拭くだけにした。
上衣を着直して腰帯を締め、そこに長剣を差した。長剣は一本しかもってくるように言われなかったので、おそらくこれはフェイ・トスカが使い、セトには使わせてくれないのだろうが、せめて集会所につくまでは自分の腰に差していたかったのだ。
さらに二本の短剣を抱えて村へ降りる頃には、空はすっかり暗くなってしまっていた。セトは灯りをもっていなかったのでいくらか歩きにくくなってしまったが、月がでていたのと目的地の集会所は灯りが集まっていて明るかったので、それを頼りに歩いた。
夕方に来いといわれていたのにすっかり夜になってしまったので、セトは怒られるかと思っていたが、集会所の中にはいると一番奥にいたフェイ・トスカに「遅いぞ」と言われただけで、ほかの村人からはなにも言われなかった。
持ってきた武器のうち、案の定長剣は取り上げられてしまった。セトにはもってきた短剣のうち一本と、集会所に備え付けてある弓矢がひとそろい渡された。
セトが弓の弦を確認していると、人影がよってきた。シフォニアだった。手に湯気の立つ椀をもっている。
「今日は夕食をとる時間はないからね。今のうちに食べてしまって」
椀の中には米粥が入っていた。塩漬けの菜を刻んだものが混ぜ込まれている。シフォニアから受け取って一口すすると、思ったよりしっかりと塩味がしておいしい。
「これからの予定を説明します。セトは食べながらでいいから聞きなさい」フェイ・トスカが室内を見渡しながらそう言うと、シフォニアは無言で奥の部屋へ下がっていった。
今この部屋に女性はおらず、フェイ・トスカとセトを含めて全部で十人の男性がいる。魔物と戦う可能性があるとはいえ、しっかりとした鎧などを着ているものは誰もおらず、せいぜいが硬くなめした毛皮のベストを着込んでいるものが何人かいるくらいだ。武器は槍を持っているものが四人。後は弓矢だけである。
「魔物の出現位置はこれまでの傾向からだいたい予測できているので、班分けはせず、全員で水田へ向かいます。魔物を発見した場合、前衛は私が。槍をもっている四名は二名ずつに分かれて左右から。これは威嚇につとめ、魔物が私から離れないようにしてくれれば結構です。残りのものは弓矢で後方援護。これも接敵中は相手を直接ねらうことはせず、鏑矢で威嚇をしてください。相手を逃がさず、確実にとどめを刺せるように」フェイ・トスカの言葉に、集まった面々は特になにも言わない。何人かは無言でうなずきを返している。おそらく、いつもこのような作戦なのだろう。
集まっている村人の中にはフェイ・トスカよりも年上のものも何人かいるが、指揮を執るのも実際に魔物と向き合って戦うのもフェイ・トスカが行うようだ。歴戦の戦士であるフェイ・トスカに対して村人はほぼ全員が農夫なのだから、それは当然といえよう。
「今回はワナの破損状況や周囲の森の荒れ具合から察するに、そこそこ大型の魔物であることが推察されます。みなさん、無理はしないように。威嚇による誘導が無理なら、逃がしてしまってもかまいません。村の中には、私が絶対に入れませんから」
大型の魔物、という言葉に、一同からわずかにざわめきが漏れた。セトも粥をすすりながら、緊張でみぞおちのあたりに自然と力が入るのを感じた。
だが、フェイ・トスカは落ち着いている。彼はこれまで、数多くの魔物や魔族を打ち倒してきたのだ。その中には、彼の身長の何倍もあるような大型の種族も含まれると言われている。
村人たちも当然そのことを知っているのだろう。この場に緊張感はあっても悲壮感はない。
「それから、今日は新参ものを一人同行させます」フェイ・トスカがそう言うと、その場の全員が一斉にこっちをみた。
「ご存じの通りこいつは私の息子ですが、腕前はまだ見習いもいいところです。今日は後衛に立たせますが、まあ役には立たないと思いますのでみなさん当てにしないでください」
その物言いに場を支配していた緊張感が一気に溶け、笑いが漏れた。だしにされた格好のセトはおもしろくなかったが、ここで父親に楯突いたところで空気を悪くするだけなので、素直に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「未来の勇者様だな!」
「ま、今日は親父さんの戦いをしっかり見学しておくといい」
何人かがセトのところへ寄ってきて、肩を組んだり背中をたたいたりした。
「さあ、出発しましょう」
やがてフェイ・トスカの号令で、村人たちは自分の武器を担ぎ、何人かは魔法の灯りのはいった角灯も手にして集会所から出ていった。セトもそれに続こうとしたところへ、またシフォニアがやってきた。
「ちゃんと食べた?」
そう言われてまだ椀を手に持ったままだったセトは、空になった椀をシフォニアに返した。「うん。おいしかった」
「そう、よかった」シフォニアは笑顔で椀を受け取った後、一度傍らに置き、それからセトのことを正面から軽く抱きしめた。
「気をつけて行ってくるのよ」
「うん──母さん」
セトは右手だけシフォニアの背中に回し、軽くたたいた。ほっそりとした母の背中は、すこしだけ震えているようでもあった。
「心配しないで。大丈夫だから」
シフォニアはセトから身体をはなすと、微笑んだ。
「そうね。──お父さんはとても強いから、任せておけば、大丈夫よ」
「そうだね」セトも微笑んだ。「行ってきます」
「行ってらっしゃい」シフォニアは椀を手に立ち上がると、奥の部屋へと戻った。
セトは腰に差した短剣の具合を確かめ、矢束の入ったかごを背負い、弓と角灯を手にすると、集会所を後にした。
自警団の一行はフェイ・トスカを先頭にして水田に向かった。セトは最後尾につく。
魔法の灯りによって照らし出される水田は幻想的な美しさがあった。稲穂はかなり色づいてきており、収穫の日も近い。
魔物の痕跡が村そのものより水田の方に集中しているのは、人的被害が出にくいことを考えればありがたかったが、この時期はありがたいばかりではない。せっかく育てた作物をかすめ取られる可能性があるからだ。
ただでさえ、収穫間近の作物はデリケートだ。日照りや水害、虫害もそうだし、稲穂の実をつついて中身を食べてしまう鳥もいる。いざ収穫したらもみ殻ばかりで実がなかった、なんて笑えない話もある。管理に追われている農夫たちはみんなこの時期はぴりぴりしているのだ。
その上魔物の侵入である。鳥や虫なら警戒していれば追い払うことは可能だが、魔物は程度による。鍬を振れば逃げていくような輩もいれば、人間ごと襲って食べてしまうようなやつだって中にはいるのだ。
そうなれば、あとはもう魔物が満足してそこを立ち去るのを震えながら隠れて待つか、村人の方がさっさと逃げ出してしまうほかなくなる。国が討伐隊を出してくれることももちろんあるが、それは大抵いくつかの村落が甚大な被害を被った後だ。
結局のところ、自分の身は自分で守らなければならない。そのために、どの村落にも自警団はある。戦の経験のあるものが中心になって団をまとめていることが多いが、その点、このファーリの村の自警団は恵まれている。なにしろ、かつての勇者フェイ・トスカがいるのだから。
その昔単身で魔王の本拠に乗り込み、見事制圧して見せた男である。あれから一五年ほどが経ち、現役を退いているとはいえ、まだまだそこいらの魔物に後れをとるようなことはない。彼がこの村に来て以来、魔物の襲撃という点においては村は一切の被害を免れていた。
──というのが、水田を抜け、切り開かれていない森の側まで来る間に、セトが自警団の村人から聞かされた内容である。
「だからまぁ、旦那に任せておけば心配はないってことよ」
槍を担いだ村人がそう言って笑った。顔の半分を伸ばした髭に覆われていて人相がよくわからないが、確かフェイ・トスカよりもだいぶ年上のはずだ。
「あまり任されすぎるのも、この村にとっていいのかどうか」先頭をいくフェイ・トスカがたしなめるように言う。「私だって人間です。これからは衰える一方ですよ」
「なに、旦那が引退する頃には、今度は坊ちゃんが一人前になってるって寸法だ。そうだろ?」
村人に豪快に背中をたたかれて、セトはむせた。
「そいつが一人前になるのを待っていたら、あと何年前衛でいなければいけなくなるやら──」フェイ・トスカはそこで軽い口調を唐突に切ると、左腕を水平にあげて後続を制した。「気配があります。静かに」
その合図で全員が口をつぐんだ。フェイ・トスカを含めて全員が耳を澄ますと、眼前に広がる森の中から金属のこすれる音がかすかに聞こえてきた。
「ワナにかかっています」フェイ・トスカが言うと、村人のひとりが小さく叫んだ。「昨日設置した頑丈な奴だ!あれなら抜け出せない」
「油断は禁物ですよ」フェイ・トスカは別の村人から角灯を受け取ると、腰にくくりつけた。「近づきます。弓隊は援護の用意。槍隊は打ち合わせ通り、私を中心にして扇の陣型に」
フェイ・トスカの指示で、槍を持っている四人は二手に分かれた。弓を持っているものたちはそれぞれ矢束から鏑矢を取り出して弓につがえる。セトもそれに習った。
フェイ・トスカは右手を剣の柄にやり、気持ち姿勢を低くして、森へと近づいていく。森の中から聞こえる金属の音は徐々に大きくなっており、本来静かな夜の空気を揺らしてセトたちのところまでガチャガチャという音がはっきり聞こえてくるようになっていた。
そして、フェイ・トスカが森まで残り数ログというところまで近づいたとき、唐突に金属音が途絶えた。
次の瞬間、森から何者かが飛び出し、フェイ・トスカに襲いかかった。
数日前から森に潜み、村の水田へと侵入を試みていた魔物の正体は、その場にいた全員に戦慄をはしらせた。
「きょ、巨人!?」弓隊の中の誰かが叫んだ。
森の中から飛び出してきたのは、全長五ログ(約三・五メートル)ほどの巨人族だったのである。
巨人の右足首にはとらばさみが食い込み、そこから鮮血が流れ出ている。これまでのワナが壊されていたために特注された強力なワナだ。巨人はとらばさみを破壊できないと知るや、それを打ち込んでいた杭の方を怪力で引き抜いたのだった。
人里を襲う魔物は、たいていが知能の低い、鳥獣の毛が生え替わった程度のものが多い。それに時折若干知能が働く小鬼が混じることがあるくらいだ。
巨人族は知能は小鬼とさしてかわらないが、なんといっても怪力と強靱な生命力を持っている。はっきり言って、その辺の村に現れたら村を放棄して全員で逃げ出す方が賢いくらいなのだ。
だが、この村にはフェイ・トスカがいる。
巨人はフェイ・トスカに向かって拳を振りおろしたが、フェイ・トスカは転がってその一撃をよけ、落ち着いて間合いを取った。予想外の大物にいくらか意表をつかれはしただろうが、この程度で取り乱す男ではない。
「とにかく、う、射て!」その様子を見て我に返った弓隊の誰かが号令し、全員が思いだしたように弓を構えなおし、てんでばらばらに鏑矢を放った。ただし、セトをのぞいて。
セトもほかの村人同様に衝撃を受けていたが、その衝撃は異質なものだった。
飛び出してきた巨人が、一瞬ガンファではないかと思ったのだ。
いつも側にいて、優しくセトを見守っていてくれた一つ目の巨人族ガンファ。
ここしばらくは思い出すことすらしていなかったその姿が、今フェイ・トスカと対峙している巨人に重なって見えたのだった。
だが、今あそこにいる巨人はガンファではない。確実なのは一つ目ではないことだ。あの巨人は人間同様ふたつの目がある。身体もガンファよりはいくらか小さい。というより、肩の盛り上がり具合などからしても、肉体がまだまだ未成熟なのが見て取れた。子供なのかもしれない。
巨人から間合いを取ったフェイ・トスカは、自分の斜め後方に控えている槍を持った村人たちを身振りで指示してもう数ログ後退させた。もし巨人があちらに向かっていってしまったら、貧弱な槍では到底抑えられない。
腰の剣を引き抜いて軽く構えながら、巨人を観察する。ぼろぼろの腰布のみを身につけた巨人は、足からはずれないとらばさみから絶えず伝えられる痛みに目を血走らせ、荒い息をついている。かなり興奮しているのは間違いない。
そこへ、弓隊が放った鏑矢が飛来した。威嚇用の鏑矢は風をはらんでうなるような音を立てながら森の中へと飛んでいく。
巨人は自分の脇を通り過ぎていくその音にいっそう興奮を増し、誰にともなく雄叫びをあげた。
フェイ・トスカはその様子を見ながら、鏑矢はやめさせた方がいいかもしれない、と思った。巨人はすでに周りが見えていないほどに興奮している。これ以上は相手の行動を読めなくなるだけで、むしろ逆効果になりかねなかった。
時間をかけると予想外の被害を産み出しかねない。そう判断したフェイ・トスカは、巨人を無力化すべく剣を正眼に構えて間合いを計り始めた。
広範囲に響きわたる巨人の雄叫びに、何人かがひっと声をのみ、次の矢をつがえる動作を止めた。
離れたところにいるものにさえ恐怖を与えるその声に、しかしセトは全く違う響きを感じていた。
その雄叫びは、セトからすればとても悲しく、つらそうに響いたのである。
まるで、足が痛くてたまらない、誰か何とかしてくれと、懇願しているかのようだった。
セトはほとんど確信していた。あの巨人はまだ子供なのだ。
そう思ってみれば、体つきもずいぶん貧弱だ。親がどうなってしまったのかはわからないが、きっとお腹がすいてどうしようもなくなって、仕方なく人里まで出てきてしまったのだ。足の手当てをして食料を少し分けてやれば、おとなしく出ていくだろう。
だが、フェイ・トスカは抜き身の剣を構えて間合いを計り、今にも打ち込もうとしている。声をかけてやるような気配はない。
村人はもとよりお父さんも、巨人の生態は知らないのだろうか。ずっとガンファが側にいた自分にはわかっても、彼らにはわからないのかもしれない。となれば、自分が行って教えてあげた方がいいかもしれない。
セトが横を見ると、村人たちが再び矢をつがえ、今にも放とうとしている。またあの音を聞いたらよけいに興奮してしまうと考えたセトは、とっさに止めた。
「だめです、射たないで!」
「えっ、しかし、坊ちゃん──」
戸惑う村人とフェイ・トスカを見比べたセトは、ここで村人に事情を詳しく話している余裕はないと判断した。
「あの魔族はまだ子供です。僕が行って話をしてきます」
言うが早いか、セトは弓矢を地面に置くと駆けだしていた。
「父さん、待って!」
その声は、フェイ・トスカがまさに巨人に飛びかかろうとする直前に聞こえてきた。
目線だけ動かして息子がこちらに向かって駆けてくるのを確認する。弓矢は置いてきているようなので、身につけているのは短剣だけのはずだ。護身用というより、緊張感を持たせるためだけに渡していた武器。魔物相手に立ち向かえるものではないし、まして相手が巨人とくればなおさらだ。
「あのバカ・・・」口の中で毒づいた。
目線を戻し、巨人を見るとあちらもセトの声に反応していた。フェイ・トスカから完全に視線をはずし、首をねじってセトの方を向いている。
息子がここへ来る前に片を付けなければならない。幸いなことに巨人は意識を逸らしている。
そう考えたフェイ・トスカは、身を沈めるようにして巨人へと突進した。巨人はその気配に気づいたが、遠くから走ってくるセトとフェイ・トスカを見比べて困ったようなうめき声を上げた。
「父さん!」今度のセトの声は、集中したフェイ・トスカの耳には届かなかった。
フェイ・トスカは巨人の左脇を走り抜けざまに、とらばさみが食い込んでいない巨人の左脚ふくらはぎのあたりを素早く切り裂き、もっとも太い腱を一撃で断った。
巨人は衝撃に顔を歪ませ、唐突に力の入らなくなった左脚から崩れてひざをついた。それからようやく伝わってきた痛みに声を上げる。
完全に我を失った巨人は、もはや闇雲に腕を振り回すばかり。そうはいってもたとえ偶然でもその腕に当たれば人間などはただではすまないのだが、フェイ・トスカは落ち着いていた。腕の届かない位置まで接近すると、あとは滑り込むようにしてひざ立ちの相手のすぐ側まで到達する。
そして、無防備なわき腹にためらいなく剣を突き入れたのだった。
セトがたどり着いたとき、すでに戦いの趨勢は決してしまっていた。
フェイ・トスカは巨人のわき腹から引き抜いた剣の血を拭き取っているところで、巨人は力なく仰向けに倒れ込んでいた。わき腹からは鮮血が止めどなく流れ出している。どう見ても致命傷だった。
「さすがフェイ・トスカ殿だ」
「きょうも鮮やかな手並みだったなあ」
先ほどまで緊張の面もちで槍を構えていた村人たちも、もう危険は去ったと判断したのか、口々にそんなことをしゃべりながら近づいてきている。それは後方で弓を構えていたものたちも同様だった。
全体として先ほどまでの張りつめた空気はゆるんできていたが、そんな中でセトは厳しい顔つきでフェイ・トスカと巨人の間に立ち、フェイ・トスカを見据えた。フェイ・トスカも一切表情をゆるめずにセトをみた。
「言いつけを守らなかったな」さきに口を開いたのはフェイ・トスカだった。
だが、セトはそのことには答えなかった。
「なぜ、殺したのさ」セトの声は震えていた。「この魔族はまだ子供だ。きっとお腹がすいていただけなんだ。ワナにかかった足が痛いって泣いていただけなんだ。話を聞いてあげれば、殺す必要なんかなかったのに!」
「話を聞く?」フェイ・トスカはぴくりとも表情を変えなかった。「魔物相手にか」
「巨人族なら、言葉だってわかるはずだよ。そのくらい、父さんだって知ってるはずだ」
「そうだな。確かにわかるかもしれない。だが、話をしてどうする?こいつを生かしておいても、俺たちには何のメリットもない。たとえこの村を襲わなくなったとしても、それはここではない別の村を襲うというだけのことだ」
「そんなこと、わからないじゃないか」セトの反論はむなしく響いた。ガンファのような心優しい魔族もいるということを、フェイ・トスカも村人たちも知らないのだ。それがわかれば、きっと──。
だが、続くフェイ・トスカの言葉は、決定的なものだった。
「この世界のどこだろうと──」その瞳が冷ややかに光った。「魔物が生きていていい場所などない」
セトは言葉を失った。その目はあのとき、セトの胸に容赦なく剣を突き立てたときのフェイ・トスカの目と同じいろをしていた。この世界で、ともに暮らす中ではただの一度も見なかった凍り付いたような冷たい目だった。
セトが辺りを見回すと、いつの間にか周囲に集まってきていた村人たちの目つきも同様だった。魔物の存在を一切許さないという、冷たい同意の目をセトに向けている。
セトはまるで、自らの存在をその視線によって削られているかのような錯覚に陥った。これほど明確で頑なな拒絶の意志を向けられたことは今までなかったからだ。
セトは知らず後ずさった。その背後には横たわる巨人がいる。
そのとき、フェイ・トスカが動いた。腰に差していた短剣を鞘から抜くと、セトに向かって投擲したのだ。
とっさの動きにセトは反応できず、固まってしまったが、短剣はセトの脇をすり抜けて飛び──巨人の眉間へと突き刺さった。
短剣の行方を追うようにして振り返ったセトは、巨人の左手が自分の頭にもう少しで触れるというところまで差し上げられていたことを知った。
ただひとり自分を擁護しようとしてくれた少年に謝意を伝えたかったのか、それとも人質にでもしようと思ったのか。
その真意は誰にもわからない。だがフェイ・トスカはその動きを危険なものと判断して短剣を投げた。そして眉間をつらぬかれた巨人は今度こそ絶命し、差し上げられた左手も、なにもつかむことのないままに地に落ちた。
「あ・・・」
セトの口から力のない声が漏れた。
固まってしまった身体に何とか命令をして首の向きを元に戻すと、フェイ・トスカがセトのすぐ目の前まで近づいてきていた。
そして、次の瞬間にセトは殴りとばされていた。
一切手加減のない強烈な拳を受けて、セトは飛ばされ、横倒しになった。
ちょうど側にきていた村人がセトを助け起こしてくれたが、その表情は硬く、セトに言葉をかけてはくれない。
「どうやら、おまえのことを少し買いかぶりすぎていたようだ」フェイ・トスカの声が冷たく響く。
「規則を曲げてまで連れてきてやったのに、言いつけを守れなかった。戦場で指揮官の命令を聞かないってことは、自分だけでなく周りの味方全員の命を危険にさらすことになるんだ。それくらいは頭にはいっていると思っていたんだがな。しかも、魔物をかばうためにだ。こんなに大馬鹿者だとは思わなかった」
そう言われて、セトはまた顔をこわばらせた。なぜ魔物をかばうことが、大馬鹿者なのか。彼らだって生きているというのに。
口は出さなかったが、目つきからその思いのいくらかを感じ取ったのだろう。フェイ・トスカは少しだけ諭すような口調になった。
「このままでは、おまえは村にいられなくなるぞ。──みなさん、こいつは少しばかり頭に血が上ってしまっているようです。命令違反の罰として、数日の間監禁房に入れて反省させます。それでよろしいですか」
村人たちからは取り立てて賛成の声も聞かれなかったが、反対の声も挙がらなかった。
フェイ・トスカはそれを承認と受け取ったようだった。
「セト。おまえがどうして魔物を助けようなどと考えるようになったのかはしらんが、この村で、いやこの世界でふつうに生きていくにはそんな考えは邪魔にしかならない。なぜこの世界が平和でいられるのか、よく考えて見ろ。時間はたくさんあるからな」