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宵闇の恋わずらい ―冷徹医師は、解けない「愛」を処方する―  作者: 初 未来
第二章 十二階の幽冥

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第十話 鉄の籠、上昇する予感

 赤レンガの巨塔の内部に足を踏み入れた瞬間、浅草の喧騒は、分厚い水壁を隔てたかのように遠のいた。


 外の陽光は、ステンドグラスを模した高窓から頼りなく差し込むだけで、広間には琥珀色の淀んだ空気が満ちている。ひんやりとした冷気が、健吾の三つ揃いのスーツを通り抜け、肌にじわりと張り付いた。


「……静かですね、先生。まるで、深い海の底に沈んでしまったみたい」


 綾子が、囁くような声で言った。彼女の指先は、健吾の腕を一層強く掴んでいた。


 健吾は、金縁眼鏡を軽く押し上げ、周囲を見渡した。


「……巨大な石造建築特有の、吸音効果と断熱性による現象です。何ら不思議なことではありませんよ」


 口ではそう言いながらも、健吾は胸の奥を掻き毟る(むし)るような違和感を覚えていた。


 広間の隅々には、豪華な装飾が施された調度品が並び、文明の豊穣を謳っている。しかし、その影の輪郭は、油絵具が滲んだように不自然に長く、深い。


 広間の中央。そこには、重厚な鉄格子に囲まれた「怪物」が鎮座していた。


 凌雲閣が誇る、帝都初の電動式エレベーター。


 金色の真鍮が磨き上げられたその「鉄の籠」は、まるで近代化の欲望を閉じ込める檻のように見えた。


「さあ、これに乗りましょう。階段を登る労力を使わずとも、電気の力が我々を天界へと誘ってくれる」


 健吾が合図すると、制服姿の昇降機係が、無表情に鉄の扉を開いた。


 ガラガラと、金属の擦れる不快な音が広間に反響する。健吾は綾子を促し、狭い籠の中へと入った。



 ――密閉された空間。



 二人の距離は、外の雑踏にいた時よりもずっと近くなった。


 綾子の纏う、沈丁花(ちんちょうげ)に似た清楚な香りと、その奥に潜む「桔梗」の冷たい芳香。健吾の肺は、その矛盾した香りに満たされ、脳の深部が微かに痺れるような感覚に陥る。


「……先生、なんだか胸が苦しいですわ。心臓が、見たこともない速さで脈打っていますの」


 綾子が、潤んだ瞳で健吾を見上げた。彼女の白い首筋には、浮き出た血管が青白く透けている。


「気圧の変化と、閉鎖空間への心理的反動です。私の手を握っていなさい。生理学的な異常は、私の存在が否定します」


 健吾は、彼女の細い手を、包み込むように握りしめた。

 その瞬間、昇降機がガクンと大きく揺れ、上昇を始めた。


 ――ウィィィン……


 モーターの低い唸り声。足元から伝わる微かな振動が、健吾の脊髄を揺らす。格子状の扉の向こう、各階の風景が、走馬灯のように下へと流れていく。



 ――一階、二階……。



 最初は、各階に並ぶ売店や、驚きに目を見開く見物客たちの姿が見えていた。だが、三階、四階と上がるにつれ、窓の外の景色が「色彩」を失い始めた。


「……先生、見てください」


 綾子が指差す。通り過ぎていく階層の廊下に立つ人々が、皆、微動だにせず、こちらの昇降機をじっと見つめているのだ。


 それも、一人残らず。



 表情はなく、瞳だけが硝子玉のように虚ろに光っている。


(……群衆心理による同調行動か?いや、そんなはずはない)


 健吾の論理(ロゴス)が、小さな異音を立て始める。



 ――五階、六階。



 上昇する速度が、徐々に速まっていく。モーターの唸り声は、いつの間にか、数千羽の鴉が羽ばたくような、あるいは女が(すす)り泣くような不気味な合唱へと変貌していた。


 ふと、健吾は、自分たちの横に立っている昇降機係に目をやった。鉄のレバーを握るその男の横顔は、蝋細工のように白く、血の気がまったくない。


 そして、健吾の視線に気づいたのか、男がゆっくりと首をこちらへ向けた。



 その顔には、目も、鼻も、口もなかった。



 ただ、滑らかな皮膚が顔全面を覆っているだけの「のっぺらぼう」が、そこに立っていた。


「……ッ!」


 健吾は息を呑み、綾子を自分の背後に庇った。


 だが、綾子は怯える風でもなく、ただ虚空を見つめていた。


 彼女の右手の薬指。健吾が贈ったアメジストが、闇の中で脈打つように、妖しい紫色の燐光を放ち始めている。


「……先生、聞こえますか? 『あの方』が、笑っていますわ」


 綾子の声が、低く、湿り気を帯びて響く。それは彼女の声であって、彼女の声ではなかった。


 昇降機の壁が、まるで生き物のように、内側からボコボコと波打ち始める。


 鉄の壁に、無数の「手」の形をした浮き彫りが現れ、健吾の白衣を、スーツの裾を、執拗に撫で回す。


「幻覚だ……。急激な高度上昇に伴う、脳内酸素の欠乏による一過性の……!」


 健吾は叫んだ。それは、怪異を打ち払うためではなく、自分自身の崩壊を食い止めるための、悲痛な祈りに近かった。


 だが、無情にも「鉄の籠」は止まらない。


 表示板の針が、ありもしない「十三階」「十四階」を指して、狂ったように回転し始める。


 不意に、香りが変わった。清楚な花の香りは消え失せ、肺を刺すような、濃密で毒々しい桔梗の香りが充満する。


「……藤木、そんなに震えて、どうした? さっきまでの尊大な自信は、どこへ落としてきたのだ」


 隣に立つ綾子が、ゆっくりと顔を上げた。そこには、清純な令嬢の面影は微塵もなかった。


 燃え盛るような、紅蓮の瞳。


 唇の端には、健吾の恐怖を嗜むような、酷薄で美しい微笑みが刻まれている。


 ――宵闇の顕現。


 彼女が健吾のネクタイを指先でなぞると、そこから黒い煤のような影が立ち上り、健吾の視界を塗り潰していった。


「面白いぞ、この場所は。帝都の愚か者たちが積み上げた、欲望の墓標だ。……さあ、見せてやろう。お前が信じる『科学』が、いかに脆く、いかに救いがないものかを」


 ――ガクォンッ!!


 凄まじい衝撃とともに、昇降機が停止した。表示板の針は、真っ赤に染まったまま動かない。鉄の扉が、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で左右に開かれる。


 そこには、健吾の知る「展望台」などは存在しなかった。窓の外に広がるのは、星のない、漆黒の虚無。


 そして、目の前に続くのは、無限に上へと続く、歪な螺旋の階段だった。


「……ようこそ、藤木。ここからが、本番だ」


 宵闇は、健吾の頬に冷たいキスを落とすと、闇の中へと優雅に歩み出した。健吾は、震える膝を必死に支え、手の中のステッキを握りしめた。


 もはや引き返すことはできない。彼は、文明の光が届かない、垂直の迷宮へと、その第一歩を踏み出さざるを得なかった。

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