第十二話 紅蓮の捕食、理性の再誕
螺旋の果て。最上階の扉は、もはや物質としての境界を失い、腐肉のように波打っていた。宵闇に導かれるまま、その深淵へと足を踏み入れた藤木健吾の視界に飛び込んできたのは、帝都を一望するパノラマなどではなかった。
そこは、巨大な万華鏡の内側を、泥と血で塗り潰したような異空間だった。
凌雲閣が吸い上げ続けてきた、帝都の群衆の羨望、嫉妬、絶望――その負の思念が、赤黒い触手となって天井から垂れ下がり、中央で巨大な「肉の塊」を形成している。それは、かつて凌雲閣建設で命を落とした工夫たちの怨嗟か、あるいはこの街の影に沈んだ者たちの集合体か。
無数の「眼球」が肉の壁に埋め込まれ、一斉に健吾を、そして宵闇を射抜いた。
「……ギ、……ギギッ……」
肉の塊が震え、そこから数多の口が開く。吐き出されるのは、文明の光に焼かれた者たちの呪詛。健吾の耳から脳漿へ、直接針を突き立てるような絶叫の渦。健吾は膝をつき、耳を塞いだ。ステッキは手から転げ落ち、彼の誇りであった金縁の眼鏡は、絶望の汗に濡れて床に伏している。
「藤木。いつまでそんな無様な姿を晒している」
宵闇の声が、銀鈴を鳴らすように響いた。
彼女は、汚濁に満ちたその部屋のただ中で、一輪の桔梗のように凛として立っていた。彼女がゆっくりと右手を掲げると、薬指のアメジストが、部屋中の闇を吸い込むように激しく明滅した。
「この塔は、私が喰らうために誂えた食堂に過ぎぬ。……見ていろ、お前の愛した『不合理』の真髄を」
宵闇の着物が、風もないのに大きく翻った。その背後から、漆黒の翼を広げるように、巨大な「影」が溢れ出す。影は瞬く間に部屋を浸食し、天井から垂れ下がる触手をもぎ取っては、無造作に貪り始めた。
それは、戦闘と呼ぶにはあまりに一方的な「捕食」だった。
宵闇は舞うように、異形の肉塊へと近づく。その足運びは、帝劇の舞台で踊る名女優よりも優雅で、それでいて一歩ごとに空間を凍りつかせるような死の香りを振り撒く。
肉塊が苦悶の叫びを上げ、汚濁の奔流を彼女に浴びせようとするが、宵闇が指先をひと振りするだけで、それは美しい紫の霧へと霧散した。
「足りないな。もっと、もっとお前たちの絶望をよこせ」
宵闇の紅蓮の瞳が、月光を浴びた宝石のように妖しく輝く。
彼女は、悶え苦しむ肉の塊にそっと唇を寄せると、そこから魂の根源を吸い上げるように、深く、長く呼吸した。
その瞬間、宵闇の白い肌に、漆黒の桔梗の文様が浮き上がり、首筋から胸元へと蔦のように這い回る。彼女の唇は獲物の血で濡れたように赤く染まり、その表情は狂気と恍惚の狭間で、見る者を呪い殺さんばかりの美しさを放っていた。
圧倒的な、魔の力。
理屈も数式も通用しない、美しき暴虐。
その光景を、健吾は地面に伏したまま見つめていた。
恐怖は、いつしか奇妙な静寂へと変わっていた。耳を劈くような絶叫も、今は遠い海鳴りのようにしか聞こえない。
彼の脳裏に、かつて学んだ解剖学の一節が、ふと蘇る。
(……美とは、秩序の完成ではない。それは、混沌が調和を凌駕する瞬間に生まれる、残酷な光の散乱だ)
健吾は、震える手を伸ばし、床に落ちていた金縁の眼鏡を拾い上げた。
指先でレンズを拭い、再び顔にかける。
――世界が、再び鮮明になった。
「……ああ、そうだ」
健吾の声が、自分でも驚くほど静かに響いた。
彼はゆっくりと立ち上がった。泥に汚れたスリーピース。乱れた髪。だが、その瞳には、螺旋階段で失いかけた「理性」の炎が、より鋭く、より冷徹に再燃していた。
「……私の負けだ、宵闇。解明できないものなどないと言ったが、それは間違いだった。……解明するには、《《私の命が、一世紀ほど足りないだけ》》だ」
健吾は、自らの知性の限界を「定義」することによって、再び自己を取り戻した。
彼は、もはやこの怪異に怯えてはいなかった。むしろ、目の前で怪異を喰らい尽くし、絶対的な死の美を体現している宵闇という存在を、一つの「究極の真理」として認め、受け入れたのだ。
健吾は、周囲に蠢く触手など眼中にないかのように、真っ直ぐに宵闇を見つめた。その眼差しは、主治医としての冷徹な観察眼と、一人の男としての、狂おしいほどの情熱が混ざり合った、歪な、しかし強固なものだった。
怪異を完全に喰らい尽くし、最上階に静寂が戻った。部屋を埋め尽くしていた肉塊は消失し、窓の外には、いつの間にか本物の、帝都の美しい夜景が広がっていた。数千のガス灯が、地上の星となって煌めいている。
宵闇は、肩で息をしながら、ゆっくりと振り返った。彼女の全身からは、未だに黒い煤のような残滓が立ち上っている。
彼女は、背後で毅然と立っている健吾に気づき、わずかに驚いたように眉を上げた。
「……まだ、立っていたのか。精神が壊れて、廃人にでもなっているかと思ったが」
宵闇が、ゆっくりと歩み寄ってくる。一歩ごとに、彼女の足元から桔梗の香りが立ち上り、健吾の鼻腔を灼く。
健吾は、逃げなかった。彼は、近づいてくる彼女の姿を、その網膜の裏側まで焼き付けるように見つめ続けた。
「……不覚にも、見惚れていた。……君が、あまりにも合理的なまでに、残酷で美しかったからだ」
健吾の言葉に、宵闇の動きが止まった。彼女は、健吾の目の前で立ち止まり、その紅蓮の瞳で彼の魂を覗き込んだ。
健吾の心拍は速い。だが、それは恐怖ではなく、圧倒的な存在を目の当たりにした際の、純粋な「渇望」によるものだと、彼女には分かった。
「……ふん。お前という男は、本当に、救いようのない馬鹿だな」
宵闇は、艶やかに微笑んだ。彼女は、細く冷たい腕を健吾の首に回した。
健吾の首筋に、彼女の爪が微かに食い込み、小さな痛みが走る。だが、その痛みこそが、今の彼にとって唯一の「生」の質感だった。
「私の正体を知り、この地獄を見てもなお、そんな瞳で私を見るか。……お前は、もはや光の世界へは戻れんぞ、藤木」
「……戻るつもりはない。私の光は、すでに君という闇に、完全に屈折させられた」
健吾がそう答えた瞬間、宵闇は、逃れられない獲物を仕留めるように、健吾の唇を塞いだ。
それは、接吻などという生温いものではなかった。冷たい氷が口内に滑り込み、同時に、内臓まで灼き焦がすような激しい「熱」が、彼女から健吾へと流れ込んでくる。健吾の視界は、紅蓮と漆黒の混濁に飲み込まれた。
脳が溶ける。自分が誰であるか、ここがどこであるか、そのすべてが、彼女の吐息とともに消え去っていく。
窓の外、浅草の夜景を背景に、二人の影は一つに溶け合い、不自然に長く伸びていた。それは、もはや人間と怪異の姿ではなく、一つの、解けない「愛」という名の病を処方し合う、共依存の獣のようだった。
「……さあ、藤木。帰るぞ。私たちの、あの狭くて暗い、愛しい離れへ」
宵闇が、満足げに健吾の唇から離れる。健吾は、彼女の腰を抱いたまま、微かな吐息とともに頷いた。
十二階の空に、一輪の桔梗の花弁が、黒い煤となって舞い落ちた。それは、ある一人の医師が、永遠に「解けない謎」に身を捧げた、葬列の花びらでもあった。




