彼女の覚悟
一
フェイ・トスカたちが去った後、アニスの丘には悲痛な沈黙が残された。
自らの未来を勝ち得るために戦いを挑んだ少年──セトは、しかし無惨にも敗れ去った。
幅広の剣で胸部をひと突きにされたセトは、もはや物言わぬ骸となって草地に横たわっている。その傍らで後ろ手に縛られたままのマーチが涙を流していた。猿ぐつわをかまされているため声を上げることは出来ず、言葉にならない嗚咽がその隙間から漏れ出るばかりだ。
ガンファはそこからほど近いところで前かがみになっている。マーチ同様に縛られ猿ぐつわをかまされたシイカと、普段に近い初老の男性の姿となったユーフーリンが、今はセトから一番離れたところに立っていた。
ガンファが中途半端な姿勢をしているのは、フェイ・トスカが去る直前に飛びかかろうとしたところをユーフーリンの魔法によって抑え込まれたからだった。フェイ・トスカの姿が完全に見えなくなった今になって、ユーフーリンが魔法をとくと、ガンファはそのまま力無くひざを突いた。
ユーフーリンはどこからともなくナイフ取り出すと、まず隣に立っているシイカの縛めを解いてやった。解放されたシイカは詰めていたものを吐き出すように、ひとつ大きな息を吐いたものの、その場から動く気配はない。
ユーフーリンは無表情のまま動き、セトの傍らに座り込むマーチの縄と猿ぐつわもはずす。声を出せるようになっても、マーチはなにも言葉にできず、嗚咽とうめき声を出すばかりだった。
「なぜ、僕を、止めたのですか」
低く押し殺したような声が聞こえて、ユーフーリンが首を巡らすと、ガンファがユーフーリンをにらみつけていた。フェイ・トスカにぶつけられなかった怒りを、代わりにユーフーリンにぶつけようとばかりに歯を食いしばっている。
「あそこで襲いかかっても、返り討ちにあうだけだっただろう」
「それでもよかった!」ガンファは激昂した。「セトを守ってやれなかった。ならいっそ、一緒に死んだほうが・・・」
ひとつきりの大きな目玉から、大粒の涙があふれて落ちた。せめて死出の道行きをともにして、そこでもセトのそばにいてやれたらよかったのに。
その様子を見て、ユーフーリンはガンファに近づくと、腰を屈めてガンファと視線を同じくした。
「絶望するには、いささか早い」
「どういう・・・ことですか?」ガンファの視線が、かすかに上を向く。
「私は、セト君を救うすべはまだあると考えている」
「セトを、救う?」ユーフーリンの言葉に、マーチが反応した。「だって──だってセトは、もう、こんな、こんな風に・・・!」
マーチの前に横たわるセトは、目を見開いたまま絶命している。吐血と胸からの出血でユーフーリンが用意した真新しい服もすっかり血に染まっていた。
「落ち着きなさい。シイカ君、彼女を支えてやってくれ」
ユーフーリンに呼びかけられて、シイカは硬い表情のままでうなずき、マーチのそばへとやってきた。マーチはもうセトを直視できないのか、シイカに背中をさすられると、彼女の胸に顔を埋めてまた泣き始めた。
「セトを救うとは、どういうことですか?」ガンファが問うた。マーチに比べれば、まだしも落ち着いている。「彼の魂を清めて──」
死後安らかに眠れるようにすることか、という意味にとったガンファだが、ユーフーリンはそれを否定した。
「そうではないよ。フェイ・トスカの言葉を覚えているかな?」この後に及んでもまだいくらか余裕があるのか、ユーフーリンはもって回った言い回しを崩さない。
「魔王グローングさまについて、彼はインチキをしていると言っていた。どんな決定的な敗北も、一度に限ってはすべてご破算にする特別な加護を得ていたとね。つまり、その加護をセト君に適用できれば、彼の敗北、そして彼の死を無かったことに出来るというわけだ」
「特別な加護・・・」口に出してみても、ガンファはその言葉に実感をもてなかった。だいたい、その加護というものがどういったものなのかがわからなければ意味がない。すでにセトは倒れ、その魂は今にも飛び去ってしまうかもしれないのだ。
「心配するな。私はその加護がどういうものなのか知っている」ユーフーリンは胸を張った。「その加護とは・・・」
「『竜の加護』、ですね」答えを言ったのは、シイカだった。
「おじいちゃん・・・グレンデルが、グローングに与えた力」マーチの背中をさすってやりながら、思い詰めた表情をしている。
「どうして、シイカがそんなことを知って」驚いて声を上げたガンファを、ユーフーリンが遮った。
「やはり、そうなのか。シイカ君。──いや、シイカ殿」
探していた答えをついに見つけたとばかりに、ユーフーリンは手をたたいた。
「初めて会ったときから違和感を感じていたんだ。あなたの存在の不自然さにね。グレンデル殿があなたを連れてきたという話を聞いてもしやと思っていたのだが、あなたは人間ではなかった。あなたは──」
ユーフーリンはそこで言葉を切り、シイカを見つめた。その期待に満ちたまなざしに、観念したかのように、シイカは答えた。
「私は、竜です」
淡々と、しかしはっきりとそう口にした。
マーチが、シイカの胸から顔をあげた。涙と鼻水で、ひどい顔になっている。シイカは袖口でマーチの顔を拭いてやると、微笑みを向けた。
「本当よ、マーチ」
マーチの脳裏に、監禁房でのやりとりがよみがえる。自分が人間ではないと訴えるシイカは悲しげな表情をしていた。
だがいま、微笑みを浮かべているシイカの表情は、あのときよりもずっと悲しげであるように、マーチには見えたのだった。
「シイカ・・・」
ようやく嗚咽が収まったマーチはシイカから身体をはなした。
数日前にシイカの告白を聞いたとき、マーチは半信半疑だった。彼女は真摯に、真剣に語ってくれたから、全く嘘と思うことは出来なかったが、一方で自分をセトの元にとどまらせるために方便を使っているのだという気持ちも消えなかった。
だが、今この状況で、ユーフーリンの態度からしても、これが方便などであるはずはなかった。
目の前にいるこの可憐な少女は、人間ではないのだ。
マーチの戸惑いが伝わってくる。シイカは束の間目を伏せた後、ユーフーリンへと向きなおった。
「でも、今の私には何の力もありません。おじいちゃんが封印してしまいましたから」
「グレンデルが?」
「はい。おじいちゃんは、神が定めたルールに従って、自分の後継者である存在──私のことを探し出しました。だけど、私に力を使わせたくないとも思っていたようです。もう伝説を繰り返す必要はない、おまえは人として生きよ。そう言って、おじいちゃんは私の本当の姿と能力を、石に封じました」
「ルール?伝説?」話についていけないマーチが不満げに声をあげた。
「神様は、すべての生き物の中でも飛び抜けて長い寿命をもち、なおかつ力も強いわたしたち竜の一族から、一世代にひとりを選んで、特別な使命を与えるの。人間と魔族の中から、『魔王』と『勇者』を選び出すという使命を」
さらに説明を続けようとするシイカを、ユーフーリンが遮った。
「そして、選び出したものに『竜の加護』を与えるというわけだ。・・・私もすべてを知っているわけではないから、あなたの話は大変興味深いが、今はゆっくり聞いている時間はない。重要なことは、あなたの封印を解き、ここで眠る少年を勇者とすることができれば、『竜の加護』によって彼は息を吹き返す。この解釈に間違いはないか?ということだ」ユーフーリンはそう言うと、人差し指を一本たてた格好でシイカの返答を待った。ガンファとマーチも、固唾をのんでシイカを見つめる。
「間違ってはいません」やがて、シイカは肯定の言葉を返した。
それを聞いてガンファやマーチの瞳には希望の灯りがともった。細かいことはともかく、セトが助かる道筋はあるということだからだ。だが、シイカは思い詰めたように下を向いたままだった。
「ふむ。問題があるのかな?」
「たくさん、あります」シイカは誰にも目を合わせず、下を向いたまま答える。「まず、私の封印を解く方法も、封印されている場所も、おじいちゃんしか知りませんでした。今ではもう、知る手段はありません。仮に、私の封印が解けたとしても、当然、セトが必ず勇者になれるとは限りません。それに・・・」シイカはほんのわずかに口ごもった後、言葉を続けた。「そうまでして生き返ったとして、セトは幸せでしょうか」
「シイカ・・・」
「なにを言うの、シイカ」
ガンファは悲しげに声をかけただけだったが、マーチはいくらか怒ったような声でそう言った後、シイカの手を取ってこちらを向かせた。
「じゃあシイカは、このままセトがここで死んでしまったほうが、いいっていうの?」
「『竜の加護』を得ることができれば、セトは確かに生き返ることができる。でも、そうすればセトはこの先勇者として、戦いに身を投じることを強制されるわ。たとえフェイ・トスカを止めることに成功したとしても。あの穏やかで心優しいセトが、そんな生き方を望んでいるはずがない」シイカにそう言い返されて、マーチは言葉に詰まってしまった。
たしかに、セトに戦いはあまり似合わない。才能がないわけではなく、むしろ剣術などはこの先も修行を続ければひとかどの存在になり得ると思わせるところもある。だが、マーチの脳裏に浮かぶセトは、懸命に剣を振っているときなどよりも、アンプたちと一緒に森へ入って薬草を採っているときや、訓練場でラグスの世話をしてやっているときのほうがよほどいきいきと魅力的に見えていたのだ。
だが、だからといってセトがこのままでいいなんて、マーチにはとても思えなかった。
なんとかしてシイカを納得させたいが、必死で頭を回転させてもいい言葉が浮かんでこない。もどかしさのあまり、マーチは地団駄を踏んだ
。
代わりに、ガンファが口を開いた。「シイカ。セトは、戦いを嫌っているわけじゃない」ガンファはセトの傍らに腰を下ろした。今はその身に宿るものがないセトが目を見開いたままだったので、そっとその瞼をおろしてやる。「セトは、たくさん悩んで、失敗して、後悔して──。それでも、ここへ来たんだ。戦うために」
「彼は生きたがっていた」ユーフーリンも同調する。「彼は自分を生かすために多くの力や命が使われたことで、自分にそこまでの価値があるのかと思い悩んでいた。だが、だからこそ、自分は生きなければいけないと思うに至ったようだ。彼は目の前の戦いに立ち向かう覚悟を決めた。それがどんなに困難なものだとしても。──ああ、そうそう」突然ユーフーリンはいたずらっぽい目つきでマーチをみた。「彼は無事、全員生き延びたなら、君に結婚を申し込むといっていたぞ」
「うえっ!?」突然そんなことをいわれて、マーチは素っ頓狂な声をあげた。こんな時だというのに、顔が熱くなるのを止められない。
「──ああ、いや、そこまでは言っていなかったかもしれん」ユーフーリンはそう言うと、その姿を馬のそれへと変貌させ、ひひんといなないた。からかわれたとわかったマーチは憤慨したが、それよりもシイカを説得することが重要だと思い直して、ユーフーリンを無視した。
「ね、シイカ。セトはこんなところで死んでもいいなんて思っていない。それに、あの馬(その一瞬だけ、ユーフーリンをじと目でにらんだ)はどうだか知らないけれど、あたしも、・・・ガンファも、セトには生きていてほしいって思ってる」マーチは、自分を見ようとしないシイカの顔の正面に強引に身体を入れて、目を合わせた。「シイカはどうなの?」
「私は・・・」シイカの目が一瞬だけ答えを探すように動いたが、すぐにまた伏せられてしまった。「私は、中立でなければいけないの。『竜の加護』を与える立場のものとして──」
シイカの言葉を遮って、ぱしんと乾いた音が丘に響いた。
マーチが、シイカの頬を張ったのだ。
「しっかりしてよ、シイカ」マーチは力強くシイカの両肩をつかむと、彼女に訴えた。「あなたは、セトの妹なんでしょ?」
マーチは今ここへきて、シイカがセトに対して向けていた、どこかよそよそしさを残した態度の理由を理解していた。シイカは自分の正体を知っているが故に、心をすべてセトに預けきることができなかったのだ。
だがそれは、シイカがセトを愛していなかったということではない。むしろ逆だ。彼に好意を抱き、信頼に足る存在だと感じていたからこそ、依存しすぎることがないように意識して距離を置いていたのだ。
マーチは確信していた。シイカもまた自分と同じように、セトに生きていてほしい、そばにいてほしいと願っているのだと。
「私は──」シイカはまだ迷っている。自分の想いを口にすることが、果たして許されることなのか。
それを後押ししたのは、ユーフーリンだった。いつの間にか人の姿に戻っている──もちろん、先ほどとは異なる姿ではあるが。
「『竜の加護』を与えるものは中立・・・か。少なくとも、あなたの先代にあたるグレンデル殿は、そんなことはなかったよ」
シイカは意外そうに顔を上げた。
「むしろ、情にほだされやすい性格でね。頭を下げて頼まれれば、なんでも引き受けてしまうようなところがあった。私は友人として、時にはきっぱり断ることも必要だと、一度ならず忠告したことがあるよ」
ユーフーリンは袖口を口に当て、懐かしそうに含み笑いを漏らした。
「グレンデル殿はセト君に、穏やかで安らぎにあふれた暮らしを送ってほしいと願っていただろう。だが同時に、それが難しいことであることもある程度予見していたのかもしれないね」そう言って、またシイカを見る。「あなたを見つけだし、側に置いていたことがその証だ。単に自分の代で『伝説』とやらを終わらせたいだけであれば、あなたを捜さなければいいだけの話だ」
「でも、私の力は封印されているんです」シイカはむきになって反論した。「たとえ私がセトに勇者の資質を見いだしていても、彼を救いたいと思っていても──」思わずそこまで口に出してしまい、しまったとばかりに口を押さえた。
「これで問題は単純になった」ユーフーリンはシイカの言葉を歓迎するように両手を広げた。「今ここにいるものはすべて、セト君を救いたいと考えている。そして彼自身もまた、この死を受け入れられずにいるはずだとね。となれば、あとはシイカ君の力へ施された封印をどうにかすればいい」
ユーフーリンがまるでもうすべての問題がクリアになったかのように晴れ晴れとした表情をしているのを、シイカは不思議に思っていた。それこそが一番の問題であるはずなのに。
怪訝な表情のシイカを見てその疑問を察したのか、ユーフーリンは底意地の悪さを感じさせる笑みを浮かべた。
「実は、それについてはたぶん、私が何とかできるとおもっている」
「それはどういう──」
シイカの言葉には直接応えず、ユーフーリンはセトの亡骸のそばにたった。そしておもむろに腰を曲げると、手を伸ばしてセトの上着のボタン──フェイ・トスカに受けた傷口のすぐ上──をはずし、まさぐった。
そして拾い上げたのは、首飾りだった。セトがグレンデルより渡された、美しい竜の彫刻の首飾り。
しかし今はフェイ・トスカの一撃を受けた際に鎖がちぎれている上、セトの流した血によって汚れ、頂点に近い太陽から光を受けても何の輝きも示さずにいた。
「今日ここへ向かう獣車の中で、セト君がさも大事そうに取り出して眺めているのを、気づかぬ振りして横目で見ていた。これは首飾りそのものはたいしたものじゃない。ちょっと手が込んでいるくらいのものだ」ユーフーリンは悪びれもせず、サンクリーク王家に代々伝わる首飾りを一刀両断した。「重要なのは、ここに嵌められた宝石だ」
そう言うと、やはり血で汚れてしまった宝石を指で拭った。深緑色の宝石がそこから顔を出す。
「この石はグレンデル殿があとから嵌めたのだろう。厳重にコーティングされているから彼の服の下にあるときはわからなかったが、中に魔力が収められている。しかも・・・そうだな。かなり強力だ。これは間違いないだろう。シイカ殿、あなたの力はこの石の中に眠っています」
直接手にしたことで確信を得たらしいユーフーリンはきっぱりと言い切った。
「こいつの封印を解けば、あなたは本来の姿と力を取り戻すことでしょう」
「でも、封印を解く鍵は?」マーチが疑問を投げかけたが、ユーフーリンの堂々とした態度は揺るぎなかった。
「そんなものは、必要ない」
「まさか、強引に解放するんですか?」シイカの声が、驚きにふるえた。「おじいちゃんの・・・竜がかけた封印を?」
「私をバカにしてもらっては困る。私は魔族の歴史にその名を刻まれるであろう天才魔法使いだ!」ユーフーリンはそう言うと姿をゆがませた。ぐねぐねと曲がりくねった魔法の杖を手にもち、幅広のつばにてっぺんが折れ曲がった三角帽をかぶったしわがれた老婆の姿になった。おとぎ話に出てくる典型的な魔法使いの老婆の格好である。
「私に解けぬ封印はない。一〇〇〇年の時を越えて他者の進入を拒んできた王家の墓の封印から、とても手ではあけられないほど固くしまったジャムの瓶のふたまで、いかなる封印もたちどころに破ってきたのだからな」
ユーフーリンは魔女らしくキッキッといやらしい笑い声をたてた後、笑みを引っ込めてシイカに告げた。
「あとはあなたの覚悟しだいだ。あなたが人の姿を捨てられぬというならば、私もこれ以上無理強いはしない。──さて、どうする?」
「わかりました」意外にも、シイカはほとんど間をおかずに返事をした。「セトが覚悟を決めていたというなら、私も覚悟を決めます」
「シイカ・・・」マーチがそっと、シイカの手を握った。シイカの覚悟とは、すなわち人であることを捨てる覚悟、ということなのだろう。
「だけど、仮にユーフーリン様が封印を破ることに成功し、私が本来の力を取り戻したとしても、それでかならずセトが助かる、というわけではありません」
「ふむ?」
「『竜の加護』を得て、勇者となるために・・・セトには、試練を受けてもらうことになります」
「竜の試練、というわけか。だがそれは、死んでいても受けられるものなのかね?」
「試練を受けるのは精神体です。肉体の状況は関係ありません」
「それならば、不利はないということだな」ユーフーリンが言うと、ガンファがうなずいた。
「セトは、きっと、大丈夫です」
「そうだよ。きっと大丈夫」マーチも少し無理をして、笑顔になった。「だからシイカも、心配しないで」
「よし。ではここで、私の見せ場だ」ユーフーリンはセトのそばを離れ、全員から距離をとった。
「封印を解こう。危ないから近づかないように」
そう言いつけると、右の手のひらの上に首飾りを置いて、精神を集中し始めた。
「強引に封印を解くなんて、本当にできるの?」マーチが不安げに声をあげたが、ユーフーリンはもう聞こえていないようだった。
しばらくはなにも起こらない。
草原の気候はからりとしていて、ときおり吹き抜ける風が心地よい。つい先ほどまで太陽が出ていることさえ気にかける余裕がなかったことに、マーチはようやく気がついた。
ユーフーリンは微動だにしない。その手の上の首飾りも同様だ。
「やっぱり──」はったりだったんじゃないのか、そう言おうとしたそのとき。
突如、首飾りが──正確にはそこに嵌め込まれた宝石が、強烈な光を発しだした。
光っているのは宝石ばかりではない。いまやユーフーリン自体が発光し、目を開いているのもつらいほどの光が洪水のように押し寄せてくる。
それでもなんとか薄く目を見開いて様子を見ると、ユーフーリンの姿が絶え間なく歪み、幾度もその容貌を変えているのがかろうじて見えた。
「ぬぬぬぬぬぬ!」ユーフーリンの食いしばった口からくぐもった叫びが漏れ聞こえる。
ユーフーリンの姿は、ひと呼吸の間に幾度も変わり、もはや歪む間もないほどだった。様々な人間の姿、マーチは見たこともないような異形の怪物たち。
その変わりようには法則もなにもないように見えたが、やがて人間の姿をとることはなくなった。魔族の姿を立て続けにいくつも見せた後、最後に再び人間の姿になった。金髪碧眼の、少年といっていい若い男性。
それを最後に、ユーフーリンの姿は完全に光に包まれた。光は集まって珠のようになり、ついには爆発するかのように四散した。
「上手く、いったの?」マーチは目をこすりながら誰にともなくそう言った。最後の方は光が強すぎてほとんど目を開けていられなかったし、たとえ開けていられたとしてもどうなったのかマーチには理解できなかっただろう。
最初にユーフーリンが立っていた方を見たが、ユーフーリンらしき人物の姿は見あたらなかった。
隣にたっているシイカを見やると、シイカは上空を見上げている。
マーチもそれに習って見上げると、太陽とは違う光の固まりがひとつ、中空に浮いているのが見えた。
光はすこしずつ、大きくなっている──違う。大きくなっているのではなく、近づいてきているのだ。
シイカが歩きだした。マーチがついていこうとすると、シイカはこちらを向いて仕草でそれを押しとどめた。
何も言われなかったが、何を言いたいのかはわかってしまった。
あの光を受ければ、シイカは人でなくなってしまうのだろう。
「シイカ!」マーチはその名を呼んだが、無理についていくことはしなかった。
シイカはマーチの声を聞くと、一瞬だけ微笑んで見せた。
やがてある一点にたどりつくと、シイカは立ち止まり、再び空を見上げた。光はゆっくりと、しかし着実に降りてきていて、その光は人ひとりをすっぽり覆ってしまうほどの大きさであることがわかった。
シイカが光に向けて、細くたおやかな右手を伸ばす。
光に右手が触れた。
光はシイカの右手から右腕を伝って、やがてシイカの全身をそっと包んでいく。
シイカの全身が光に包まれると、すぐに変化が始まった。光が膨張し始めたのだ。
はじめマーチの身長よりも小さかったシイカの光は、すぐにマーチよりも大きくなり、やがてガンファよりも巨大になった。最終的に一〇ログ(約七メートル)ほどの高さまで膨れ上がると、光は吸い込まれるようにして消えていった。
そこに現れたのは、どっしりとした重量感のある竜。全身を鱗に覆われ、トカゲのようなしっぽを生やし、背中には巨大な翼、ぎょろりとした巨大な眼球と、口からのぞく鋭い牙からは、か弱い少女にすぎなかったシイカの面影を感じることはできない。
ただひとつ、体表を覆う銀色の鱗だけが、少女シイカの透き通った銀の髪と銀の瞳を思い出させた。
シルバー・ドラゴン、シイカは本来の己の姿となって、今このアニスの丘に降り立ったのだった。