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落下ピエロ

作者: 雉白書屋

 ――エレベーターの階数は自分の地位を示すと誰かが言っていた。しかし、ピエロとの遭遇については何も言わなかった――



 ある晴れた月曜日の朝、僕の心臓は激しく波打っていた。高いところから落としたボールが跳ね上がるように。そう、目の前にそびえる、この高層ビルのような……。


「あ、すみません……」


 ビルに向かって歩く途中、肩が軽くぶつかり、僕は頭を下げた。相手は振り返ることなくビルの中に吸い込まれていった。どうやら、ぶつかったことに気づきもしなかったらしい。もしかしたら、僕なんか石ころとでも思われたのかもしれない。ああ、確かに場違いだ。手違いだったのかもしれない。このあまりいいニュースを聞かない不景気で、荒んだ世の中で、僕のような普通の大学……底辺大学の学生が、大企業の面接を受けに来るなんて。

 けれど、ここまで来て引き返すわけにはいかない。そうだ、発想の転換だ。ここに立っている時点で、僕にはこの会社で働くチャンスがあるのだ。そう自分に言い聞かせて胸に自信を押し込み、僕は自動ドアをくぐった。

 受付の女性に、面接に来たことを伝えると「あちらのエレベーターをお使いください。本日は就活生専用となっております。降りたらまっすぐ進んで、面接室と書かれたドアにお入りください。あなたと一緒に働けることを心から願っています」と、思わず恐縮してしまうくらい丁寧な笑顔と手で指し示された。僕は二回会釈し、エレベーターに乗り込んだ。

 指定された階のボタンを押し、閉まるドアを見つめながら、頭の中で面接官と打ち解ける自分を思い描いた。なんだか、うまくいく気がする。人生が一変するような予感が――


「えっ」


 ドアが閉まる寸前、突然白い手がドアの間に挟まった。悶える虫のようにバタバタと動く手に反応し、ドアが再び開くとそこには、数名のピエロが立っていた。彼らはカラフルな衣装に身を包み、大きな靴を履き、顔には派手な化粧を施し、鼻に赤いボールをつけていた。笑みを浮かべ、一番前のピエロ(おそらく、ドアに手を挟まれた)が手にふーっと息を吹きかけていた。


「おはよう!」


「え、あ、おはようございます……あ、ちょっと、なんですか!? 乗るんですか!?」


 僕はエレベーターの奥に押し込まれ、ピエロたちに囲まれた。ドアが閉まり、エレベーターが動き始めた。


「面接ですか?」とピエロの一人が訊いてきた。


「ええ、そうですけど……」


「履歴書は?」


「え、鞄の中にありますけど……」


 出せってことだろうか? いや、出すわけがない。なんなんだこのピエロたちは……いや、待てよ。もしかしたら何か――


「すでに試験は始まっているのだよ」


「は? え? あの、これってもしかして……」


「しぃー……」


「あ、すみません……あの、これ、あっ!」


 僕が鞄から履歴書を出すと、ピエロはそれを奪って即席のマジックを披露した。手の中に入れた紙が消えてなくなったかと思えば、二つに増え、さらに四つになり、丸めてジャグリングを始めた。学歴が宙を舞い、職歴が宇宙の彼方へと消えようとしている。僕は慌てて履歴書を取り返そうとした。


「これは僕のだ!」

「いいや僕の!」

「おれの!」

「私の!」


 しかし、ピエロたちは僕そっちのけで争い始め、四つに分かれた履歴書の一つはピエロの大きな靴の中、二つ目は帽子の中、三つ目はピエロの一人が吹き始めたサックスの中に消えた。残りの一つの行方はわからない。ピエロの一人が風船を取り出し、バルーンアートを始めたからだ。彼が何を作るのか僕には見当もつかなかった。そのピエロの肘が、僕の顔にごりごりと当たっていたのだ。


「いた、痛いですって! どいてくださいよ! え、今度はなんですか? もしかして、合格……?」


 ピエロの一人が花束を僕に差し出した。僕が受け取ろうとすると、花束から水が噴き出し、顔とスーツをびしょ濡れになった。さらに大きなパイが顔に飛んできて、ピエロは「エコとはエゴだよ!」と叫んだ。たぶん、フードロス問題への皮肉だろう。

 エレベーターの中で、ピエロたちのパフォーマンスはエスカレートし、まるで指揮者が暴走したオーケストラのようだった。これは夢だ。僕は夢を見ている。そう思ったとき、「チン」という音に現実に引き戻された。ようやく目的の階の到着し、ドアが開いたのだ。押し退けて出ようとすると、ピエロたちが僕のスーツの袖とシャツを引っ張り、ボタンが飛び、僕はピエロたちとともにエレベーターから転がり出た。

 ピエロたちに覆いかぶさられ、僕は崩れたテントような中を這って廊下を進んだ。

 面接室と書かれた貼り紙のあるドアの前まで来ると、ピエロたちは慌ただしく去っていった。

 僕は立ち上がり、パイで覆われた顔を拭きながらノックをして、面接室に入った。

 中には三人の面接官が待っていた。長机の向こうの椅子に座っている。

 面接官たちは僕を見上げ、真ん中の人が手を動かした。たぶん、履歴書を求めているのだろう。でも、ここにはない。だから聞かれる前に僕は両手を広げて、面接官に向かって言った。


「これが僕のプレゼンテーションです。予期せぬ状況にも柔軟に対応し、常にポジティブな姿勢を保つことができます」


「……それで?」 




 後日、ニュースでピエロたちが逮捕されたことを知った。

 それがあのピエロたちかどうかはわからない。専門家を名乗る男は、「これは現代社会の病理だ」と語っていたが、具体的な治療法については触れず、僕には彼らがピエロの宣伝をしているようにしか思えなかった。

 僕はテレビを消し、郵送されてきた封筒を見つめた。そこには『おめでとうございます。あなたは我が社に採用されました!』と書かれていた。

 その封筒と一緒に送られてきた荷物の中にはピエロの衣装とメイク道具、集合場所と指示が書かれた紙、バールなど必要なものがそろっていた。

 僕は笑った。街にはそんなピエロがたくさんいた。

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