勇者の戦い
二
フェイ・トスカは、自身の身長の五倍はあると思われる巨大な扉の前に立っていた。この先には、魔王が待ち受けているはずだ。
だが、扉は魔法の結界で固く守護されており、このままではフェイには触れることもできない。
フェイは一度扉の脇へ行き、獅子と犬を掛け合わせたような石像の、そのくぼんだ左目の部分に、先ほどイェンゲを倒して手に入れた青い宝珠をはめ込んだ。右目にも同じように敵を倒して手に入れた赤い宝珠がはめ込んであり、二つの宝珠の力で扉の結界が消え、解錠される仕組みになっていた。
フェイは再び、扉に向き直った。
巨大な扉にふさわしい大きな取っ手はフェイの頭の遙か上に取り付けられており、フェイはどうやって開けたものかとしばらく悩んだが、近づいてみるとフェイの手が届くところにも小さな取っ手が取り付けられていた。魔族の大きさは様々であるため、彼らなりに工夫した結果ではあるが、フェイには決戦前の緊張もあってそこまで考える余裕はなかった。ひとつ大きく息をつくと、意を決して取っ手に手をかけ、力一杯引いた。
きしむ音をあたりに響かせながら扉が開いていく。ある程度開くと、あとはフェイが手を添えなくても勝手に開いていき、やがて扉は全開になった。
扉の中は、これまでにもまして広い空間になっていた。扉と同様、室内の高さと奥行きも一般的な広間の五倍はあるように思われた。
また、これまで進んできた魔王城内は窓が少なく、全体的に薄暗く感じられたが、この広間は一転して大きな窓が壁に整然と取り付けられており、屋外にいるかのような明るさを感じた。たいまつは必要なかった。
フェイにしてみれば、自分の知っているもっとも大きな広間はサンクリーク王城で公式行事が行われる謁見の間であったが、広さでいえばここは比べものにならない。
ただし、人間の城のような凝った内装はなかった。床にはカーペットの一枚もなく、石造りの白い床面がむき出しになっていた。高い天井を支えている柱にも、彫刻の一つも施されていなかった。
慎重にあたりをうかがいながらフェイが室内を進むと、やがて先ほど開いた扉がひとりでに閉まった。だがフェイはそれには反応しなかった。正面に、彼が目指してきた目標があるのを見つけたからだ。
広間の一番奥に設置された玉座に、魔王がどっかりと腰を下ろしていた。
広大だが殺風景な広間の中で、唯一の調度品と言っていい玉座に腰掛けている魔王は、扉の巨大さからフェイが想像していたほどには大きくなかった。先ほど倒したイェンゲよりは小さい。それでもフェイの身長よりはよほど大きく、およそ五ログ(約三・五メートル)ほどはありそうだった。
魔王は二本の腕と二本の足があり、体型だけを見ればどうしようもなく太った人間のように見えなくもなかった。しかしその肌の色はは虫類のような灰色がかった緑色をしていた。
さらにフェイが近づいて魔王の細部が見えるようになると、それは人間とは似ても似つかない、おどろおどろしい生き物であることがはっきりした。
なにしろ頭には鬼の角が、背中には悪魔の羽が生えている。そのうえ目玉は四つ。口は耳まで裂け、その隙間から蛇のように細長い舌が不気味にうごめいているのが見えるのだ。
さらに身体は右半分が鱗に覆われ、左半分は獣毛に覆われていた。フェイの胴体ほどの太さがある腕のうち、右腕の先は全体が硬化した鉤爪のようになっており、引っかかれれば鋼鉄の鎧でさえあっけなく引き裂かれるのではないかと感じた。
魔王は泰然として玉座に深く腰掛けたまま、近づいてくるフェイを見据えていたが、フェイが剣を抜いて飛びかかれば魔王に届くという間合いの一歩手前で、ゆっくりと身を起こした。フェイは殺気を感じたわけではなかったが、用心して歩みを止めた。
「よくぞここまで来たな、勇者よ・・・」
魔王の声は低く、重く響いた。並の胆力の持ち主ではその声を聞いただけで戦意を喪失しかねない迫力があった。だがもちろん、フェイはその程度では動揺しない。
「魔王グローング」
フェイは魔王の名を、精一杯の憎しみを込めて呼んだ。王女を誘拐し、その可憐な身体に苦痛と恐怖を刻んだ。三千年の平和を謳歌していた民をも恐怖させ、その平和を危うくした。
フェイの怒りはこれ以上ないほど真っ当で、純然なものであった。彼は心の底から騎士であり、また勇者であった。
「貴様を護るものはもういない。主だった配下はすべて倒し、貴様の領土は、もはやこの魔王城のこの広間のみ!さあ、武器を取れ魔王よ。貴様も一国一城の主ならば、最後は潔く戦って散れ!」
フェイは高らかに口上を述べると、腰の長剣を抜きはなった。すらりと伸びた両刃の刀身が、窓から射す光を受けて輝いた。
「まぁ、そう急くな」魔王はそれでも泰然とした態度を崩さず、口の端をつり上げて──笑ったのかもしれない──そう言った。
「せっかく長旅の末にここまで辿り着いたのだから、少し話をしようではないか。もっともお前が片端から部下を殺してしまったから、茶を運ぶものすらおらんがな」
「貴様と話すことなどない」魔王の軽口にも、フェイは顔色一つ変えない。
「ふん、まぁそう言うな、勇者よ・・・。わしは感心しておるのだ。わしの部下はお前に大勢殺され、さらった王女は奪い返された。ただ一人の人間にここまでできるとは正直思わなんだ。この城内でお前に殺されてひっくり返っているわしの元部下なんぞより、余程優秀というものだ」
フェイの眉がぴくりと動いたのは、魔王に評価されていることに驚いたのではなく、魔王が自身の配下をこけにするような言い方をしたことに怒りを感じたからだった。魔王はそのことに気づいているのかいないのか、わずかに身を乗り出すようにして続けた。
「どうだ、わしの配下にならんか?おまえがわしの元へとくれば、この世界は瞬く間に我が手の内に収まるであろう。その暁には、お前に世界の半分をくれてやってもよい・・・」
「貴様・・・ふざけるな!」
怒りが臨界に達し、フェイは吼えた。これ以上の暴言は許さぬとばかり、両手で剣を構えて魔王へと突進する。
魔王は表情を変えないまま、玉座から腰を上げた。
「ふん、ではすこし相手をしてやるとするか」
最後の戦いが始まった。
フェイは右手側に剣をたてたままの構えで、わき目もふらずに突進した。怒りにまかせた突進で工夫があるようには見えず、魔王はつまらなさそうに右手を振って、硬化した鉤爪でフェイをはじきとばそうとした。
だが鉤爪がフェイをとらえる寸前、フェイの姿は魔王の眼前から消え、鉤爪は虚空を薙いだ。
魔王が再びフェイの姿を視界にとらえたとき、フェイは魔王の右側面で体勢を低くし、下段に構えた剣を今まさに振り抜こうとしていた。イェンゲにとどめを刺したときと同じように。
これは魔法であった。ただし、瞬間移動をしたわけではなく、瞬間的に自らの筋力を増大し、驚異的なスピードを得る技である。フェイは絶妙のタイミングでこの技を使ったため、相手からは姿を消したように見えたのだ。当然肉体的な負荷は大きく、多用すれば筋肉痛ではすまない。何度も使える技ではなく、フェイは魔王が油断しているのをみて勝負をかけたのだった。
魔王の顔が驚きにゆがんだように見え──顔の作りが違うので、はっきりとそうわかったわけではない──、フェイはかすかな興奮と喜悦とともに剣を振り抜こうとした。が、魔王のわき腹を覆っていた鱗は予想以上に堅固で、フェイが手にする以前から数多くの魔族を屠り「破邪の剣」と呼ばれる伝説の剣でさえ、刃が通らなかった。
フェイは少なからず衝撃を受けたものの、動揺している暇はない。相手がまだ体勢を崩しているうちに、素早く飛び退いて間合いを取った。
「なかなか素早いな」魔王の表情は平静に戻ってしまった。「だが非力だ」
奇襲は失敗に終わったが、フェイの戦意はかけらも挫けてはいなかった。鱗が固くて刃が通らないなら、鱗のないところを斬ればいい。魔王の身体の左側は鱗はなく、獣毛が覆っている。しかしその毛も固そうで、ひょっとしたら同様の防御力があるかもしれない。できれば鱗にも獣毛にも覆われていない、むき出しの部分を攻撃したい。
破邪の剣はただ鋭いが故に伝説の剣と呼ばれているわけではない。その刃によって傷つけられたものは、その身のうちにある邪な心を直接斬りつけられ、砕かれてしまう。邪な心が強ければ強いほどダメージも大きく、異世界侵略をたくらむ魔王ともなれば、かすり傷でも効果は絶大になるはずであった。
剣で致命傷を与える必要はない。心を砕き、動きを止めれば、後はどうとでもなる。フェイの勝算のひとつであった。
「さて、攻守交替だ・・・」
改めてフェイと正対した魔王はわずかに身を屈めると、右足で地を蹴った。一本一本がフェイの身体ほどもある巨大な足は、魔法など使わなくとも驚異的な速度を魔王に与えた。
どちらかと言えば丸型の巨体からは想像できないスピードでフェイに迫る。一気に距離を詰めながら、右手の鉤爪を突き出してきた。
強烈な圧力に思わず後ろに飛び退きそうになりながらも、フェイは踏みとどまった。頭に着けた「勇気のかぶと」は、困難や恐怖に立ち向かう勇気を授けてくれると言われる伝説のかぶとで、かつては悪政を繰り返す暴君を討ち果たした、革命の指導者が身につけていたという。
そのかぶとから力をもらいながら、フェイは左腕につけた盾を構えた。鉤爪を盾で受け、その圧力がフェイの身体に伝わる前に、円を描くように動いて力を逃がす。
さすがに全ては逃がしきれず、その場からはじき飛ばされたものの、攻撃を受けた位置から五歩ほど飛んだところで倒れることなく体勢を整えることに成功する。対して魔王はといえば、勢いを殺しきれずに柱の一つに突っ込み、もうもうと白い煙を立ち上げていた。
砕けた柱から身を起こした魔王は、四つの目玉をぎょろりと見開いてフェイを見据えると、大きく裂けた口を開けた。笑っているのだと、はっきりわかった。
「なかなか良いな・・・。見せてみろ、どこまでやれるのか!」
再び魔王が猛進する。鉤爪を大げさに振りあげると、フェイを、というよりもその立っていた床をねらってたたきつけた。無論、フェイごと巻き込む算段だ。
フェイは大振りの一撃の軌道をかいくぐって近づこうとしたが、そこへ魔王の左手が飛んできた。こちらは鉤爪状になっておらず、人の手同様の五指が、フェイを捕まえようとする。
そうなったら勝ち目はない。フェイはとっさに口中で呪文を唱え、強化された筋力で強引に逆方向へ飛んだ。指先が顔をかすめる距離でかわし、間合いを取ってから魔法を解く。
大腿からきしむような痛みを感じる。まだ動きに影響はないが、この技はもう一度使えるかどうか、といったところだ。
ほんの一瞬、状態を確認するために動きを止めたところへ、巨大な火球が飛んできた。魔法の技か、魔王が直接吐き出したものか。いずれにしても避けようがなく、フェイは盾をかざした。
火球の直径は盾よりも余程大きかったが、盾から生み出される光の幕がフェイの身体を覆うように展開し、鉄をもたやすく溶かす高熱からフェイを守った。炎だろうが吹雪だろうが、かつて火を吹く暴れ竜を鎮めた勇者が身につけていたというこの伝説の盾の前には無力だ。
魔王はフェイを休ませない。炎の余韻が消えぬうちに、再びフェイに向かって飛びかかった。また鉤爪による攻撃だ。
フェイは冷静に軌道を見切ると、くぐるのではなく飛び上がった。左手を鉤爪の上に置き、勢いをつけて身を翻すと、魔王の頭を飛び越えて背後へ着地する。
一瞬だけ目線を動かして魔王の弱点を探る。鱗にも獣毛にも覆われていない部分──魔王の翼だ。
「いぃやぁっ!」
裂帛の気合いを込めて剣を振るう。しかし魔王はフェイの動きに気づいたのか、身を屈めるようにして翼の位置を引き上げ、これをかわした。節の部分にかすったような感触はあったものの、刃が通ったかどうかは確認できない。
もくろみがはずれたフェイは今度は獣毛に覆われている魔王の左大腿部分を狙って斬りつけたものの、こちらは刃が通らなかった。そこへ魔王が強引に後ろ蹴りを見舞う。フェイはなんとか盾をかざして直撃は防いだものの、勢いを殺すことはできずに十数ログ飛ばされて、石床の上を転がった。
「惜しかったなぁ」
身を起こしたフェイに向かって魔王が声をかける。まだまだ余裕綽綽といった態度は崩れない。
しかし、フェイは希望を感じていた。翼を狙ったとき、魔王は明らかに身をかわす動作をとった。つまり翼ならば傷を付けられるということであり、魔王にとってダメージになりうる、ということだからだ。
背後に回るのはそう簡単なことではないが、なにも弱点は翼だけとは限らない。とにかく鱗と獣毛に覆われていない箇所を見つけだして斬りつければいいのだ。
魔王は無傷だが、フェイもさしたる怪我は負っておらず、疲労もほとんどない。動き回って隙をつけば、必ずチャンスがある。フェイは剣を握りなおし、再び魔王へ向かっていった。
それから何手か、同じような一進一退の攻防が続いた。魔王は右手の鉤爪を振るい、時には口から炎をはいてフェイとの間合いを保ち、隙があれば空いた手でフェイを捕獲しようともくろむ。対してフェイは慎重に相手の出方をうかがいながら、たびたび攻撃をかいくぐって魔王に接近した。しかし、効果的な一撃を与えるには至らない。
互いに動き続けながらも、戦況は膠着状態といって良かった。持久戦になれば身体の小さなフェイの方が不利と思われたが、ここまでフェイの動きが落ちる兆しはなかった。
それは身につけた鎧の力も大きい。魔王討伐にあたり、サンクリーク国王から直々に下賜された白銀の鎧は、内布に魔力を帯びた癒しの方術陣が縫いつけてあり、装備者の疲労を取り去る効果があった。古文書に記されている歴代の勇者も身につけていたといわれる伝説の鎧だ。
王女の行方を探して旅を続けるさなかに見つけた盾・かぶと・剣も含めて、伝説の装備の助けを借りながら、フェイは辛抱強く好機を待つことができた。
対して魔王は、細かく動き回る相手を思うように捕まえることができず、次第に苛立ちを溜めていった。背中に弱点があると教えてやったのに、そこを狙ってくるような動きもそれきりみられない。自分を倒しにきたと豪語しておきながら、なかなか攻勢にでようとしないフェイの戦術も、魔王の苛立ちを深めていた。
「ふん、このままでは埒があかんな・・・」
ついに、魔王はしびれを切らし、強大な力でもって一気に決着をつける算段にでた。フェイとの間に十分な間合いを取ると、精神を集中し始める。
すると、それまで広大な室内を照らしていた陽光が突如遮られ、あたりが暗くなった。フェイが思わず見上げると、室内でありながら頭上には雷雲が垂れ込めて、窓をすっかり隠してしまっていた。
「冥土のみやげに見せてやろう・・・闇のいかづちの威力をな!」
広間はすっかり雷雲で覆われており、紫の光が雲間で爆ぜている。魔王が両腕を高くあげ、フェイにはわからない言葉で何事か叫ぶと、雷が一条、魔王に向かって落ちた!
それを皮切りにして、立て続けに幾筋もの光が魔王に向かって落ち、雷雲と魔王とをつないだ。高温の光を受け続ける魔王の身体は半身を覆う獣毛が全てそばだち、全身は白い光に包まれて、あまりの高温に足下の石が溶け沸騰し始めた。
魔王は自分の身が沈まないように翼をはためかせながら、両腕をおろすとフェイに向かって構えた。
「さぁ・・・喰らうがいい!」
その声とともに光は徐々にフェイに向けられた右腕に集まりだし・・・ついに放たれた!
何者をも溶かす熱をはらんだ光が、フェイを飲み込もうとする。
だがこれこそが、フェイが待ち望んだ好機の瞬間だった。
「くっ・・・今だ!」
フェイは素早く腰の道具袋を探ると、一つの宝珠を取り出した。
深緑色の輝きをたたえる宝珠を眼前に構えると、力を解放するための短い呪文を唱える。
すると、宝珠の輝きが強く大きくなり、フェイを覆うように広がった。
そこへ、ただひたすらに真っ白な、高熱の光が飛来する。
しかし、光の束はフェイに届くことなく、全て宝珠へと吸い込まれ始めた。
「貴様、それは・・・!」魔王が、初めて動揺した声を上げる。
それは、かつてフェイと戦った竜が、戦いの後にフェイに託した宝珠で、どれほど強大な力であっても、一度に限っては吸収し、反射するというものだった。
しかも、跳ね返すときには元の力を数倍にも増幅するのだ。長い寿命を持つ竜が心血を注いでも、一生に一つしか生み出すことができないと言われる宝珠だった。
これこそ、フェイの真の切り札である。様子を見るような動きを繰り返したのも、魔王を苛立たせ、大技を使わせる為の作戦だった。
いまや宝珠は魔王のはなった光を残さず吸収し、その高熱をフェイの拳ほどしかない球体に漲らせていた。
「ま、待て・・・」魔王が後ずさる。その表情ははっきりと、恐怖にゆがんでいる。
「くらえ、魔王め!」
フェイの気合いを受けて、宝珠が光を放つ。渦のような光が広間を包み、魔王をたやすく飲み込んだ。
「ぐぎゃぁあああぁあぁああああ・・・・っっ!」
光の中から、魔王の悲鳴がかすかに聞こえる。あまりのまぶしさに、フェイもしばらくは目を閉じていなければいけなかった。
やがてまぶた越しの明るさが穏やかになって、フェイはゆっくりと目を開けた。
まず最初に気がついたのは、天井が大きくぽっかりと空き、そこから太陽の光が降りそそいでいることだった。強烈な熱線は魔王をとらえるばかりか、頑強な魔王城の石壁までまとめて消し飛ばしたらしい。
次に魔王の姿を探した。それこそ溶けて消えてしまったか、とも思ったがそんなことはなく、フェイと最初にまみえた玉座のあたりでくずおれていた。
少し前まで魔王が泰然と腰掛けていた玉座は熱の余波を受け、真鍮の骨組みは大部分がぐずぐずに溶けてしまっている。もはや椅子としての体裁を成さなくなっていた。
その脇に倒れている魔王は一見息絶えているようにも見えたが、フェイが慎重に近づいていくと、一瞬だけ肩が動いたのがわかった。まだ生きている。
しかし、フェイが間合いに入っても身を起こす様子はなかった。見れば鱗はめくれあがり、獣毛も焼け焦げてあちこち皮膚が露出している。今ならば労せずして刃を通すことができそうだった。
フェイが横に立ち、剣を逆手に構えると、魔王は四つの目をわずかずつ見開いてフェイを見た。もはや抵抗する気力もないようで、フェイには介錯を望んでいるかのようにさえ感じられた。
「魔王グローング」
フェイは魔王の名を呼んだ。もはや憎しみも怒りもない。
「咎人としての生は終わる。この上はとこしえの海へと落ちて、魂を洗い清めたまえ」
罪人を処刑するときの決まり文句を叫んで、剣を振りあげ──、
「さらば!」
魔王の左胸に向かって一気に振りおろした。
「ぐわぁぁぁあああ・・・」
剣は深々と突き刺さり、魔王はつかの間目を見開いて断末魔の悲鳴を上げ、やがて事切れた。
フェイはしばらく待った。ひょっとしたら魔王が再び動き出すかもしれない。
だが、破邪の剣を左胸に突き立てられたままの魔王はもはやぴくりとも動かない。たっぷり半クラム(約十五分)ほど、注意深く魔王の様子を観察した後、ようやく確信した。
「やった・・・!」
ついに。
ついに魔王を倒した。
本懐を果たしたのだ。
王女の誘拐から三年あまり。各地の魔族は凶暴化し、世界の平和は大いに乱された。だが、それも収束するだろう。
そして。
「姫、なんとかお約束通り、花の枯れぬうちに御許へ帰れそうです・・・」
旅立ちに際してシフォニア王女へ送った一輪の花を思い出す。それと同時に、いままで意識の外へ追いやっていた王女のことが、堰を切ったようにフェイの記憶の中であふれた。
とらわれの洞窟から救い出したときの、幾分やつれながらも高貴さを失わぬ横顔。王城への帰りの道中、野道ならばどこにでも生えているような花を見つけて、直に摘んではこぼした無邪気な笑顔。そして一度だけ知った、瑞々しくも柔らかいその肌。
想えば想うほどに止まらなくなって、一人顔を赤らめる。
自分を見下していた貴族たちは、おそらく魔王を一人で倒すことなど無理だろうと高をくくっていたのであろうが、これで自分と王女の婚姻を止めるものなどいなくなるはずだ。
気を緩めれば涙があふれそうになる。フェイは今空いたばかりの天井の空間から空を見上げ、それをこらえた。
そのとき。
声が響いた。
はじめ、フェイは気づかなかった。その声は低く響いていたから。
その声は低く、ゆっくりとした周波数で、フェイの体を揺らしていた。
その声は、フェイの背後から響いていた。
「クックック・・・」
それは、笑い声だった。
信じたくなどなかったが、今や声ははっきりと広間に響いていた。
フェイの背後・・・魔王の死骸から。死骸と思われていたものから。
「クックック・・・グワッハッハッハ!!」
振り返れば今まさに、魔王が笑い声をあげながら起きあがるところだったのだ!
「バカな・・・」
魔王の姿は、先ほどと変わっていない。鱗はあちこちめくれているし、獣毛は焦げ付いている。破邪の剣も左胸に深々とつきたったままだ。
しかし、四つの目はぎらついて生気にあふれ、戦いのダメージなどないかのようであった。
「楽しかったか?『勇者ゴッコ』は・・・?」
「なに!?」
「おとぎばなしのように魔王を倒せて、楽しかったか・・・?」
「勇者ゴッコだと・・・?」
魔王の言葉に、フェイは気色ばんだ。
「そうさ」魔王は口の端をつり上げた。「この程度では・・・わしには暇つぶしがせいぜいだ」
そう言いながら魔王は、右手の鉤爪で自分の胸に刺さったままの剣の柄を摘むと、ためらわずに引き抜いた。どす黒い血液が吹き出したものの、一瞬で収まる。
フェイは驚愕した。破邪の剣はこれまでの戦いでは、伝説の通りに切り札たり得ていた。いかなる強大な魔族といえども、この剣で傷を付けられて平気な顔をしていられるものはいなかった。だが、あれほど深く突き立てたのに、魔王がダメージを負っている様子は見られない。
魔王はしばらくの間、新しいおもちゃを見つけたかのように剣を眺め回していたが、やがて飽きたといわんばかりに左手で刀身をつかむと、そのまま握り込んだ。すると、千年の時を越えて多くの魔族を屠った伝説の剣が、いとも簡単に砕け散った。
「ほれ」
顔色をなくすフェイに、魔王は残った柄の部分を投げて寄越した。刀身を失った剣の柄が、フェイの足下で乾いた音を立てて転がった。
「さて・・・まだ切り札は、あるのかね?」
魔王の瞳が、怪しく光った。
そこから先の戦いは、フェイにとっては次元の違うものだった。
「なぁんだ、もう終わりか」
魔王は左手をブラブラと振りながら近づいてきた。
フェイは石床の上に無惨にも横たわり、魔王を睨みつけることすらできなかった。
「まぁ・・・こんなものだ」
フェイのすぐそばまで来て屈みこんだ魔王は、左手でフェイの頭をつかむとおもむろに引っ張りあげた。フェイは無抵抗のまま、かすかにうめいた。
「ちょっと本気を出せばな。恥じる必要はない。人と魔族では、基本的な能力が違うのだからな。クックック・・・」
事実、「ちょっと本気」の魔王はすべてにおいて桁が違っていた。スピードで翻弄して隙をつく、フェイの基本戦術は全く通用せず、あっさりと捕まっていいように弄ばれた。殺そうと思えば簡単にできたはずだが、魔王はそうしなかった。盾をつぶし、かぶとを砕き、少しずつフェイの戦意を砕いていった。
今のフェイには、魔法の技一つ使う気力も残されていなかった。
「そういえば、戦いの前に言っていたな?わしの配下のすべてを倒したと・・・。残念だが、わしとともにこの世界にきたのは先遣隊に過ぎん。異世界の本拠地ではその数十倍の兵力が、わしの号令を今かと待ちわびておるのだ。王女をさらい、おまえと戦ったのは、本格的な侵攻の前のちょっとした儀式・・・余興のようなものだ」
語りながら魔王は、右手の鉤爪でフェイの左肩をつかんだ。そこにはまだ白銀の輝きを放つ鎧の肩当てが残されていたが、魔王がわずかばかり力を入れると、あっさりとひびが入り、砕けて落ちた。
「本当の戦争はこれから始まる。・・・まぁそれも、あっという間に終わってしまうだろうがな」
フェイは薄くしか開かない目を開いて、魔王を見た。先ほどまで勇者をつき動かしていた激しいほどの情熱はすでに消え、徒労感ばかりがその身を支配していた。死の恐怖も感じなかった。それほどまでに、自分と魔王の能力の差は激しく、また絶対的であるように感じた。
「おまえは、よく戦ったよ。余興としては十分すぎるほどにな。わしは今、非常に気分がいい・・・。だからもう一度だけ、おまえに聞いてやろう・・・」
魔王の四つの目が、フェイの二つの目を見据えた。
「おまえ・・・わしの配下にならんか?」
王城の小さな礼拝堂で、シフォニアは今日も祈りを捧げていた。
その傍らで、かつては野の中でひっそりと、しかし力強く咲き誇っていた黄色い花が、花瓶の中で力なくしぼみ、下を向いている。
王女はただ一心に祈っていた。
しかし祈りが届くことはなく、小さな花に交わされた誓いも、決して果たされることはなかった。