表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/40

竜の試練(一)

   三


 坂の上の一軒家へたどりつくと、道はそこで途切れていた。

 上り坂もここでいったん終わっている。家の周りは少し開けていて、奥の方には家畜小屋などもあるのかもしれない。ただ、その先はまた森に覆われているようだ。

 どこかの山の中腹にある村はずれ、といった風情である。

 一軒家は二階建てで、一階は倉庫、二階が住居となっているようだ。セトは二階へと続く階段を上った。

 入り口には木製の扉がはめられている。中に誰かいるかどうかは開けてみないと分からないが、家の造りなどを見ても朽ちているようなところもなく、生活感が感じられるので、人か、あるいは魔族が住んでいることは間違いないだろう。

 いずれにしても、ここで手がかりを得られなければ、坂を下りて別の民家を探さなければならないだろう。セトが空を見ると、木々の隙間に見える空の端がいくらか赤らんでいるのがわかった。夕刻なのだ。

 そもそも、今日はどこで眠ればいいんだ?食べるものは?セトは自分が身につけている服以外何ももっていないことに気がついてぞっとした。剣すら帯びていない。

 この家に住んでいるひとが親切なひとだったら、食べ物を分けてもらえるようにお願いしてみようか。薪割りの手伝いくらいはできるし・・・。そんなことを考えながら、セトは扉を開いた。

 中へ入ってみると室内は静まり返っていて、人の気配はなかった。奥の方にはいくつか小部屋もあるようだが、そこからも静けさしか漂ってはこない。

 ただ、入り口のそばにある台所にはこの数日以内に収穫されたのだろう新鮮な野菜がいくらかあり、さらには羽をむしられて下拵えされた鳥も編みかごに入れられている。かまどの火も燃えている。今いないだけで、誰かが住んでいることには間違いないだろう。

 ただ、セトからすれば今居てもらわなければ意味がないのだ。セトはここで誰かが戻ってくるのを待つか、それとも坂を下りて別の民家を探すか考えなければいけなかった。

 どちらにしてもここで立っていても仕方がない、とセトが踵を返そうとしたそのとき、扉の外から誰かの気配を感じた。階段をきしませながらゆっくりと上ってきている。

 そのときになってようやくセトは、誰もいない家に勝手に入り込んでいる自分は家の人間からみたら泥棒か何かに見えるんじゃないかということに思い至ったが、それは少々遅すぎる気付きだった。何しろ、家人と思われる人物がもう扉のすぐそこまで迫っているのだから。

 セトは仕方なく、せめて怪しまれないようにと自分から扉を開いて顔を出した。

 扉の外、階段の中程に、人間の女性がひとり立っている。背中の中程まで伸ばした髪が印象的だ。

 いきなり扉が開いたので、女性はやはり少々驚いたようだ。両手にそれぞれ水を張った桶を持っている。

「あの、僕は──」きょとんと見上げる女性に向かって口を開いたセトだったが、

「そんなところにいるなら、手伝いなさい。これ、重いんだから」と水桶を持った女性にぴしゃりと言われて、先を続けられなくなった。

 言われたとおりに女性から水桶をひとつ受け取って、また階段を上がって扉を開け、先に中にはいる。「そこに置いて」と女性の指示通りの場所へ水桶を置くと、続いて入ってきた女性がその隣にもう一つの水桶を置いた。

「さて」身軽になった女性は振り返ってセトをみた。先ほど、日の当たる中で見たときは長い髪が明るい翠色をしているように見えたが、室内で見るとセトと同じ黒髪だ。背丈はセトとそう変わらない。ただ、背筋がぴんと伸びていて姿勢がいいので、背が高く見える。年齢はよく分からないが、少なくともセトよりはだいぶ年上であるように見えた。

「どうしたの、こんなところで。まさか、つまみ食い?」

 愛らしさを感じる大きな目を幾分細めてこちらを見ている。やはり空き巣狙いの泥棒にでも見えたのだろうか。セトは事情を話そうとしたが、女性はさらに言葉を続けた。

「だめよ、夕食がおいしくなくなってしまうじゃない。今日はこれから、お母さんが得意料理を作るんだから。それまでめいっぱい、おなかを空かせておきなさいな」

 怒っているというより、子供を諭しているかのような言い方だ。

「え?あの──」

「遊んでこないのなら、裏でお父さんの手伝いでもしていらっしゃい。たぶん、薪を割っているから」

 セトが何か弁解する暇もなく、女性はセトの肩を遠慮なしにつかむと背中を向けさせ、そのまま扉の外へと押し出してしまった。

「日が暮れる頃には出来ると思うから。楽しみにしていてね」

 最後に笑顔でセトに向かって手を振ると、結局セトにはなにもしゃべらせないままに扉を閉めてしまった。

「???」

 セトはしばらくの間、ぽかんと口を開けて扉を眺めていたが、やがて目が覚めたように首を振った。

(何だったんだ、今のは?)

 まるで、自分があの女性の子供であるかのような扱いだった。だが、セトはあの女性のことは知らない。つい先ほどの少女のように、会ったことがあるのに思い出せないのではなく、全く見覚えがないのだ。あんな風に親しげに接される覚えはなかった。

 しばらく考えて、これは与えられた「試練」の一部なのかもしれない、という考えが浮かんだ。あの少女はこの試練に時間制限はないといっていた。とはいえ着の身着のまま放り出されただけでは、目的のものにたどり着くまえに倒れてしまうかもしれない。ひょっとして、この家を拠点にして少女が言っていた「まぼろしのもの」をさがせ、ということなのだろうか。

 いくらかこじつけに近い考え方のようにも思えたが、ほかに自分を納得させるだけの考えも思い浮かばない。

 そういえば、「裏にお父さんがいる」とも言っていた。その人に会って話を聞けば(さっきの女の人は一方的にしゃべるだけで、こちらが聞きたいことは全く聞けなかった)、もう少しはっきりした事情をつかめるかもしれない。

 「試練」のためにも、状況を理解するためにも、とにかく情報が足りないのだ。セトは「お父さん」に会ってみることにして、家の裏手に回った。


 家の裏手は、セトが想像したとおり、そこそこの広さの庭のような空間があり、その奥には小さいが家畜が飼われていそうな小屋もあった。

 そして庭の片隅で、女性の言っていたとおりに、薪割りをする男性の姿があった。陽が落ちかかっていることもあって今は風が涼しく、過ごしやすい陽気だが、薪割りの斧を振っていればそうはいかないのだろう。男性は上着を身につけておらず、よく鍛えられたたくましい肉体を外気にさらしていた。

 体つきは立派だが、背丈はセトよりも若干大きい程度だ。とにかく話を聞いてみよう、とセトは男性に近づいた。

 男性はこちらに背を向けた状態で薪を割っていたが、セトの気配に気がついたのか、動作を止め、こちらを振り返った。

 そしてセトの姿を認めると、身を完全に起こして声をかけてきた。

「よう、おまえか」軽い呼びかけだった。

 だが、その声を聞き、その顔を見た瞬間、セトは身の毛がよだつ感覚とともに、ずっとぼやけていた頭の一部が猛烈な勢いで記憶を取り戻すのを感じた。

 その男は無表情でこちらを見下ろしている。右手には剣が握られている。そしてその剣先は──自分の胸を貫いている。

 急速に色がついて鮮明になった自分の記憶。セトはすべてを思い出した。そして今、目の前にいるこの男は。

「フェイ・トスカ!」セトは叫んだ。そして、男に向かって一も二もなく駆けだしていた。

 何か考えがあっての行動ではない。何しろ武器も持っていないのだ。だが、とにかくこの男に向かっていかなければいけない、という切迫した使命感が記憶とともにあふれだして、セトは自分を制御できなくなっていた。

 男──フェイ・トスカは、自分に向かって敵意をむき出しにして駆けてくるセトを見て、驚いた表情を浮かべた。その手には薪割り用の斧が握られている。

 だが、フェイはその斧を邪魔にならないところにそっと置いた。

 そして、つかみかかろうとするセトの腕を自らの腕でからげて、そのままセト自身の力を使って反対側へ放り投げた。

 一瞬セトの体が浮き上がり、次には地面へと落とされる。

 だが、落ちたのは柔らかい下草の上だったので、セトは一瞬息が詰まっただけですぐに起きあがることが出来た。

 あわててもう一度フェイ・トスカに向き直ると、全く緊張感の伴わない顔でこちらを見ていた。

「なんだ急に。遊んでほしいのか?」

「なっ──」

 あまりに予想外の反応に、セトは二の句が継げなかった。

 目の前の男はフェイ・トスカだ。それは間違いない。だが雰囲気がまるで違う。自分たちの前に立ったときの不遜な態度や、初めてセトと視線を合わせたときの剣の切っ先のような冷たい視線とは似ても似つかない。

 その表情から、優しさを感じたのだ。

 セトは激しく戸惑い、動けなくなってしまった。背筋を冷たい汗が流れるのが分かった。

 どういうことだ?ひょっとして、この男が少女の言っていた「まぼろし」なのだろうか。

 セトは教えられた言葉を唱えてみたい誘惑に駆られたが、思いとどまった。まぼろしを打ち破る魔法を使えるのは一度きり、失敗したら目覚めることはない、という少女の言葉を思い出したからだ。

 セトが緊張を解くことが出来ず、かといって再びとびかかることも出来ないでいるのを、フェイ・トスカはすこし戸惑ったような──見方によっては心配しているようでもある──様子で見つめている。

 そこへ、セトの背後から声がかかった。

「あなたーっ」

 遠くへ呼びかけるようなその声を聞いて、セトはようやく体を動かすことが出来るようになった。振り返ると、先ほどの女性がこちらへ向かってゆっくりと歩いてくる。料理の最中だったのか、少し汚れの目立つ前掛けを身につけていた。

「シフォニア。どうした?」

 背後のフェイ・トスカが女性にそう声を返すのを聞いて、セトはまた衝撃を受けた。

 お父さんはフェイ、お母さんはシフォニア。

 それは、セトがグレンデルに一度だけ教えてもらった、自分の両親の名前だったはずだ。

 セトはまばたきすることも忘れて、女性を凝視した。顔立ちの整った美しい女性だ。大きめの瞳に少女らしい愛らしさを残しながら、大人の落ち着きがそこに違和感なく同居していた。背中に伸ばした黒髪は、やはり陽光に透けると明るい翠色に輝くようだ。

 だが、やはり見覚えはない。とはいえそれは当然のことともいえた。セトは母親の姿を覚えていないし、肖像画などを見たこともないのだから。

 シフォニア、とセトの母の名で呼ばれた女性はセトを追い越すと、フェイ・トスカの側まで行って立ち止まった。

「ねえフェイ、悪いのだけれど、下のタッカーさんのところへ行ってきてくださらない?私、ぶどう酒をお願いしていたのにもらってくるのを忘れてしまったの」

「今からか?」

「あなたが、今日はお酒なしでもいいというなら明日私が取りに行くけれど?」

「・・・すぐ行ってくるよ」

 フェイ・トスカとシフォニアは身体を寄せあってそんな会話をした後、頬がふれあう程度の軽いキスを交わした。

「じゃあ、セト。薪割りの残りは頼んだ」

 フェイ・トスカはこちらへ向かって無言で目を見開いているセトをみてちょっとだけ怪訝な顔をしたものの、そのことには特にふれずにそう言付けをして、さっさとその場を離れていった。

「セト、よろしくね。お母さんは夕飯の支度に戻るから」

 シフォニアはそう言いながらセトのそばを通り抜けようとして──突然ひょいと顔を近づけ、今し方フェイ・トスカと交わしたのと同じ、互いの頬をくっつけるような軽いキスをセトに見舞った。

 セトはびっくりして、思わず盛大に飛び退ってしまった。だがシフォニアはとくに気にした様子もなく、「変な子ね」と軽い笑いを浮かべて家の中に戻っていった。

 その場にはセトがひとり残された。セトはやっとのことで緊張を解いて、詰めていた息をおおきく吐きだした。

 あのふたりは、いったい何者だ?

 セトの頭の中で、疑問が渦を巻いている。あの男は確かにフェイ・トスカだった。直接会ったのは一度きりだが、忘れられるはずもなかった。ほんの少し前まで霞がかかったようにぼやけていた記憶はすっかり戻っている。自分の胸に剣を突き立てられている光景も、その剣を握っている男の顔も。

 だが、まとっている空気が違う。あの暗闇色に輝く鎧を身につけていないからだろうか。きっとそれだけではないはずだ。

 そして、あの、シフォニアと呼ばれた女性。シフォニアは母の名だ。そして彼女はセトに向かって自分のことを「お母さん」と言った。そしてセトに親しげに接してきた。

 彼女はセトの母親なのだろうか?

 セトが母親について知っていることは、シュテンでの別れの際にグレンデルに教えられたことがすべてだ。シフォニアという名前であること。王国の姫君で、たいそう美しかったこと。そして、戦争に敗れたことで命を落としたこと。

 そうだ。お母さんは死んでしまったんだ。

 それなら、あの女性が母親であるなどありえない。それに、お母さんはお姫様だったんだから、こんな森の中の小さな家に住んでいるはずはない。

 セトはそれで自分を納得させようとしたが、心のどこかがそれに反発していた。あの女性は美しかったし、歩く姿を見るだけでもきちっとしていて、どこか気品を感じさせる。

 セトは頭を振った。ちっとも考えがまとまらない。

 そもそも、ここがどこかもわからない。山の森だからか、セトの知っている森とは生えている樹木の種類なども違っているようだ。

 ひょっとして、この世界そのものが、魔法か何かでつくられたまぼろしの世界なのだろうか?

 それなら、答えは簡単だ。今すぐ教えられた言葉をつぶやけば、それで試練は終わりということになる。だが、その考えをすぐに実行に移すことは、やはりはばかられた。

 魔法を使えるのは一回だけ、という少女の言葉が思い出され──セトははっとした。

 あの空間にいた銀色の髪の少女。あれはシイカじゃないか。

 セトは魚の小骨のようにのどの奥に引っかかっていた少女のことをようやく思い出して安堵し、同時に愕然とした。いくら寝ぼけたような状態だったとはいえ、妹のことを忘れていたなんて。しかも、直接言葉を交わしても思い出せなかった。

 それにしても、どうしてあの場にシイカがいたのだろう?しかも向こうはセトを忘れていたわけではないのに、ずいぶん他人行儀な話し方だった。

 セトはもう一度会って話を聞きたいと思ったが、この森へ来てすぐにでてきた扉は消えてしまった。おそらく「試練」を無事に終えなければ会うことはできないだろう。

 そういえば、あの場にいたほかの人たち、ガンファやユーフーリン様、それにマーチは無事なのだろうか。あの場でのセトの記憶は、フェイ・トスカに剣を突き立てられたところで途切れている。

 顔を思い浮かべると会いたくなってくる。セトは魔法の言葉を口にしたい衝動に駆られて、何とか抑え込んだ。シイカ曰く、「失敗したら目覚めることはない」のだ。つまりみんなに会うこともできなくなるのだろう。

 この世界そのものがまぼろしなのか、あるいはセトの両親を名乗るあのふたりなのか、それとももっと別の何かなのか。決めつけてしまうにはまだ情報が足りないように感じられた。

 とにかく、もう少し様子を見よう。まぼろしがこの世界であるにしろ、あの両親であるにしろ、探っていけばきっとどこかでぼろが出るだろう。フェイ・トスカは警戒しなければいけないが。なにしろ自分を殺そうとした父なのだから。

 今後の方針が定まったところで、セトは辺りを見回した。考えごとをしている間にだいぶ陽も落ちてきて、空は端の方がだいぶ暗くなっている。

 そういえば、薪割りを頼まれていたのだ。フェイ・トスカに言われたことを、律儀にこなすのはなんだか変であるような気もしたが、あのふたりについて様子を見るなら言いつけは守っておいた方がいいだろう。それに、考えごとのせいで頭がもやもやしていて、とにかくすこし身体を動かしたい気分でもあった。

 フェイ・トスカが残していった薪材は、まだ結構な量が残っている。セトはさきほどまでフェイ・トスカが振るっていた斧を手に取ると、しばらく薪割りに集中することにした。


「セトったら、まだ薪を割っていたの!」

 背後から声をかけられて、セトは動きを止めた。

 手にしていた斧を薪割りの台にしていた切り株に突き立ててから振り返ると、角灯を手に女性が立っていた。シフォニアである。

 驚かれて初めて、セトはあたりがすっかり暗くなっていることに気がついた。

「もうご飯ですよ。お父さんも帰ってきているから、セトもおいで」

 シフォニアは優しい微笑みとともにそう告げると背中を向けた。セトは一瞬だけ迷ったが、結局それについて行くことにする。

 角灯を前にかざして先をいくシフォニアは、やはり背筋がぴんと伸びている。それに、草地を歩いているのに足音も静かだ。たとえば農業に従事している人間ではこういう歩き方はできない。マーチのように身体を鍛えているものは姿勢もいいし、森の中で静かに歩くこともできるが、それは技能として修得しているのであって、今目の前を歩いている女性のそれとは違う。この女性はいかにも自然に、滑るように歩くのだ。

 それがもとはお姫様だったからかどうかまではセトにはわからなかったが、ともかく今までセトが出会ったことのある、どんな種類の人間とも違っているように思えた。

 シフォニアとセトは家をぐるりと回って、正面の入り口から中に入った。家にはいる前に、シフォニアは持っていた角灯を入り口の扉の上に吊した。

「消さなくていいの?」セトの感覚では、灯りは貴重品だ。

「こうしておけば、夜中に魔物が寄ってこないのよ」シフォニアはそう答えた。「それに、これは魔法の灯りだから、風が吹いても消えないし、火事の心配もないのよ」

「へぇ・・・」セトは驚いて、改めて角灯をみた。魔法の灯りは街灯などにはよく使われているから、セトも灯りそのものは初めて見るわけではなかったが、こうして人が携帯できるようにしてあるものは初めてだった。確かに火を使うよりも安全だが、魔法使いはそんなにたくさんいるわけではないし、ろうそくを買うよりお金はかかりそうだが・・・。

「お父さんが魔法を使えるおかげで、灯りを使うのにお金の心配がいらなくて、うちはとても助かっているわ」

 そう言われて、セトはフェイ・トスカが魔法を使うということを思い出した。なるほど、自分で魔法を使えればお金はかからない。

 だが、フェイ・トスカが灯りをつけるために宝珠に魔力を込めている姿がセトには想像できなかった。


 扉を開けたシフォニアに続いて中にはいると、香ばしく焼けた肉のにおいがセトの鼻腔をくすぐった。

 そのにおいを嗅いだとたん、自分がとてもおなかを空かせていることに気づいたセトは、そのままふらふらとテーブルに向かおうとして、シフォニアに止められた。

「こら。まずは手を洗いなさい。薪割りで汗もかいたみたいだから、顔も洗っておいで」

 セトは言われるままに台所へ行き、水瓶の水で手と顔を洗った。そばにあった麻の手ぬぐいで濡れた顔と手を拭き、それから料理の並べられているテーブルへ向かおうと振り向いたが、足が止まってしまった。

 テーブルの一席に、フェイ・トスカがいたからである。

 フェイ・トスカがセトの「お父さん」である以上、当然のことではあるのだが、頭でそう考えただけで割り切れるものではない。

「どうした、セト」そのフェイ・トスカが声をかけた。

 その声は先ほど裏庭でセトに声をかけたときと同じ、セトに対して何の緊張も抱いていない声だった。セトはその声と、空腹の両方に背中を押されて席に着いた。隣にはシフォニア。フェイ・トスカは彼女の正面、つまりセトの斜め前に座っている。

「うわあ・・・」テーブルの上の光景を見たセトは、思わず驚きを声に出してしまった。

 テーブルには、三人分の料理がそれぞれ皿に盛られていた。メインディッシュは地鳥のロースト。きれいに切り分けられ、その上にセトがみたこともない、赤紫色のソースがかけられている。手前の深皿には、なにか穀物を似たお粥のようなものが盛られている。パンがないので、これが主食なのだろうか。テーブルの中央にはサラダがある。これだけは全員分まとめて一つのボウルに盛られている。

 セトからしたら、お祭りの時になら食べられるかも、というくらいに豪華な料理だ。今日は何か特別な日なのだろうか。だが、シフォニアとフェイ・トスカは平然としている。

「これ・・・本当に食べていいんですか?」セトは今にも大きな音を立てそうなおなかを手で押さえながら聞いた。

「もちろん」シフォニアは笑顔でうなずいた。「ちゃんとお祈りをしてからね」

「お祈り?」セトはオウム返しにそう言ったが、シフォニアは気にせず胸の前で両手をくみ、目を閉じた。みれば、フェイ・トスカも同じようにしている。セトはどうしたものかとふたりを見比べていたが、薄目をあけたシフォニアに見咎められて、あわててふたりに倣って手を組み、目を閉じた。

「神は天に(ましま)し、人は地にあり」フェイ・トスカの声が朗々と響いた。

「今日の平和に感謝を。一日の糧を得られたことにも感謝を。すべては神の御心のままに、願わくば我らを明日もお導きくださいますよう」

「お導きくださいますように」シフォニアがフェイ・トスカの後に続いてそう言ったので、セトも言った方がいいのかと、とにかく口をもごもごと動かした。

「さあ、食おう。今日の料理もうまそうだ」フェイ・トスカのその声とともに、静かな空気がまた動き出した。

 セトが目を開けると、フェイ・トスカもシフォニアも、とっくに組んでいた手を解いている。フェイ・トスカはぶどう酒の入った瓶を手に取ると、自分、シフォニア、そしてセトの順に素焼きのグラスへと注いだ。

「はい、かんぱーい」

 隣のシフォニアがグラスを持ってセトに寄ってきた。セトがグラスを手にすると、そこに少々強引にグラスを合わせる。さらに、フェイ・トスカもグラスを合わせてきた。乾いた音が立て続けにいくつか鳴る。

 ふたりがそのままグラスへと口を付けたので、セトも流れで口を付ける。ぶどう酒は水で割ってあるらしく、それほどアルコールになれていないセトでも飲みやすかった。

「いっぱい食べてね。今日は自信作なの」

 シフォニアに言われて料理を見ると、自然に口の中に唾がたまってきた。

 地鳥のローストをひと切れ摘んで口に入れる。皮はパリパリで、肉には肉汁がたっぷり含まれていた。ただでさえ肉を口にする機会が少ないセトにはそれだけでも十分なごちそうである。

 さらに、かかっているソースはセトが今まで味わったことがないものだった。なんと甘いのである。ただ甘いのではなくて、甘酸っぱい。この赤紫は何か果物を使っているのだろうか。甘さも酸っぱさも程良くて、肉の脂とよく絡んだ。

 セトはこれまで料理の味付けといえばしょっぱいか酸っぱいか知らなかった。甘いものは甘いものであって、それを肉にかけて食べるなんて考えたこともなかったのだ。

 夢中になって立て続けにもうふた切れ口に入れてしまう。それを見ていたシフォニアが「同じものばっかり食べていてはだめよ」と注意した。

 そこで、深皿に盛られた穀物粥をさじですくって口にすると、これも食べたことのないものだった。粥自体は病気の時などに食べたことがあるが、もっとどろどろしていた記憶がある。これは適度にとろりとしていて、しっかりと穀物の粒の感触があった。

「これは何ですか?」聞いてみた。

「お米のリゾットよ。セトはお米、食べたことなかったの?」

 食べたことはなかったが、シュテンにいた頃に教えてもらったことがある。ずっと東の方や、南の方ではパンよりもお米を主に食べる地方もある、と。

 サラダも、オイルをたっぷり使った──でもぜんぜん脂臭くない──ドレッシングがたっぷりかけられていて、とてもおいしかった。セトは目の前のふたりに対する警戒心などすっかり忘れ、夢中で食べた。リゾットはおかわりし、地鳥のローストはシフォニアのお皿に残っていた分を(そんなに気に入ったのなら、もっと食べる?といわれて)分けてもらってまで食べた。

 ボウルに残っていたサラダも全部平らげて、セトはお腹をさすりながらいすの背もたれに寄りかかった。

「ごちそうさまでした・・・」

「大丈夫?ちょっと食べ過ぎじゃない?」

 ちょっとどころではない。食べ過ぎだ。

「明日腹をこわしても知らないぞ」フェイ・トスカがからかうような口調でそう言ってきても、返答する気も起こらなかった。

 しばらくいすの上でお腹をさすっていたが、苦しいのが落ち着くと急速に眠くなってきた。そのままうとうとしていると、食事の後かたづけを終えたシフォニアが近づいてきた。

「ほら、セト。寝るのは自分の部屋でね。あなた!セトがまねするから、そこで寝ないで」

 食事が終わってからもずっとぶどう酒を飲んでいたフェイ・トスカも、セトの向かいでうとうとしていたのだった。


 セトは、奥にいくつかある小部屋のうち、自分の部屋がどれだかわからないので、寝ぼけているふりをして、シフォニアにつれていってもらった。

「はい、寝間着もここにおいておくから、ちゃんと着替えてから寝るのよ」

「はい・・・」

「まったく、今日はどうしたの?ずいぶん手間がかかるわね」

 シフォニアの言葉は不満げだが、実際の口調はそうでもない。表情などを見ると、どこか嬉しそうですらあった。

「少しくらい手間をかけさせてくれた方が、お母さんは嬉しいけど・・・」

 セトには聞こえるともなしにそうつぶやいた。

「おやすみなさい」

「はい、おやすみなさい」

 シフォニアは挨拶がすむと、セトの頬にまた軽くキスをしてから部屋を出ていった。

 セトは裏庭でされた時ほどには驚かなかった、というよりまたされるのかな、と少し覚悟していたので、飛び上がったりはしなかったが、それでもしばらくはドキドキと心拍があがるのを抑えられずにいた。

 ずっと母親がいなかったから、単にスキンシップになれていないということもあるだろう。だが、たとえば隠れ里で一緒に暮らしたマーチの母親、ソナタもよく抱きついてきたりしたが、そのときに感じたドキドキとも少し違うように思える。

 あの人が本当にお母さんだったなら──。

 そう考えそうになって、セトは思い切り首を振ってその考えを頭から追い出した。

 お母さんはもう死んでしまったんだ。だから、あの人はお母さんではない。誰かがそのふりをしているか、「試練」が見せているまぼろしなんだ。

 そう考えると、ようやく気持ちが落ち着いた。セトは用意された寝間着に着替え、寝台にその身を滑り込ませた。

 寝台はふかふかしていて、暖かかった。セトはほどなく眠りに落ちた。


 翌日、セトはものの見事に腹をこわした。

 フェイ・トスカは「そら見ろ」といってセトを容赦なく笑ったが、シフォニアが呼んだ医者の診断に寄れば、単なる食べ過ぎではなく、食あたりとのことだった。原因はローストにかかっていたソースで、使われていた野いちごに毒性のあるものが混ざっていたらしい。

 だが、フェイ・トスカとシフォニアは何ともないし、セトの症状もそこまでひどいものではなかったので、医者は一日安静にしていれば治るでしょうといって帰っていった。

 医者が帰ると、フェイ・トスカも「じゃあ、俺は仕事に行ってくる」と告げてさっさと出て行ってしまった。

 シフォニアはほとんどずっとセトのそばにいて、セトに水を飲ませてやったり汗を拭いてやったりと、かいがいしく世話をしている。

 セトは定期的にお腹を襲う鈍痛に苦しみながらも、不思議と安らぎを感じてもいた。

 セトはあまり病気をしたことがない。シュテンでの暮らしは貧しく、病気にかかるのだって結構な負担になるからだ。

 だが、それでもかかってしまったときは、グレンデルが面倒を見ている子供たちが、代わる代わるセトの世話を焼いてくれた。もちろん、ほかの子供が病気にかかれば、セトも世話を焼く方へと回る。

 最後にはセトとシイカのふたりだけだったグレンデルの孤児院も、多いときには十人ほどの子供がいるときもあった。そんなときは病気で寝込んでいるときも、どれだけ気をつけたところで、やはり騒がしくなってしまう。

 今、シフォニアはほとんど口を開かない。セトもしゃべらないが、シフォニアはまるでセトの気持ちが分かっているかのように、のどが渇けば水を飲ませてくれ、寝苦しくなれば汗を拭いてくれた。

 なにもなければ、ただ隣で座っているだけである。今もそうだ。だが、セトは昨日感じていたような警戒心を、この女性に対しては抱かなくなっていた。

 この人は本当のお母さんではない。でも、そうなのかもしれないと思わせるくらい、暖かさを感じている。

 初めて知る暖かさ。セトは戸惑いを感じながらも、この女性を少しずつ受け入れている自分を止めることができないでいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ