竜の試練(二)
四
セトがフェイ・トスカとシフォニアの家に来て、十日が経った。
セトの食あたりは医者の見立て通り一日ですっかり治り、その翌日からは家の外へでて情報収集することが可能になっていた。
家から続いている曲がりくねった下りの道を行くと、やがて小さな村落があって、セトはそこでいろんな話を聞くことができた。
まず、ここはどこなのか。外れとはいえこの村に住んでいる子供がどうしてそんなことを聞くのか、と聞かれたおばちゃんは変な顔をしたが、それでも親切に教えてくれた。
それによれば、ここはファーリの村といって、位置的にはサンクリーク王国の北西の端にあり、山を越えてさらに北へ行けば大陸の北を横切る大河、エルストラーデ川を挟んですぐにマホラ公国があるのだという。
セトはマホラ公国という国は初めて聞いたが、サンクリーク王国についてはシュテンで教師をしてくれた魔族に教えてもらっていたし、エルストラーデ川も大陸で屈指の大河だから、見たことはないけれども知っている。
セトが暮らしていたシュテンは大陸でも西の端、サンクリーク王国は逆に東の端にある。王国の領土は広いとはいえ、東側であることには変わりがない。セトは周囲に生えている草木や、森にいる動物に見たことのない種類が多くいる理由を理解していた。
ただ、セトからすればサンクリーク王国というのはすでに滅んだ国だ。マホラ公国にしても、そもそも魔王は国という概念をすべて潰してしまったのだから、存在しているはずがなかった。なのに、おばちゃんはさも当然とばかりにふたつの国の名前を出したのだ。
そもそもこの村は、マーチと出会った隠れ里のように、魔族のいない村だった。あの里と違うのは、外界との接触を断つということを全くしていないところだ。魔法で護っているような気配もない。それどころか先日は、村の外から幌馬車が来て、広場で市を開いていた。聞けば定期的にこの村へ来ていて、野菜や山でとれる果実などを仕入れるついでに街で作られている雑貨などを売るのだという。彼らも皆人間だった。
フェイ・トスカとシフォニアについては、酒場の吟遊詩人が歌物語を聞かせてくれた。曰く、勇者フェイ・トスカは見事魔王を討ち果たし、王都へ凱旋して愛しのシフォニア姫と結ばれた。だが元は下級騎士であるフェイ・トスカはほかの貴族から疎まれ、さまざまな嫌がらせを受けるようになる。嫌がらせが姫にまで及ぶことを危惧したフェイ・トスカは、たとえ子供が産まれても王位を次がせる気はないと王の御前で宣言すると、なんと姫を連れて王都を出奔してしまった。
その後、勇者と姫の行方は杳としてしれず、しかし一説にはとある山里に落ち着いて幸せに暮らしているという──。
吟遊詩人がそこまで歌い終わると酒場の客はみなやんやの喝采、そのうち客のひとりが少々わざとらしい仕草で「そういえば、ファーリの村のはずれには──?」と声をあげる。と同時に、客の騒ぎもいったん収まる。
すると、吟遊詩人はたいそう大げさに人差し指を唇に当て、「そこから先は、言わぬが花というものです」
しばしの沈黙の後、吟遊詩人が優雅に礼をすると、今度こそ客はみな手をたたいて大騒ぎ。吟遊詩人にチップが飛んだ。今のやりとりまで含めて、歌の一部だったのだ。
吟遊詩人の歌の通りであるならば、この世界はセトの知っている世界とは歴史が違う。フェイ・トスカが魔王に勝利した世界なのだ。だから、人間が堂々と暮らしているし、王国も滅びていない。そして、母も生きている。
試練の答えは、簡単なものだった。やはり、まぼろしなのはこの世界そのものだ。あるいは、勇者が魔王に勝利したという事実がまぼろしともいえる。いずれにしても、セトはこれ以上なにも探す必要はなかった。教えられた言葉をセトが唱えさえすれば、まぼろしの世界は消え去り、セトは目を覚ますことができるだろう。
だが、セトはそうしないでいた。セトは、このまぼろしを、すぐに消してしまうのは惜しいと思うようになっていた。
試練のことが頭になければ、この世界がまぼろしだなどと思わなかっただろう。本当の世界と同じように、ここにも日が昇り、日が沈む。山の中腹だからか気候はおだやかでいつも涼しいが、時には雲がかかり雨も降る。畑に水をやれば野菜が育つし、家畜の鶏は毎日卵を生む。
村人は気のいい人ばかりで、セトにも親切だった。あの吟遊詩人の歌を知っているなら、セトが勇者と姫君の間の息子であることも知っているはずだが、とくに遠慮を見せることもない。
なにより、セトは人間がこんなに生き生きと暮らしている姿を見たことがなかった。あの隠れ里ですら、どこか抑圧され、常に緊張感があったように思える。
そしてもちろん──。
「あ、セト。おかえりなさい」
陽も落ちかけたころ家に戻ると、いつものようにシフォニアが前掛けをつけて夕食の支度をしている。
「ただいま」
シフォニアは手を止めると、セトのそばまできた。
「ねぇ、ほら。小麦粉を手に入れたのよ。セト、パンが食べたいっていっていたでしょう。明日にでも、作り方を教えてくれる?」
「いいけど・・・。僕が食べていたのは本当に簡単なやつだよ。発酵もさせないし」
「それでいいのよ。セトのために手に入れたんだから」
この世界では、セトはずっとシフォニアとフェイ・トスカの元で育ったはずだが、セトが本来は知らないはずの西方の食べ物や習慣を知っていても、あまり気にされることがなかった。そこは作られた世界らしく、都合よく解釈されているのだろうか。
「ただいま」そこへ、フェイ・トスカも戻ってきた。
「おかえりなさい、あなた」シフォニアが寄っていって、いつものように軽い口づけを交わす。シフォニアはセトに対しては、セトが嫌がるからか寝る前など限られたときにしかこうしようとしないが、フェイ・トスカに対してはほとんど顔を合わせるたびにキスをしている。見ているセトの方が恥ずかしくなるくらい、このふたりは仲睦まじい。
「よう、セトも戻ってたのか」
フェイ・トスカがセトにも笑顔を向ける。こうされるのは未だに少しなれないところがある。
「明日は、セトにパンづくりを教えてもらうの」
「なんだ。パンなら俺だって、旅の最中によく食べてたし、作り方だって知ってるぞ」
「いいのよ。セトに教えてもらうんだから」
「ちぇっ」
フェイ・トスカがすねたように舌打ちをして、シフォニアから離れた。セトのそばを通り過ぎるときに、セトの頭をぽんぽんとたたき、「人の嫁さんをとるなよなぁ」と言った。
セトがどう答えたものか戸惑っていると、「私は確かにあなたのお嫁さんだけど、セトの母親でもあるんです」とシフォニアが言い返した。
フェイ・トスカはそれを聞くとお手上げのポーズを取って、「武器の手入れをしてるから、夕飯ができたら呼んでくれ」と言い残して自室へ入っていった。
「自分の息子に嫉妬するなんて、困った人ね」シフォニアははにかむように笑いながらそういうと、夕飯の支度を再会した。
セトは不思議な気持ちだった。フェイ・トスカもこの人も、きっと魔法か何かで作り出されたまぼろしの一部にすぎない。だけど、今胸を占めている暖かさは間違いなく本物の自分の感情で、しかもそれはこれまで感じたことがない種類のものだった。
試練に時間制限はないのだ。それならもうすこしだけ、この暖かさに浸っていたい。現実には起こり得ない家族との暮らしを、もう少しだけ味わっていたい。セトの心の隅で密やかに、だけれど次第にはっきりと、その感情は育っていった。
「ねぇ、セト。ちょっと手伝ってくれないかな?」
「うん、母さん」
台所からのシフォニアの声に、セトは笑顔で答えていた。
さらに時が流れた。
セトがこの「試練」の世界へと入ったとき、まだ春の匂いを残していた季節はいつしか夏を過ぎ、秋の入り口へとたどり着いていた。
森の中にあるセトたちが暮らす家の周辺ではさまざまな茸や果物の果実が採れるようになり、セトはフェイ・トスカらとともに森へはいってはそれらを収穫した。ときには野生のイノシシなどを狩ることもあった。
また、セトの家にはごく小さな畑しかなかったが、ファーリの村は稲作農家が多く、開けた山腹に広大な水田があった。そこに植えられた稲はいまやしっかりと稲穂をつけ、収穫の時へ向けてその身を青から黄金色へと少しずつ変化させている。
本格的に収穫の時期になれば、水田を持っていないセトたちも含め、村人たちが総出で収穫を行い、それが終われば村をあげてのお祭りになるのだそうだ。セトは楽しみだった。
そして今、セトが夢中になっていることといえば、それはフェイ・トスカに剣術を習うことだった。
シフォニアへの警戒心は早いうちに薄らいだものの、やはりフェイ・トスカに対しては同じようにはいかなかった。シフォニアのようにかいがいしく世話を焼いたり、スキンシップをとってこようとはしないが、ここではフェイ・トスカもやはり父親らしく、セトを優しく見守り、時には声をかけてくる。だがあの日、丘の上で対峙し、容赦なく自分を攻撃したフェイ・トスカの表情がそこにかぶさってくるので、セトはそれに素直に答えることはできないでいた。
それが変わったのは、六の月も中頃にはいったある日のことがきっかけだった。
夕飯の支度ができたからお父さんを呼んできて、と頼まれたセトは断るわけにもいかず、抵抗を感じながらも初めてフェイ・トスカの自室へと入った。
フェイ・トスカは食事前に自室にはいるときは、たいてい「武器の手入れをしてくる」と言い残していくことが多いが、この日もその言葉通り、いくつかの武器を床に広げていた。
今のフェイ・トスカは戦いを生業にはしていない。森で収穫できる物を売ったり、村で力仕事を手伝ったりして収入を得ている。また、村にはフェイ・トスカをのぞいて魔法使いがいないので、魔法が必要な仕事があると結構な臨時収入になるようだ。
武器を使うことはいまではほとんどないはずだが、それでも長年戦士として生きてきた性なのか、手入れを怠ることはしなかった。
「セトか。夕飯か?」
「うん──」
フェイ・トスカの声に答えながらも、セトの目は広げられた武器へと向けられていた。短剣が四本、中には儀礼用なのか、柄には宝石が嵌められ、鞘に透かしの彫刻が彫られている物もある。
刀身が一番長い両刃の剣は、セトにとってなじみの深い物だった。セトがシュテンをでるときグレンデルより手渡され、それからずっとセトの愛剣だった長剣である。たしかグレンデルの話では、グレンデルがフェイ・トスカと戦ったときに使い物にならなくなり、グレンデルの元へ残していったと語っていたが・・・。この世界ではどういう経緯かフェイ・トスカの元にある。刀身はやはり鋳直されているのか、十分に使えそうである。
そして、それよりもいくらか短い刀身を持つ、やはり両刃の直剣に、セトの目は釘付けになっていた。
見た目が特別というわけではない。だがその剣は、まるで剣自身が光っているかのように、ほかの武器とは異なる輝きを放っているようにセトには見えた。
「これは──」思わずかがみこんだセトが剣へと手を伸ばす。
だが、フェイ・トスカはセトの動きをみるやその剣を引っ込めてしまった。剣は鞘へと収められ、輝きも消えてしまう。
「こら、勝手にさわるな」
「ご、ごめんなさい」
フェイ・トスカに咎められてセトは謝ったが、相手は本気で怒っているわけではないようだった。セトを見て、少し感心したようにうなずいている。
「おまえ、魔法の素養はないくせに、この剣のことはわかるんだな。この剣がなんだか知っているのか?」
「え?いいえ・・・」セトは首を振った。フェイ・トスカの持っている武器を間近で見るのはこれが初めてだった。
「ふうん。だけど、村へ降りたときに、一度くらいは聴いたんじゃないのか?魔王退治の歌物語」
それなら、確かに聴いた。というより、半ば強引に聴かされたのだ。村人たちが言うには、その歌物語は今世界で一番有名で、子供から大人までだれでもそらんじることができるほどだという。
勇者が魔王にとどめを刺すときは、こんな感じだ。勇者は魔王の爪をひらりとかわし、光かがやく剣を振るった。破邪の剣が魔王の心臓を突き破り、魔王はあえなく断末魔。あっという間にその身は崩れ、灰となって風に散らされたのだった──。
その一節を思い出して、セトはあっと声をあげた。
「ってことは、その剣は──」
「そうだよ。これが魔王を倒した、破邪の剣だ」
フェイ・トスカはそう言うと、情感のこもったてつきで剣の鞘をなでた。
「魔王を倒したときに身につけていた装備は、どれもいろんな国からの借り物だったからな。鎧や盾なんかは返してしまったんだが、これは例外なんだ」
「へぇ・・・」セトは改めて剣をみた。そういう思いで見ると、鞘に収まっている今でさえ、光を放っているようにも見える。
また無意識に手が伸びて、フェイ・トスカにたしなめられた。
「さわるなって」
「ちょっとだけ」
セト自身こんなに武器に執着する自分に少々驚いていたが、破邪の剣はとても魅力的に見えて、セトはちょっとでもさわりたい気持ちが抑えきれなかった。だが、フェイ・トスカは許してくれず、立ち上がると剣を壁に掛けてしまった。
「別に意地悪で言ってるんじゃないぞ。この剣は魔法の剣で、使い手を選ぶんだ。未熟者がうかつにさわると、持てないどころかはじきとばされて怪我をする」
フェイ・トスカは別段セトのことを言ったわけではないのだろうが、セトは「未熟者」という言葉を聞いて口をとがらせた。
「僕だって、剣を使えるよ」
「本当か?」
セトの抗議に、フェイ・トスカは半信半疑と言わんばかりの声で答えた。
「本当だよ」セトがさらに言い募ると、フェイ・トスカはほかの武器も片づけながら、
「それなら、明日から少し稽古を付けてやるよ。それなりに使えるようなら、剣をさわらせてやってもいい。いや、そうだな──」そこまで言って少し考える素振りを見せ、「おまえ、来年はもう成人だよな。よし、成人の儀式の時までに俺から一本とって見せたら、儀式で使う剣をこの破邪の剣にしてやってもいいぞ」と言った。
セトは、つい先日成人の儀式について教えてもらった時のことを思い返した。
成人の儀式は毎年春の頭に行われる。内容は地域によって様々だが、この地域では儀式の最後に、親から子へ(親がいなければ村の長などから)贈り物がされる。一般的に、男の成人には剣が、女の成人には簪が贈られることが多いという。
剣は短剣であることが多いようだが、フェイ・トスカはその剣を「破邪の剣」にしてもいい、と言っているのだ。ということは──。
「それって、破邪の剣を僕にくれるってこと!?」セトは飛び上がった。その拍子にこれまでなかったほどフェイ・トスカに自分から近づいてしまったが、そんなことも気にならない。
「一本とったら、だぞ。俺は手なんか抜かないからな」
フェイ・トスカが釘を刺しても、セトは浮かれた様子のまま、逆に何度も「約束だよ!」とフェイ・トスカに念を押した。
フェイ・トスカを夕飯に呼びにきたのに、そんなこともすっかり忘れてセトが騒いでいるので、ついにはシフォニアがやってきて、「もう、お夕飯が冷めちゃうじゃないの」と小言を言ったのだった。
それ以来、セトは毎日のように時間を作ってもらっては、木剣を手にフェイ・トスカへ挑んだ。薪割りをする裏庭が稽古場だ。
フェイ・トスカはとにかく滅法強かった。稽古を付けてもらうようになってから最初の数日は、セトは素人同然にあしらわれ、一本とるどころかまともに剣をあわせることもできなかった。
少しでも隙をつこうと動き回っても、フェイ・トスカは全く動じることなく対応する。無駄に運動量ばかりが増え、セトが息も絶え絶えに倒れ込むようになっても、フェイ・トスカは汗一つかいておらず、これ見よがしにあくびをされることもあった。
「おまえなぁ、闇雲に走り回ったって意味なんかないよ。もっと相手をよくみるんだ」
「でも、父さんは全然隙がないし──」
「本当にそうか?俺だって人間なんだ。呼吸もするし、じっとしてれば身体のどこかが痒くなってくることだってある。たとえば息を吐ききった瞬間をねらえば、相手は力を入れて防御することが難しくなる。そういう瞬間を見つけるのが隙をつく、っていうことだ。そのためには相手をしっかり観察しろ」
だが、そう言われたセトが足を止めてフェイ・トスカを観察しようとすると、容赦なく間合いを詰められて木剣の腹で頭をたたかれた。
「棒立ちになってどうする。それじゃおまえが隙だらけだ」
なにしろフェイ・トスカはスピードが違う。セトがこれまで剣を習った誰よりも素早く、正確な動きをした。セトが少しでも隙を見せれば、すかさず木剣で叩かれた。ただし、ほとんど剣の腹である。それだけ手加減されているのだ。
「踏み込みの速度も全然だな。振り込みが足りないのももちろんだが・・・そもそも、身体が細すぎるんだよ。背が小さいのも俺に似ちまったしなあ。せっかく母さんが毎日おいしい料理を作ってくれるんだから、もっとしっかり食って筋肉つけろ!」
フェイ・トスカの言うとおり、セトの身体は同年代の男性に比べると小さいし、細い。背丈は父親譲りとしても、身体の細さはずっと貧しい生活を送ってきて、一日一食ということもざらにあったからである。
だが今、セトの食生活はこれまでにないほど充実していた。フェイ・トスカは裕福というほどではないものの三人家族が生活するには十分な稼ぎを得ていて、セトは毎日しっかりと、栄養のある食事をとることができていた。
何しろ成長期である。夏を越す間に、セトの身体は周りが驚くほどにしっかりと筋肉がつき、たくましくなっていた。背丈も少しは伸びたようである。
秋になっても、セトは相変わらず毎日のようにフェイ・トスカへと挑んだ。たまに仕事で相手をしてもらえないときは、裏庭で薪を割り、森を駆け回って体力づくりの日々である。
あるとき、フェイ・トスカと打ち合いをしているさなか、珍しく相手が体勢を崩した。足下に少々大きめの木の枝があって、うまく避けることができずにバランスを崩したのだ。
セトは千載一遇の好機とばかり、大上段からフェイ・トスカへと打ち込んだ。だがフェイ・トスカは予想に反してまったく落ち着いていて、セトの一撃をあっさりいなすと無防備になった背後に回り込み、左の手首をつかんでひねりあげた。
「いたたた!」セトはあっけなく悲鳴を上げた。
「あんな見え見えの誘いに引っかかるとはな」フェイ・トスカはセトを解放してやると、あきれ顔で苦言を呈した。
「やっと身体つきはいくらか見られるようにはなってきたが、おまえには戦略ってものがないな。やみくもに突っ込んでばかりこないで、相手を観察しろと言っているだろう。どれだけの期間俺と打ち合いをしてると思ってる。さあ考えてみろ。俺がいつも軸足にしているのはどっちの足だ?」
「──右足」答えながら、セトはフェイ・トスカの言いたいことを理解していた。
先ほどの状況を思い返してみる。フェイ・トスカが木の枝を踏みつけたのは左足だった。軸となる右足は普段通りで、実際にはバランスは保たれていたのだ。左足と上半身を大げさに揺らしたことで、セトを誘い込もうとしたのである。
そのことを告げると、フェイ・トスカはいくらか満足そうな顔でうなずいた。
「そういうことだ。相手に隙がなければ隙を作ることも必要だし、相手のそうした動きを見破ることも必要だ。・・・おまえはもっと場数を踏まなきゃいかん。そうだな、今度自警団の招集がかかったときには、おまえも連れていくとするか」
村の男衆で構成されている自警団は、たとえば水田を荒らす魔物が出現した際に招集がかけられる。そう機会が多いわけではないが、実際に魔物と戦闘になることもあるのだ。
「本当に?」
セトが見上げるようにして確認をすると、フェイ・トスカはいくらか考える素振りを見せた後、うなずいて見せた。
「本当は成人前の子供は参加させない決まりなんだが・・・。まあ、
おまえなら大丈夫だろう」
「ありがとう、父さん!」
セトは飛び上がって喜び、感謝を述べた。自警団に参加できることもそうだが、なによりもフェイ・トスカにいくらかでも認められていることがわかったことがうれしかった。
その日の夕食で、フェイ・トスカがセトを自警団に参加させることをシフォニアに告げると、シフォニアは露骨に顔をしかめて見せた。
「魔物と戦わせるなんて・・・大丈夫なの?」
「別にひとりで戦わせるわけじゃない。自警団の一員としてだし、なにより俺もついていくんだ。大丈夫さ」フェイ・トスカがそう言っても、シフォニアは納得がいかないようだ。
「でも──」
「それに、セトだって来年成人だ。身の振り方を考えなきゃならん。一人前に剣を使えるようになっておけば、いろいろと仕事の選択肢も増えるってもんだ」
「選択肢って?」
「そりゃ、たとえば町へでて傭兵になるとか──」
「そんなのだめよ。危険すぎるわ」シフォニアはフェイ・トスカの言葉を遮って食ってかかった。
「待て、待て、落ち着け」フェイ・トスカは両手をあげてシフォニアをなだめた。セトはシフォニアがこんな風にフェイ・トスカに反論する姿をこれまで全く見たことがなかったので、食事の手も止めて唖然とふたりのやりとりを見守るばかりだ。自分のことを話しているのに、会話に割り込む隙もない。
「傭兵っていったって、なにも危険な仕事ばかりじゃないぞ。たとえば商隊の護衛なら、国内だけを通るルートはほとんど安全だ。もちろん、安全なルートは実入りも少ないが・・・。若いうちだけ前線にでて、ある程度名前が売れたらあとはさっさと引退して、町中で剣術道場を開く、なんていう手もある。考えようによっては騎士の方がよほど危険だ。あっちは跡継ぎがいなけりゃ引退もできないし、上司も選べないから場合によってはとんでもないところに送り込まれることもある。傭兵ならどの戦いに参加するかはある程度自分で選べるからな。もっとも、最近は平和だからそんなに需要はないかもしれないが」
「セトにそんなことさせる必要なんてないわ」フェイ・トスカの弁解にもシフォニアは聞く耳持たずといった態度だ。
「それに、こいつ才能あるぞ。今はまだまだだが、将来的には俺より使えるようになるかもな。魔法が使えない分、そっちに才能が偏ったのかもしれん」
フェイ・トスカがそんなことを言ったので、セトは手にしていた米粥のさじを取り落としてしまった。
「そんなこと言ってセトをその気にさせたってだめよ。この村にだって仕事はあるのに、わざわざでていく必要なんかないじゃない。道場が開きたいならこの村で開けばいいわ。それに、この間スフォルツァさんに、そろそろお宅も水田を持ってみないかって言われたの。わたし、やってみてもいいって思っているのよ」
「正直、俺はおまえが田んぼにいる姿をあまり見たくないんだが──」
「あら、どうして?」
フェイ・トスカは答えずに、セトの方を見た。
だって、似合わないよなあ。
その目がそう言っていた。セトは同意だった。
もとお姫様であるシフォニアは、ふつうの村人とはどこか違う気品を持っている。家で繕いものや刺繍をしたりしているときは気にならないし、料理をしている姿も見慣れたが、たまに畑へでて野菜の世話をしたり、家畜に餌をやっている姿を見るのは未だに違和感が拭えなかった。
「まあ、それはともかく」フェイ・トスカはその話題を横へ追いやった。
「村に残る残らないは、セトが自分で決めることだ。俺たちは選択肢を作ってやればいい。自警団で実際に魔物に遭遇することはそうないが、現場の空気を感じておくだけでも違う。もし剣を生業にするっていうならな」
まだシフォニアは不満そうな顔をしている。フェイ・トスカはさらに付け加えなければならなかった。
「もしそういう事態になっても、危険なことはさせないさ。約束するよ」
夕食後、セトは自室で寝間着に着替えながら、先ほどの両親のやりとりを思い返していた。
あまり深く考えていなかったが、成人すれば一人前の大人として仕事に就かなければならない。そして、セトは身の振り方を自分で選ぶことができる。
これまで、セトは自分の将来をどうしようかなどと考えたことはなかった。その必要がなかったからだ。シュテンで暮らしていた頃は、おそらく自分はグレンデルが亡くなるまでそばで世話をして、その後はリタルドのようにどこかの魔族のもとで働いて生きていくのだろうと思っていたし、シュテンをでてからは生きることで精一杯で、先のことを考える余裕はなかった。
シフォニアは村に残ってほしがっているようだったが、フェイ・トスカは才能を活かしたらいいと考えているようだった。
そう。フェイ・トスカはセトに、剣の才能があると言ってくれたのだ。
そのことを思い返すと、セトは自然と口元がゆるんでしまう。
実際に打ち合っている最中は口調も態度も厳しくて、セトは自信を失ってばかりいたのだが、その実きちんと評価してくれていたのだ。
その期待に応えたいと思う。
そのためには、なんとしても来春の成人の儀式までにフェイ・トスカから一本とって、破邪の剣を受け継いでみせることだ。
セトは寝台に入り込んで目を閉じた。明日から、これまで以上に頑張れるような気がする。自警団の招集もはやくかかればいいと思いながら、眠りについた。
真っ暗闇の中で、自分一人だけ立っている。
おそらく夢だろう。目覚める直前に見るような、これが夢だと最初からわかっている夢。
なにもない暗闇でありながら、つい最近ここに来たことがあるようにも感じられる。
「セト・・・」声が聞こえた。懐かしい少女の声だ。
「シイカ!」セトは叫んだ。今度はちゃんと思い出せた。そう思うのと同時に、セトはこの暗闇の空間が、「試練」の世界へと入る直前に訪れた場所なのだと知った。
セトはシイカの姿を見たいと思ったが、前回と違って光の漏れる場所はなく、誰かのいる気配はうっすらと感じられても、シイカの姿を認めることはできなかった。
「セト。試練の答えは見つかりましたか?」
「それは・・・」セトは口ごもった。
答えはわかっている。だが、シイカに向かってそう答えてしまったら、それでもう、あの世界には戻れないような気がした。
今セトは、あの世界での暮らしを終わらせたくないとはっきり願っていたのだ。
「どうやら、もう分かっているようですね」シイカの声は、セトの心を見透かしているかのようだった。
「現実の世界でフェイ・トスカと対峙したとき、フェイ・トスカが『太陽の宝珠』を用いてなにをすると言ったか、覚えていますか?」
少々唐突なシイカの問いに、セトは頭をひねって思い出す努力をした。
「ええっと・・・。確か、『世界をリセットする』とかなんとか──」
「そうです。フェイ・トスカは今の世界を破棄し、己の記憶だけを残して世界を再構築するつもりなのです。彼がグローングと戦う直前まで」
声は確かにシイカなのだが、いつにもまして他人行儀な話し方を崩そうとしないので、セトは時々不安になった。
「あなたが今暮らしているのは、フェイ・トスカの望み通りに彼がグローングを倒すことに成功した世界。それからあなたの実年齢にあわせて、歴史の流れをシミュレーションした世界なのです」
自分の知っている歴史と異なっている点があることは、セトも理解していることだった。流れをシミュレーション云々は、よくわからなかったが。
「・・・それで?」
「仮にあなたがこのまま目覚めなければ、フェイ・トスカは現実の世界で自らの望みを達成するでしょう。そうすれば細かい違いはあれ、大まかには今あなたが暮らしている世界が現実のものとなります。つまり、グローングが敗れ、人類がこれまで通りに世界を治める世界が」
セトは考え込んでいる。シイカの声が響き続ける。
「あなたが目覚めれば、あなたはフェイ・トスカの行為を止めるために戦わなければなりません。そのための力はお貸ししますが、戦うのはあなた自身です」
「──でもさ」シイカの声がやんでからもしばらく考えていたセトは、やがて顔を上げるとどこにいるのか正確にはわからないシイカに向かって言った。
「それって、止めないといけないの?この世界はとっても平和だよ。人間だって、生き生きしてるし」
それがセトの正直な感想だった。ファーリの村に暮らす人々はみな素朴で闊達、なにより親切で暖かい。セトがこれまで知っていた人間といえば、多くは常に抑圧されていて表情に乏しく、いつも下を向いていてこちらが声をかけても反応しないか、露骨に逃げていくような人ばかりだった。グレンデルの屋敷で育ったきょうだいたちや、マーチなどは数少ない例外なのだ。
それに比べれば、この世界の方が余程いいようにさえ思えてくる。
「それを決めるのは、あなた自身です」シイカの声が響いた。
「あなたにもうひとつ、魔法の言葉を与えます」シイカがそう言うと、今度は頭を掴まれたりはしなかったが、セトの脳裏にこの間のものとはまた別の短い言葉が浮かんだ。
「その言葉は、試練の放棄を宣言する言葉です」シイカの声が、淡々と告げる。「もし、あなたが目覚める必要はないと結論づけたなら、その言葉を唱えなさい。今この世界は、現実の世界のある時間と常にリンクしていて、あなたがこの世界でどれだけ時を過ごそうと現実の世界では時が流れません。ですが、あなたがこの言葉を唱えたなら、そのリンクは切れ、現実の時も流れ出すでしょう。もっとも、その様子を知ることはできなくなりますが。それと同時にあなたは私が最初に教えたまぼろしを打ち破る言葉も忘れてしまいます。あなたはこの世界の住人として生涯を終えることになります」
セトはちょっと考えた後、「もし、どっちの言葉も唱えないでいたら?」と質問してみた。
「あなたは今、精神のみがこの世界にあり、肉体は別のところにあるというやや不安定な状態です。まだしばらくは大丈夫ですが、いつまでもこのままではいずれ存在を保てなくなるおそれがあります。『言葉』を唱え、あなたが存在する世界を確定させることが必要です」
セトはうなずいた。シイカの言っていることのすべてを理解できたわけではなかったが、重要なことは分かったからだ。
この世界で穏やかな暮らしを続けるか、それとも現実へと目覚めてフェイ・トスカを止める戦いに身を投じるか、選択しなければいけない。
セトは理解した。この選択こそが真の「試練」だったのだ。
唐突に足下が怪しくなった。セトは身体が浮くような感覚におそわれて、辺りを見回した。目覚めようとしているのだと分かったからだ。
「シイカ!」どこにいるのか分からないが、とにかく呼びかけた。「シイカはどう思っているの?」
沈黙が流れ、もう答えは返ってこないのかと思った頃に、シイカの声が聞こえた。
「あなたの人生です。あなたが決めてください──」
声は急速に遠くなり、最後は掻き消えるようにして聞こえなくなった。
目覚めると、いつもと同じ朝だった。夏の間はいくらか寝苦しい夜もあったが、今は吹き込む風も心地いい。一年の間でももっとも過ごしやすい季節だ。
だが、セトの目覚めは軽やかとはいかなかった。もちろん、直前に見た夢のせいだ。
唱えれば「試練の放棄を宣言する」ことになるという短い言葉が、セトの頭の中にはっきりと残っている。
「まぼろしを打ち破る」もうひとつの言葉と、どちらを口にするのか。いずれにしても、重い決断になるだろう。セトはため息をついてから、寝台を降りた。