ある旅商人
「はぁ……ったく。なげぇ」
森の中を歩きながらアシュがため息を零す。周りには木々が生い茂り、人の気配なんて一つもない山道。
王国への道のりは険しい。
幾つかの山を越えなければならず、こうした山道を進むことになる。アシュはカルカナたちに追われている以上、主要な道を使うことはできず、こうして誰も知らぬような険しい山道を歩いていた。
師匠に連行されたどこかの山の方が遥かに危険且つ大変だったため、この山登りは特に苦ではない。
息が上がるわけでも体に疲労が蓄積するわけでもない。
ただ単純に面倒なのだ。師匠に殴られ、蹴られ、沈められ、焼かれた記憶が、この山道を歩くとどこか脳裏にチラついて煩く感じる。
「ったく。あの野郎」
未だ、恨みは消えず師匠に対して鬱憤をぶつけながら山道を歩く。そうして幾つかの山を越えて、空が僅かに赤くなり始めた頃、後ろから一台の馬車が近づいてきた。雰囲気からして普通の旅人か商人。
しかし整備されていないこの山道を利用していることから、僅かに不信感を抱かざるを得ない。果たしてカルカナが送った刺客か、それとも関係のない人物か。または、それ以外か。
(さすがに……カルカナだけに追わせてるわけじゃ、ないだろうしな)
カルカナは失態を犯した。街を破壊した上にアシュに逃げられ、団員も殺されている。カーン伯爵の怒りを買い、極刑になってもおかしくはない。しかし今のところ、そのような情報はアシュのもとまで流れていない。
それに、わざわざ大金叩いて雇用しているカルカナ傭兵団をすぐに切るとは考えにくい。恐らく、幾らかの猶予期間を設けているはずだ。
だが、それとは別にカーン伯爵としては自らの面目を保つため、政治的立ち位置を守るため、カルカナ以外の刺客を個別で雇っていても何ら不思議ではない。いつどこでアシュの居場所がバレたのかは分からないが、後ろから来ている者がカーン伯爵が雇った刺客という可能性は十分にある。
アシュは後ろに注意を払いながら歩く速度は変えずに山道を進む。馬車の方が早く進むため、少しするとアシュとの距離も縮まる。歩きながら僅かに身を傾けて後ろを見る。
馬の手綱を握る人物が馬車の先頭に座っていた。老人に見える。
後ろには荷台。幾つかの木箱が積んでいるように見えた。人の姿は無い。
老人は武器を隠し持っているようには見えず、荷台に人が隠れているようには感じない。それでいて、馬車の周り、森の中に隠れている刺客の姿は確認できない。
ただの旅商人か。
いやしかし、このような山道を使う意味が無い。
アシュは悩んでいる際中にも馬車は確かに距離を詰めて、すぐそこまで来る。車輪の音、馬の蹄が地面を叩く音。それらが聞こえ、近づき、馬車がアシュの横に並んで通り過ぎていく。
そのまま前の方に行ってしまうのではないかと、そう思った時、馬車がアシュの隣で止まった。
「そこのあなた。乗っていきますか」
手綱を握ったまま、老人がアシュに話しかける。
ただの親切心か、それともアシュを誘うための罠か。
真意は不明。
「いや、遠慮しておくよ」
たとえ、これがただの親切心であったとして、アシュに関わればこの老人は協力者とみなされ、悲惨な結末を送ることになる。だからこそ、相手が刺客であってもただの旅商人であっても、その言葉に応えることはできなかった。
「私は気にしませんよ。人が一人ぐらい荷台に乗ったところで、馬も老齢ですが、子供一人の重量ぐらいあっても変わりません」
「いや、迷惑をかけることはできない」
アシュは老人を見ながら幾つか思う。
(こいつ……)
この老人、恐らく『戦士』だ。
その立ち振る舞い、手綱を握る手。全体の身体のバランス。服で隠されているものの、少し見える戦闘の傷跡。
明らかに幾つかの戦場を渡り歩いてきた『戦士』だ。
ただ、だからといって刺客だと決めつけることもできない。
この老人が若い頃ぐらいはまだ『大戦』の真っただ中だった。今、この時代に生きている老人は全員、『大戦』の生き残りと考えてよい。
あの苛烈な『大戦』を五体満足で生き残っているのだ。相当運がいいか、それなりの実力者ということ。『戦士』であったからと刺客だと決めつけるのは焦燥。
「どうやら。何か訳ありのようで」
大戦を生きた者の勘。そして磨かれた観察眼。
老人もまた、アシュがただの少年でないことぐらい見抜いていた。
「ああ。だから関わらない方がいい」
「いえ、手助けさせてください。これも何かの縁です」
中々引き下がらない老人。
いよいよ刺客だと疑い深くなってしまう。しかし、刺客だとしてわざわざアシュを誘い込まなくとも今ここで戦ってケリをつければいいだけ。刺客というのならば、周りに仲間がいて当然。
もしかしたらカルカナ傭兵団が来るまでの時間稼ぎをしているのかもしれない。
老人が笑みを浮かべる。アシュにはその笑みが純粋な親切心から来るものであるとしか、思えなかった。果たして自分の感覚を信じるのか、それとも合理的に見た判断をするのか。
正解ばかり追い求める必要はない。
師匠が訓練の合間によく言っていた。
たとえ、この選択が正解でないとしても。
「分かった。ただ、あんたがどうなっても恨むなよ」
「ええ。大丈夫ですとも。恨みなら、昔にたくさん買いましたから」
大戦に従事し、多くの人々を殺した者の言葉。
アシュは真剣に受け止めず笑った。
「じゃあそのせいであんたは死ぬな」
老人のことを全く気遣わない少年の言葉に、老人は少し目を開いて微笑んだ。
「ふふ。そうですね」
「……ったく」
予想した反応が得られず、アシュはどこか不満そうな顔をしながら馬車に乗り込んだ。
◆
「カリム。俺がいない間、完璧にやり遂げろ」
アシュを追うための出発の準備を整えたカルカナが副団長でもあり、最も長く戦場を共にした友——カリムに告げる。
これから、カルカナは拠点を去る。
その間、都市の警備やカーン伯爵からの命令を聞く役目は副団長であるカリムに一任される。
カルカナがいない間の重要な役目。
ただ、カリムとしては引き受けたくない役目だった。友でもあり団長でもあるカルカナと共に亡き団員の敵を打ちたいという気持ち、アシュという少年の強さを知っているからこそ自分が傍につき、カルカナと共に戦わなければという気持ちもある。
しかしそれは叶わぬ願い。
アシュを殺したところで終わりではないのだ。カルカナ傭兵団はこれからも続いていく。だからこそ、今ここでカーン伯爵との繋がりを蔑ろにしてはならない。
「王国に、往くのですか」
私も往きたい、共に戦いたい、そういった気持ちを押し殺してカリムは言葉を紡ぐ。
「戻ってきてください」
「当然だ。俺は『勇猛果敢』——カルカナ・バーゼス様だ」
ガッハッハ、と笑うカルカナ。
大柄の体と粗暴そうな目つき、その要素からカルカナは野蛮な男だと間違われるが、真実は違う。カルカナは冷静沈着、誰よりも戦況を見据え、先を想定する男だ。いつもは馬鹿笑いなどせず、淡々に、粛々と、事を終える。
しかし今日は、この時だけは笑っていた。
彼自身も気がついている。このアシュを殺すための遠征が命がけだということを。
幾たびもの戦場を渡り歩いてきた、数々の死地に在って来た、しかし、カルカナは笑わず指示を出し続けた。先頭に立って戦い続けた。
その彼が不安を紛らわすために笑っている。
腹心として長い間カルカナを見て来たカリムとしては、不安になるなという方が難しいぐらいだった。
「まあ見とけ。良い土産買って帰って来てやるからよ」
しかし最後、カルカナは団長としての顔に戻り、カリムにそう言った。




