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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第二章 十二階の幽冥

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第十三話 夜風の覚醒、嘘つきな月光

 宵闇の紅蓮の瞳から、すうっと色が引いていく。燃え上がるような魔性は霧散し、健吾の首に回されていた腕が、力なくその肩に落ちた。


「……あ、……れ……?」


 その声は、鈴を転がすような、清らかで儚い「久遠寺綾子」のものだった。彼女は、健吾の胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと瞬きを繰り返す。


「……ふじ、き……先生?わたくし、どうして先生に、こんな……」


 至近距離で見つめ合う二人。健吾の脳内では、数秒前までの濃厚な接吻の記憶が、猛烈な勢いで「医学的パニック」へと変換されていた。


「ッ!あ、綾子さん!意識が戻ったのですか!?」


 健吾は、弾かれたように彼女の肩を掴み、一歩、いや三歩ほど飛び退いた。顔は耳の裏まで真っ赤に染まり、直したばかりの眼鏡が再びずり落ちる。


「せ、先生……?わたくしたち、何を……。それに、ここ、は……」


 綾子は、乱れた髪を抑えながら、おぼつかない足取りで周囲を見渡した。そこには、先ほどまでの肉塊も触手もなく、ただ埃っぽい展望台の風景が広がっているだけだ。


「ええと、その!ここは凌雲閣の最上階です!君は、その、急激な貧血により一時的なせん妄状態に陥り……あー、そう!転倒しそうになった君を、私が主治医として適切に支えていたところです!」


 健吾は、全速力で「論理的な嘘」を構築し、早口でまくしたてた。


「支えて……。でも、なんだか口元が、とても熱くて……」


 綾子が、自分の唇を細い指先でそっとなぞる。健吾は心臓が口から飛び出しそうなのを必死に堪え、わざとらしく往診鞄を探った。


「そ、それは外気の乾燥による炎症です!後で特製の軟膏を処方しますから、気にしてはいけません!さあ、帰りましょう。夜風に当たりすぎると、神経症を再発させます!」


 健吾は、彼女に指輪のアメジストを見られないよう、なかば強引に彼女の背中を押し、螺旋階段へと促した。


 帰りの人力車。浅草の夜風を浴びながら、二人は並んで揺られていた。


 先ほどまでの異界が嘘のように、地上の浅草は相変わらずカフェの灯りが煌々(こうこう)と輝き、酔客の笑い声が風に乗って聞こえてくる。


「……先生。わたくし、また『あの方』に体を貸していたのですね」


 綾子が、膝の上で手を組み、ぽつりと呟いた。健吾は、横目で彼女を盗み見る。月光に照らされた彼女の横顔は、いつもの清楚な、どこか寂しげな令嬢に戻っていた。


「……覚えていないのですか」


「はい。……真っ暗な階段を登っている途中で、意識が遠のいて。気がついたら、先生の胸の中に。……わたくし、何か、失礼なことをいたしましたか?」


 健吾は、自分の唇に残る、あの狂おしいほどの熱を思い出し、喉を鳴らした。


「……失礼など。君は、ただ……少し、普段より自己主張が激しかっただけです」


「自己主張……?」


「ええ。最新の心理学で言うところの、抑圧された下部構造の表出です。ま、まあ、医学的には興味深い症例ですが、君が気にするようなことではありません」


「……先生は、嘘をつくとき、必ず眼鏡を直されますのね」


 綾子が、悪戯っぽく、しかし少しだけ悲しげに微笑んだ。


「……っ、そんな統計学的なデータはありません!」


「ふふっ。……でも、先生。わたくし、怖くなかったんです。あんなに暗い場所にいたはずなのに、お目覚めしたとき、先生の匂いがして……とても、安心いたしましたわ」


 綾子が、そっと健吾の腕に自分の手を重ねた。宵闇の時のような力強さはない。けれど、その指先から伝わる微かな震えと温もりこそが、健吾が救いたいと願った「久遠寺綾子」の熱だった。


「……綾子さん。私は、医者ですから」


 健吾は、今度は眼鏡を直さずに、彼女の手を優しく握り返した。


「君がどこへ迷い込もうと、私が必ず見つけ出し、現実に引き戻して差し上げます。……たとえ、それが十二階の天辺であっても、地獄の底であっても」


「はい。……先生。わたくし、あのアメジストの指輪、ずっと大切にいたしますわ」


 夜の帝都を走る人力車の影。健吾は、自分の白衣の袖口に、黒い煤がひっそりと付着しているのを見つけた。彼はそれを指で払い落とそうとして、ふと、思いとどまった。


(……救うと言いながら、私はあの闇を、愛おしいと思ってしまったのか)


 自問自答は、車輪の音に消えていく。横でうとうとし始めた綾子の頭が、健吾の肩にこんと乗った。健吾は、重なる二人の影を見つめながら、これから始まる、さらに深く、抗いがたい「共依存」の予感に、静かに身を委ねた。


「……おやすみなさい、綾子さん。……次の診察は、もっと穏やかな場所にしましょう」


 月は、何も語らずに、ただ白く冷たく二人を照らし続けていた。

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