第十話 鉄の籠、上昇する予感
赤レンガの巨塔の内部に足を踏み入れた瞬間、浅草の喧騒は、分厚い水壁を隔てたかのように遠のいた。
外の陽光は、ステンドグラスを模した高窓から頼りなく差し込むだけで、広間には琥珀色の淀んだ空気が満ちている。ひんやりとした冷気が、健吾の三つ揃いのスーツを通り抜け、肌にじわりと張り付いた。
「……静かですね、先生。まるで、深い海の底に沈んでしまったみたい」
綾子が、囁くような声で言った。彼女の指先は、健吾の腕を一層強く掴んでいた。
健吾は、金縁眼鏡を軽く押し上げ、周囲を見渡した。
「……巨大な石造建築特有の、吸音効果と断熱性による現象です。何ら不思議なことではありませんよ」
口ではそう言いながらも、健吾は胸の奥を掻き毟るるような違和感を覚えていた。
広間の隅々には、豪華な装飾が施された調度品が並び、文明の豊穣を謳っている。しかし、その影の輪郭は、油絵具が滲んだように不自然に長く、深い。
広間の中央。そこには、重厚な鉄格子に囲まれた「怪物」が鎮座していた。
凌雲閣が誇る、帝都初の電動式エレベーター。
金色の真鍮が磨き上げられたその「鉄の籠」は、まるで近代化の欲望を閉じ込める檻のように見えた。
「さあ、これに乗りましょう。階段を登る労力を使わずとも、電気の力が我々を天界へと誘ってくれる」
健吾が合図すると、制服姿の昇降機係が、無表情に鉄の扉を開いた。
ガラガラと、金属の擦れる不快な音が広間に反響する。健吾は綾子を促し、狭い籠の中へと入った。
――密閉された空間。
二人の距離は、外の雑踏にいた時よりもずっと近くなった。
綾子の纏う、沈丁花に似た清楚な香りと、その奥に潜む「桔梗」の冷たい芳香。健吾の肺は、その矛盾した香りに満たされ、脳の深部が微かに痺れるような感覚に陥る。
「……先生、なんだか胸が苦しいですわ。心臓が、見たこともない速さで脈打っていますの」
綾子が、潤んだ瞳で健吾を見上げた。彼女の白い首筋には、浮き出た血管が青白く透けている。
「気圧の変化と、閉鎖空間への心理的反動です。私の手を握っていなさい。生理学的な異常は、私の存在が否定します」
健吾は、彼女の細い手を、包み込むように握りしめた。
その瞬間、昇降機がガクンと大きく揺れ、上昇を始めた。
――ウィィィン……
モーターの低い唸り声。足元から伝わる微かな振動が、健吾の脊髄を揺らす。格子状の扉の向こう、各階の風景が、走馬灯のように下へと流れていく。
――一階、二階……。
最初は、各階に並ぶ売店や、驚きに目を見開く見物客たちの姿が見えていた。だが、三階、四階と上がるにつれ、窓の外の景色が「色彩」を失い始めた。
「……先生、見てください」
綾子が指差す。通り過ぎていく階層の廊下に立つ人々が、皆、微動だにせず、こちらの昇降機をじっと見つめているのだ。
それも、一人残らず。
表情はなく、瞳だけが硝子玉のように虚ろに光っている。
(……群衆心理による同調行動か?いや、そんなはずはない)
健吾の論理が、小さな異音を立て始める。
――五階、六階。
上昇する速度が、徐々に速まっていく。モーターの唸り声は、いつの間にか、数千羽の鴉が羽ばたくような、あるいは女が啜り泣くような不気味な合唱へと変貌していた。
ふと、健吾は、自分たちの横に立っている昇降機係に目をやった。鉄のレバーを握るその男の横顔は、蝋細工のように白く、血の気がまったくない。
そして、健吾の視線に気づいたのか、男がゆっくりと首をこちらへ向けた。
その顔には、目も、鼻も、口もなかった。
ただ、滑らかな皮膚が顔全面を覆っているだけの「のっぺらぼう」が、そこに立っていた。
「……ッ!」
健吾は息を呑み、綾子を自分の背後に庇った。
だが、綾子は怯える風でもなく、ただ虚空を見つめていた。
彼女の右手の薬指。健吾が贈ったアメジストが、闇の中で脈打つように、妖しい紫色の燐光を放ち始めている。
「……先生、聞こえますか? 『あの方』が、笑っていますわ」
綾子の声が、低く、湿り気を帯びて響く。それは彼女の声であって、彼女の声ではなかった。
昇降機の壁が、まるで生き物のように、内側からボコボコと波打ち始める。
鉄の壁に、無数の「手」の形をした浮き彫りが現れ、健吾の白衣を、スーツの裾を、執拗に撫で回す。
「幻覚だ……。急激な高度上昇に伴う、脳内酸素の欠乏による一過性の……!」
健吾は叫んだ。それは、怪異を打ち払うためではなく、自分自身の崩壊を食い止めるための、悲痛な祈りに近かった。
だが、無情にも「鉄の籠」は止まらない。
表示板の針が、ありもしない「十三階」「十四階」を指して、狂ったように回転し始める。
不意に、香りが変わった。清楚な花の香りは消え失せ、肺を刺すような、濃密で毒々しい桔梗の香りが充満する。
「……藤木、そんなに震えて、どうした? さっきまでの尊大な自信は、どこへ落としてきたのだ」
隣に立つ綾子が、ゆっくりと顔を上げた。そこには、清純な令嬢の面影は微塵もなかった。
燃え盛るような、紅蓮の瞳。
唇の端には、健吾の恐怖を嗜むような、酷薄で美しい微笑みが刻まれている。
――宵闇の顕現。
彼女が健吾のネクタイを指先でなぞると、そこから黒い煤のような影が立ち上り、健吾の視界を塗り潰していった。
「面白いぞ、この場所は。帝都の愚か者たちが積み上げた、欲望の墓標だ。……さあ、見せてやろう。お前が信じる『科学』が、いかに脆く、いかに救いがないものかを」
――ガクォンッ!!
凄まじい衝撃とともに、昇降機が停止した。表示板の針は、真っ赤に染まったまま動かない。鉄の扉が、ゆっくりと、しかし抗いがたい力で左右に開かれる。
そこには、健吾の知る「展望台」などは存在しなかった。窓の外に広がるのは、星のない、漆黒の虚無。
そして、目の前に続くのは、無限に上へと続く、歪な螺旋の階段だった。
「……ようこそ、藤木。ここからが、本番だ」
宵闇は、健吾の頬に冷たいキスを落とすと、闇の中へと優雅に歩み出した。健吾は、震える膝を必死に支え、手の中のステッキを握りしめた。
もはや引き返すことはできない。彼は、文明の光が届かない、垂直の迷宮へと、その第一歩を踏み出さざるを得なかった。




