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捌拾参

 

 都会の夜の匂いが好き。


 見つからないように車の窓を開ける。

 一センチもないような小さな隙間から空気が舞い込み、私の前髪をちらちらと揺らした。

 リヤドの夜も、東京の夜とそう変わらない。



 一体どんな顔でハーディさんに会えば良いんだろうーーという心配は杞憂に終わった。

 誘拐した人間の家に戻るわけがない。

 車が停まったのはホテルの前だった。


 帰国前に直接お会いして、二週間の滞在のお礼を言いたかった。

 二度の誘拐の原因はラシード家にあるが、ハーディさんが悪いわけじゃない。彼は私を孫娘のように可愛がってくれたし、あの豪華なおもてなしのためにどれほどお金が飛んだのか、考えるだけで気が遠くなる。


 だからせめて、手紙や電話で挨拶をしたい。

 後で後藤さんに聞いてみよう。



 私を気遣ってか従業員との接触は最小限で、一行がまず向かったのはホテルカウンターではなく、エレベーターだった。

 黒川さんの淀みない歩き方を見て、彼はここにきたことがあるのだと思った。

 接待に使われたのか、このホテルで調印したのか、はたまた以前泊まったことがあるのかーー。



 十七階のスイートルームからの夜景は実に素晴らしかった。

 しかし私が絶景を目に焼きつける前に、黒川さんがカーテンをすべて閉めた。覗きを気にしているわけではないだろうが、きっと何かが嫌だったんだ。


 いつもなら「夜景が見たいな〜」と可愛らしくアピールして再び夜の街とまみえるが、今の彼に逆らいたくなかった。



「ありがとう」


 スーツを脱ぎ始めたので、ジャケットをかけるためにハンガーを渡す。やはり高級ホテルのハンガーは肌触りが違う。


「落ち着きましたか?」


 ゆっくり、彼の深淵のような瞳を見返した。まるで全てを見透かされているような気分になる。

 なのに私は、彼が怒っているのか心配しているかすら分からなかった。こんなに感情豊かな人なのに私は何一つ読み取ることができない。


「ええ。でも、疲れました。今日はもう寝ます」

「……そう」


 何か言いたげな風を吹かしていた。

 こういうときは聞いてあげた方が良い。


「どうかしましたか?」

「……あの二人のこと、心配しないんですね」


 突拍子もない言葉だった。

 そしてあろうことかーー私の目が節穴になってしまったのかもしれないがーー悲しんでいるように見えた。

 私は驚きのあまり返事ができなかった。



 貴方の、貴方のためにそう振る舞っているのに。



 黒川さんは、私が他人に関心を向けることを嫌う。

 それは普段の彼の言動からも明らかだし、無二の親友である後藤さんも保証している。


 これは彼の信条に反する態度だった。



「いえ。まぁ……心配なんてしてほしくはないんですが」

「じゃあどうして聞いたんですか」

「さあ。……どうしてでしょう」


 心配していないわけがない。


 あの大怪我で死んでいないか。病院に間に合ったか。きちんと治るのか。五体満足でいられるのか。

 胸がはちきれんばかりに不安が募っている。


 彼がここまで言うということは、よほど私の演技が上手かったのだろう。

 こういう嘘ばかり得意になるなんて。必要なことなのに嫌になる。



「寝る前にシャワーを浴びた方が良いですよ。あの男の香水の匂いがします」

「あっ、はーい……」

「着替えは外に置いておきますね」


 今すぐ泥のように眠りたかった。

 だが黒川さんの言うことはゼッタイだ。


 彼は犬かってぐらい鼻がきく。

 私にはアーデルさんの香水の匂いなんてしないし、そもそも彼が香水をつけていたかさえ覚えていないほどだが、同衾相手は気になるらしい。

 しかし朝シャワーを浴びる時間があるか分からない。寝る前に温まった方が良いだろう。



 服を脱いでバスルームに入り、何十分もかけてシャワーを浴びた。冷え切った身体に熱が染み渡る。

 あの誘拐も水に流して……とはならないか。


 バスタオルを胸のところで巻いて外に出たが、そこには一枚のバスローブがあるだけだった。

 着替えを任せたはずだったが、下着も寝巻きも何もない。

 あの人に下着を持ってきてもらいたいかと聞かれれば「否」だが、それにしたってバスローブだけはないだろう。


 それでもタオル一枚よりはマシだ。



「出ましたよ」

「おおっ、これはまた……」


 おおっじゃないよ......。

 睨みつけながら着替えの入った鞄を漁ろうとするーーが、その前に彼に捕らえられた。


 姫抱きされた状態で、ベッドの上で彼の膝に乗る。

 私がもっと幼ければ犯罪チックな光景だったろう。しかし人より成長の早い私の身体は、大人の女性と遜色ない肉体を手に入れていた。

 もしこれが恋愛映画なら、もしくは全く事情を知らない第三者が目にしたならばーーこの状況は愛し合う男女のワンシーンに見えたに違いない。


「サリン」


 耳元で話さないでほしい。

 くすぐったくて身をよじる。


「最近ますます綺麗になりましたね。もうすっかり大人の女だ」

「まだ十六歳ですよ」

「そう見えないから困るんです」


 彼の左手が、私の太ももをざらりと触る。


「サリンを狙う、ラシードの長男のような輩がきっとこれから山ほど出てくるでしょう。特に(こちら)側の人間は厄介だ。私みたいにねちっこい男が多い」


 自覚しているのか。なら改善の兆しを見せてほしい。


「今回みたいに出遅れることが増えるかもしれない。ラシードの長男(あれ)はまともな部類だったから良かったですが、女に人権がないと思っている連中も多い。後藤は見た目ほど護衛に向いていないし、サリンもなかなかどうしてお転婆だ。気がつくとすぐどこかに行ってしまう。今後も避けられないトラブルがあるでしょう。私は胸が張り裂けそうです」


 お耳が痛うございます……。

 ずっと家に引きこもっていればそんな心配もないんだろうが。


「外に出たい」「学校に行きたい」というのは私のわがままだ。

 黒川さんはずっと私を閉じこめたがっている。しかし最大限私の願いを叶えようと、歯軋りしながら許してくれる。これは彼なりの優しさだ。



 じゃあ私が外に出たいなんて言わなければ、誘拐なんて起きないし、後藤さんも怒られないし、黒川さんも、平穏に過ごせるのかな……。



 ーーいけない。


 私はどうにか、自分の頭に浮かんだ考えを振り払う。


 彼の口車に乗せられるところだった。

 ここで言質を取られれば、私は死ぬまで陽の光を浴びられなくなる。




 黒川さんは私の言葉を待っているようだった。


 やがて無言を貫く私に痺れを切らしたのか、苛立ちを隠すこともせず乱暴にベッドに組み敷いた。


 私はバスローブで、生物学的に敵うはずもない相手に圧倒的な優位を取られている。

 襲われる一歩手前の絵面だ。


 しかし日頃から臥し所を共にしている(読んで字の如く)男が相手だと、もはや恐怖もクソもない。

 スタンダードなサリンちゃんなら一発股間にローキックをくらわせてやるところだが、今は大人しくしておいた方が良いだろう。


「……抵抗しないんですか? 私、嫌がるところを無理やり……っていうシチュエーションが好きなんですけど」

「知りません!」

「初めは恥ずかしくて抵抗していたサリンが徐々に私に解されていき、最後には自分から……ふふ……」



 まーじでキモい。

 今までしょっちゅうセクハラされてきたが、ここまでダイレクトに言われたのは初めてだ。

 紳士の体裁をどうにか保っている変態だと思っていたが、もう性癖を隠しさえもしないのか。私のことを何だと思っているんだろう。


「へっ、変なことしませんよね!?」

「どうしよっかなぁ。ああかわいい……ちょっとだけ、ちょっとだけここ、めくっても良いですか?」

「ダメダメダメ!」


 ちょっとマジっぽいのが怖い。

 彼は私が本気で嫌がることはしない。しないはずだ。しないんじゃないかな。しないと良いな……。

 少し自信がなくなってきた。


 しかし、しかしだ。

 彼が私に並々ならぬ情欲を抱いているのは確かだが、今日まで数年間、私は一度も手を出されていない。

 同衾している時点で覚悟していたが、”際どい部分に一瞬触れる”みたいな中学生レベルのことしかされていない。


 つまり私が求めない限り、彼が私を抱くことはない。それだけは断言できる。



「私ね、思ったんです」


 と黒川さん。


「これからサリンがさらわれて、こうやって男に襲われることもあるでしょう。サリンは女で、相手は男だ。逃げられますか」


 ぐっと両手首を押さえられる。逃げられっこない。

 路上で襲われて助かったケースは運が良かった。相手が小柄だったり、近くに武器になるようなものがあったりしたおかげで、どうにか抵抗できた。

 しかし黒川さんのような若くて健康な男が相手だったら、きっとなす術もなく……。


 私は首を横にふる。


「でしょう? もちろん、誘拐対策には万全を尽くしますし、誘拐されたとしても全力で助けに行きます。……でもそれでも、万が一ということがある。私はそれが怖くて仕方ない」


 所詮は女だ。金的を得意技にしていても、逃げられないときがある。

 玲海堂のアレもそうだった。

 しかし彼が何よりも恐れているのは、そんなちっぽけなことではないような気がした。


「……何か別の不安があるんですか」

「お見通しですね。……サリンは、私から離れていきませんか?」


 百回目の同じ質問にも、私は強い決意をもってうなずく。

 いつもならこれで終わる。

 しかし、彼はまだ満足しない。


「……今回の誘拐は巧妙でした。手引きした者が早く口を割ったから良かったものの、GPSは機能しない、逃亡ルートも何もかも不明ーー本当に焦りました」


 アキレスさんは最後の詰めが甘かったわけだ。


 もし彼がもっと慎重で、かつアーデルさんに私を無理やりにでも妻にする意思があれば、きっとあの目論見は成功していただろう。

 自分が小さな偶然でここにいるのだと痛感する。



「もう二度と会えないかと思った」



 目の前の彼が、今にも泣き出しそうな子供に見えた。

 母親の姿が見つからず、真っ暗な闇の中、ひとりぼっちで彷徨っている子供。

 ……彼は何十年も彷徨っている。今さえも。



「不安なんです。サリンが消えてしまうことが。私は愛よりも強い鎖が欲しい」



 彼はその大きな手で、私の頬を包み込んだ。



「誰かに取られる前に、貴女を私だけのものにしたい」




 この人はもう、言葉だけでは満足できない。




「サリンの”初めて”を、私にください」







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