第十一話 視線の迷宮、擦れ違う自分
エレベーターを降りた先の空間は、もはや石と鉄の建造物であることを止めていた。
天井の見えない闇の奥へと、螺旋を描いて伸びる漆黒の階段。壁面を覆う赤レンガは、まるで生き物の内壁のように湿り、不気味な熱を帯びて拍動している。窓の外には、浅草の活気など微塵も存在せず、ただ深い霧に閉ざされた虚無が横たわっていた。
「……先生、登りましょう?高いところは、お好きだったでしょう」
宵闇が囁く。彼女の纏う矢絣の着物は、闇に同化して紫の陰影を深め、薬指のアメジストだけが、導火線の火のように不吉な輝きを放っていた。
健吾は、震える右手を押さえ込み、ステッキを突き、一段、また一段と石段を登る。一歩進むごとに、背後の階段が霧に呑まれて消えていく。退路は断たれ、もはや上昇することしか許されない。
(……高度に伴う平衡感覚の失調だ。三半規管が、この異常な空間に適応できずにいるだけだ)
健吾は、心の中で呪文のように数式を唱えた。重力加速度、酸素分圧、網膜の残像。だが、彼の脳が導き出す「正解」を嘲笑うように、奇怪な現象が現実を侵食し始める。
ふと、前方から足音が聞こえた。
――カツン、カツン……
硬い革靴が石を叩く、聞き覚えのあるリズム。霧の向こうから、一人の人影がゆっくりと階段を降りてきた。
「……誰だ?」
健吾が声を荒らげる。現れたのは、一分の隙もない仕立ての鉄色のスリーピースを着た男だった。
男は健吾の数歩前で立ち止まった。
健吾は息を呑んだ。そこに立っていたのは、自分自身だった。金縁の眼鏡、整えられた髪、冷徹な瞳。だが、その「自分」の顔は、あまりにも醜悪に歪んでいた。
『解明できないものなど、この世には存在しない。そうだったな、藤木健吾』
鏡写しの自分が、健吾の声で語りかける。だがその唇は、切り裂かれたように横へと広がり、歯茎の奥から黒い液体が零れていた。
『見ろよ。お前が救おうとしている女の正体を。お前が愛でているのは、医学的な症例ではない。ただの、血に飢えた怪物だ』
「黙れ……!それは、私の潜在意識が見せている幻影に過ぎない。君は、私自身の脳が生み出した電気的なノイズだ!」
健吾はステッキを振り上げた。だが、目の前の自分は、霧に溶けるようにふっと消え、代わりに、宵闇が背後から健吾の首筋に冷たい指を這わせた。
「ふふ、先生。お前の中に飼っている『鏡』は、ずいぶんと素直なようだな。……ほら、次が来るぞ」
再び、足音が聞こえる。
今度は、白衣を着た自分が現れた。その白衣は、赤黒い血でドロドロに汚れ、手には診察道具ではなく、肉を削ぐための鋭利なメスを握っている。その男の背後には、死に装束のような白い着物を着た「綾子」が、操り人形のように力なくぶら下がっていた。
『救いたいのではない。壊したいのだ。この美しい器の中身をすべて取り出し、君の「論理」という名のホルマリンに漬けておきたい。それがお前の本性だ』
「違う……!」
『違わないさ。お前は彼女を治療しているのではない。彼女が闇に堕ちる瞬間を、特等席で観察して愉しんでいるだけだ。——この、不浄な共依存者め』
血まみれの自分が、耳障りな笑い声を上げながら、健吾の喉元にメスを突き立てる。
健吾は咄嗟に腕で防ごうとした。だが、触れた感触は鋼の冷たさではなく、腐り落ちた桔梗の花弁のような、不快な柔らかさだった。
「やめろ……!やめてくれ……!」
膝が笑い、健吾はその場に崩れ落ちた。最高学府で磨き上げた知性が、この垂直の迷宮では、何の武器にもならない。ただ、自分自身の醜い本音を暴かれ、魂を削り取られていく。眼鏡が床に落ち、健吾の視界は、毒々しい紫と赤の混濁へと沈んでいく。
その時。
冷たい、死者のような唇が、健吾の耳たぶを優しく甘噛みした。
「……かわいそうな、藤木。お前が自分自身を信じられないというのなら、私だけを信じればいい。お前のロゴスが壊れる音、とても綺麗だわ」
宵闇が、健吾を抱きしめる。彼女の温もりは、雪原に落ちた炭火のように、鋭く、痛く、そして狂おしいほどに甘美だった。
健吾は、震える手で宵闇の細い腰を縋るように抱き寄せた。
彼女が怪物であろうと、自分が狂人であろうと、もはやどうでもよかった。この果てしない螺旋の途中で、自分を定義してくれるのは、今、この肌に触れている「闇」だけだった。
「……連れて行ってくれ、綾子。……いや、宵闇。私の理性が、完全に死に絶える場所へ」
宵闇は満足げに瞳を細め、紅蓮の光を一層強く放った。
「ええ、いいわ。最上階はすぐそこよ。そこで、お前の大好きな『真理』を教えてあげる」
二人は、再び階段を登り始める。
一歩、また一歩。
階下からは、数多の「健吾」たちの絶望したような嗚咽が響き渡り、それはいつしか、祝福の合唱へと変わっていった。
螺旋の果て。
ついに見えてきた最上階の重厚な扉。そこには、帝都のすべての淀みが凝縮されたような、真実の闇が待ち構えていた。




