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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第二章 十二階の幽冥

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第九話 浅草の喧騒、万華鏡の誘い

 大正十年、五月。

 帝都・東京は、若葉の緑が滴るような季節を迎えていた。正午の陽光が路面電車のレールに反射し、陽炎となって揺らめく中、浅草公園は人々の熱気と欲望、そして文明の吐息で溢れかえっていた。


 人力車が雷門の朱色の柱の前で止まる。車夫が威勢よく「へい、お待ち!」と声を上げると、そこから一人の青年が降り立った。


 藤木健吾である。今日の彼は、大学の制服ではなく、仕立ての良い鉄色のスリーピース・スーツを(まと)っていた。英国製の重厚なウール地は、彼の峻厳な気質を象徴するように、一分の隙もなく身体に馴染んでいる。手にはステッキを持ち、金縁眼鏡の奥の瞳は、押し寄せる群衆を「標本」でも眺めるかのような冷徹さで射抜いていた。


「……藤木先生、あまりに賑やかで、目が回りそうですわ」


 健吾が差し出した手を取り、人力車から慎ましく降り立ったのは、久遠寺綾子だった。


 彼女の姿を認めた瞬間、周囲の喧騒が一瞬だけ引いたように感じられた。


 今日の綾子は、健吾が贈ったアメジストの指輪に合わせた、薄紫色の矢絣(やがすり)の銘仙に身を包んでいる。帯は漆黒の繻子(しゅす)で、背中には雀を象った銀の帯留めが控えめに光を放つ。その清楚な装いは、浅草の極彩色に塗り潰された街の中で、そこだけ清涼な水が流れているかのような錯覚を抱かせた。


 彼女の手には、レースの縁取りが施された絹張りのパラソル。それが彼女の陶器のような白い肌を、残酷なまでの直射日光から守っていた。


「綾子さん、足元に気をつけて。ここは、帝都で最も『雑多』な場所だ。科学的な視点から言えば、情報の過剰な供給による精神的疲弊が懸念されますが……たまには、こういった刺激も血行を促進し、快復への一助となるでしょう」


 健吾は、自分の胸の高鳴りを隠すように、早口で「理屈」を並べ立てた。


 綾子は、ふわりと花が(ほころ)ような笑みを浮かべた。


「はい。先生が一緒ですもの。わたくし、何も怖くありませんわ。……見てください、あの看板を。活動写真の看板かしら?まあ、あんなに大きな色が動くなんて」


 仲見世通りを歩き始めると、五感の全てを蹂躙(じゅうりん)するような情報の洪水が二人を襲った。


 立ち並ぶ出店からは、揚げ饅頭や人形焼の甘い香りが漂い、飴細工の笛の音が空に溶ける。見世物小屋からは、おどろおどろしい太鼓の音とともに「さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」という呼び込みの声が響く。


 健吾は、綾子の細い肩が人混みに押されないよう、自分の体で彼女を庇うようにして歩いた。指先が、彼女の着物の袖に触れる。


 その瞬間、健吾の指先を走ったのは、あの「冷気」だった。


 昼間の綾子は、確かに温かい。しかし、その奥底に潜む「何か」が、この熱狂に当てられて、密かに目を覚まそうとしているのを、彼は直感的に悟った。


(……いや、これは私の過敏な反応だ。日光の乱反射による視神経の疲労だ)


 自分に言い聞かせながら、健吾は視線を上げた。


 人混みの向こう、浅草の空を切り裂くようにしてそびえ立つ、赤レンガの巨塔が見えた。


 浅草十二階――凌雲閣。

 帝都の誇る、全高二百二十尺の超高層建築である。文明の象徴であり、人々の憧れの果てに築かれたバベルの塔。


「あそこへ登るのですか、先生?」


 綾子が、少しだけ声を震わせて尋ねた。彼女の瞳には、見上げるような巨塔への期待と、それ以上に深い「未知への恐怖」が混じり合っていた。


「ええ。十二階の展望台は、地上よりも空気が清澄です。そこで帝都を一望すれば、君の中に凝り固まった『宵闇』の幻影も、少しは晴れるかもしれない」


 健吾は言った。だが、彼自身、その言葉が虚しいことを知っていた。


 近づくにつれ、凌雲閣の赤レンガは、まるで血を吸って膨れ上がった巨獣の皮膚のように見えてきた。窓の穴は、空虚な眼窩となってこちらを見下ろしている。


 ふと、健吾の鼻腔を、人混みの汗の匂いや香具師の脂っこい匂いを突き抜けて、あの香りが掠めた。


 ――一輪の、妖しく湿った桔梗の匂い。


「先生……わたくし、なんだか、あの塔が、わたくしを呼んでいるような気がいたしますの」


 綾子の声が、先ほどよりも一段、低くなっていた。


 彼女のパラソルの陰から、一筋の影が、蛇のように地面を這い出し、凌雲閣の足元へと伸びていく。健吾が目を凝らした瞬間、影は再び彼女の足元に収まったが、健吾の背筋には、冷たい針でなぞられたような戦慄が走った。


 不意に、周囲の喧騒が遠のき、蓄音機の針が外れたような不快なノイズが耳の奥で鳴り響いた。


 仲見世を歩く人々。袴姿の女学生、パナマ帽を被った紳士、泥だらけの子供たち。その一人一人の「影」が、一瞬だけ、実体とは逆の方向に動いたように見えたのだ。


「……先生?どうかなさいましたか?」


 綾子が心配そうに覗き込んでくる。その瞳はまだ、澄んだ黒色のままだ。

 だが、健吾は見た。彼女の白い首筋に、昨夜の宵闇が残した「紫のアメジストの指輪」から放たれる輝きとは対照的な、暗いアザのような影が、一瞬だけ脈打つのを。


「……なんでもない。さあ、行きましょう。あそこにこそ、君の病理を解明する『光』があるはずだ」


 健吾は、自分の弱気を打ち消すように、強く彼女の手を握った。


 科学と迷信が、文明と呪いが、最も濃密に交差する場所。

 凌雲閣の重厚な入り口が、まるで巨大な怪物の顎のように、二人を飲み込む準備をしていた。


 喧騒の絶頂、万華鏡のように狂い咲く浅草の街。

 そこから一歩、塔の内部へと足を踏み入れた瞬間。

 外の世界の光は遮断され、ひんやりとした、墓穴のような静寂が二人を包み込んだ。


 藤木健吾の物語の、第二の扉が開かれた。


 ――そして、彼の理性を木っ端微塵に砕くための「上昇」が、今、始まろうとしていた。

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