玖拾
ヒールを履いてこないで良かった。
無駄に広い屋敷を歩きながらそう思う。
金持ちの家ってのはどうしてこんなに大きいんだ。西園寺邸やラシード邸に比べたら、うちは猫の額ほど狭い。
ここまで大きな屋敷を美しく維持したかったら、優秀な使用人を何人も雇う必要があるだろう。
しかし、あんなに大勢必要だろうか。
広間を出入りする使用人たちをちらと見る。
慌ただしくパーティーの準備をしており、私たちには目もくれない。
広間には食器類や花、飾りなどが次々と運びこまれていく。動きが常人より早いためか、まるでタイムラプスを見ているようで面白い。
「使用人って何人いるの?」
「普段は六人。今日は本家から来てもらってるから、二十人くらいいると思う」
じゃあ、本家から十四人近く派遣されてるってこと……?
西園寺の本筋は政治家系だと聞いたが、そこまで豪勢な暮らしをしているんだろうか。
「本家ってどんな感じ? ここより大きいの?」
「ああ。まず家族規模が違うからな。うちは四人家族と一人だけど、本家は子沢山だし、一人一人に専用の従者と使用人がいるんだ」
「へえ」
お付きの存在にはそれほど驚かなかった。
玲海堂では、財閥系出身の生徒が同い年の従者を伴っていることがある。麗華さんの取り巻きにも従者がいたそうだ。
彼らも正規の学生として入学し、卒業後も主人についていく。
西園寺家ほどの家格なら、分家でも従者を連れていておかしくないがーー
「いや、俺はそういうの勘弁」
「僕がいるしね」
ランスが割りこむ。
自信満々といった表情だった。
そういえば”従者”という言い方こそしないが、後藤さんも同じようなものだ。
黒川さんに付き従って給料をもらいつつ、学費を出してもらい、衣食住も保証されている。それだけ聞くと贅沢だが、従者なりの苦労が山ほどあるだろう。プライベートな時間もないしね。
「王族の方がお付きの人がいそうなものだけど、一緒に日本に来なかったの?」
ランスはわざとらしく肩をすくめた。
本当に本国では厄介者扱いらしい。
準備の指揮をとっていた猿渡さんがこちらに気づき、するりと近づいてきた。
その様はまるで液体の表面張力のようで、忍がいたらこんな風に動くだろうと思った。
「お三方。どうなさいました?」
「少し様子を見に来ただけだ。気にしないでくれ」
「左様でございますか……」
鷲のような鋭い目が私をじっと見つめてくる。
「わ、私の顔に何か……?」
「いえ。失礼いたしました。聡様、しばらく広間にはいらっしゃらない方が良いでしょう」
「何かあったのか?」
「北条様が到着されます」
キュッと床の擦れる音が響いた。
それは聡が後ずさった音だった。
北条、北条か……。
友人は動揺しているが、さっぱり聞き覚えのない名前だった。これまた由緒のありそうな苗字だが、財閥系ではないだろう。
聡のおかげで私の耳に入る情報が多くなったが、少なくとも玲海堂では聞いたことがない。
もしかして、ライバルグループの人間とか? しかし迷惑とは思っても、ここまで嫌悪をあらわにするだろうか。
黒川さんがパーティーに来ると伝えたときより渋い顔をしている。
「巴が招待したとは思えないが」
「ええ。ですがどこからか聞きつけたようで。先ほど電話がありまして、そろそろ到着すると。本当に困ったお方です」
「まずいな。これじゃあ安心して壁の花になれない」
どういうことか分からず、ランスにアイコンタクトを送る。
すると爽やかな笑顔とウインクで返された。違う。そういうことじゃない。
「ひとまず、人目のつかない場所に避難してください。黒川様が最も危険です」
「えっ?」
「サリン。北条はマジでやばい奴なんだ。行くぞ」
「ええっ?」
説明を聞く暇はなかった。
聡に腕を掴まれて、強引に連れて行かれる。
彼は早歩きのつもりだろうが、歩幅の小さい私は半ば引きずられていた。
追いつくだけで精一杯だ。
靴裏とカーペットの摩擦が熱になっていく。
見とがめたランスが彼を止めた。
「聡、レディの扱いがなってないな。エスコートする気がないなら僕がサリンちゃんの手を取る」
すると聡がぱっと手を離した。
ランスを相手にするときの力加減だったのだろう。ほんのりと手首に残った跡がじんじんと痛む。
「悪い。気が回らなかった」
「大丈夫だよ」
「もう! 女の子を連れて急ぐなら、お姫様抱っこくらいすべきだろ! 君らしくないな!」
ランスがぷりぷり怒っている。
いつもの聡でもそこまでしないだろうが、確かに今の行動は彼らしくない。
日頃から気遣いができて、男女の体格差をよく分かっている友人だ。一緒に歩くときも歩幅を合わせてくれるし、自然にエスコートもする。
今ではすっかり慣れたが、言動があまりに紳士的で、ちょっと気味が悪いと思っていたほどだ。
そんな彼がぞんざいに振る舞うということは、よほど焦っているのか。
「北条って人、そんなに危ない人なの?」
「ああ。向こうで話そう」
私が危ないということは、もしかすると黒川さんに恨みのある人間かもしれない。
決して他人事じゃない。
今度はランスの手を取ったが、お姫様抱っこは丁重にお断りした。




