表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第二章 十二階の幽冥

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/13

第十一話 視線の迷宮、擦れ違う自分

 エレベーターを降りた先の空間は、もはや石と鉄の建造物であることを止めていた。


 天井の見えない闇の奥へと、螺旋を描いて伸びる漆黒の階段。壁面を覆う赤レンガは、まるで生き物の内壁のように湿り、不気味な熱を帯びて拍動している。窓の外には、浅草の活気など微塵も存在せず、ただ深い霧に閉ざされた虚無が横たわっていた。


「……先生、登りましょう?高いところは、お好きだったでしょう」


 宵闇が囁く。彼女の纏う矢絣の着物は、闇に同化して紫の陰影を深め、薬指のアメジストだけが、導火線の火のように不吉な輝きを放っていた。


 健吾は、震える右手を押さえ込み、ステッキを突き、一段、また一段と石段を登る。一歩進むごとに、背後の階段が霧に呑まれて消えていく。退路は断たれ、もはや上昇することしか許されない。


(……高度に伴う平衡感覚の失調だ。三半規管が、この異常な空間に適応できずにいるだけだ)


 健吾は、心の中で呪文のように数式を唱えた。重力加速度、酸素分圧、網膜の残像。だが、彼の脳が導き出す「正解」を嘲笑(あざわら)うように、奇怪な現象が現実を侵食し始める。


 ふと、前方から足音が聞こえた。


 ――カツン、カツン……


 硬い革靴が石を叩く、聞き覚えのあるリズム。霧の向こうから、一人の人影がゆっくりと階段を降りてきた。


「……誰だ?」


 健吾が声を荒らげる。現れたのは、一分の隙もない仕立ての鉄色のスリーピースを着た男だった。


 男は健吾の数歩前で立ち止まった。


 健吾は息を呑んだ。そこに立っていたのは、自分自身だった。金縁の眼鏡、整えられた髪、冷徹な瞳。だが、その「自分」の顔は、あまりにも醜悪に歪んでいた。


『解明できないものなど、この世には存在しない。そうだったな、藤木健吾』


 鏡写しの自分が、健吾の声で語りかける。だがその唇は、切り裂かれたように横へと広がり、歯茎の奥から黒い液体が零れていた。


『見ろよ。お前が救おうとしている女の正体を。お前が愛でているのは、医学的な症例ではない。ただの、血に飢えた怪物だ』


「黙れ……!それは、私の潜在意識が見せている幻影に過ぎない。君は、私自身の脳が生み出した電気的なノイズだ!」


 健吾はステッキを振り上げた。だが、目の前の自分は、霧に溶けるようにふっと消え、代わりに、宵闇が背後から健吾の首筋に冷たい指を這わせた。


「ふふ、先生。お前の中に飼っている『鏡』は、ずいぶんと素直なようだな。……ほら、次が来るぞ」


 再び、足音が聞こえる。


 今度は、白衣を着た自分が現れた。その白衣は、赤黒い血でドロドロに汚れ、手には診察道具ではなく、肉を削ぐための鋭利なメスを握っている。その男の背後には、死に装束のような白い着物を着た「綾子」が、操り人形のように力なくぶら下がっていた。


『救いたいのではない。壊したいのだ。この美しい器の中身をすべて取り出し、君の「論理」という名のホルマリンに漬けておきたい。それがお前の本性だ』


「違う……!」


『違わないさ。お前は彼女を治療しているのではない。彼女が闇に堕ちる瞬間を、特等席で観察して愉しんでいるだけだ。——この、不浄な共依存者め』


 血まみれの自分が、耳障りな笑い声を上げながら、健吾の喉元にメスを突き立てる。


 健吾は咄嗟に腕で防ごうとした。だが、触れた感触は鋼の冷たさではなく、腐り落ちた桔梗の花弁のような、不快な柔らかさだった。


「やめろ……!やめてくれ……!」


 膝が笑い、健吾はその場に崩れ落ちた。最高学府で磨き上げた知性が、この垂直の迷宮では、何の武器にもならない。ただ、自分自身の醜い本音を暴かれ、魂を削り取られていく。眼鏡が床に落ち、健吾の視界は、毒々しい紫と赤の混濁へと沈んでいく。


 その時。


 冷たい、死者のような唇が、健吾の耳たぶを優しく甘噛みした。


「……かわいそうな、藤木。お前が自分自身を信じられないというのなら、私だけを信じればいい。お前のロゴスが壊れる音、とても綺麗だわ」


 宵闇が、健吾を抱きしめる。彼女の温もりは、雪原に落ちた炭火のように、鋭く、痛く、そして狂おしいほどに甘美だった。


 健吾は、震える手で宵闇の細い腰を縋るように抱き寄せた。


 彼女が怪物であろうと、自分が狂人であろうと、もはやどうでもよかった。この果てしない螺旋の途中で、自分を定義してくれるのは、今、この肌に触れている「闇」だけだった。


「……連れて行ってくれ、綾子。……いや、宵闇。私の理性が、完全に死に絶える場所へ」


 宵闇は満足げに瞳を細め、紅蓮の光を一層強く放った。


「ええ、いいわ。最上階はすぐそこよ。そこで、お前の大好きな『真理』を教えてあげる」


 二人は、再び階段を登り始める。


 一歩、また一歩。


 階下からは、数多の「健吾」たちの絶望したような嗚咽が響き渡り、それはいつしか、祝福の合唱(コーラス)へと変わっていった。


 螺旋の果て。


 ついに見えてきた最上階の重厚な扉。そこには、帝都のすべての淀みが凝縮されたような、真実の闇が待ち構えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ