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捌拾弐

 

 アキレスさんが妨害電波を解除する傍ら、アーデルさんのスマホを借りて後藤さんに電話をかけた。

 黒川さんに直接かけるのは憚られた。

 彼が冷静に話を聞けるわけがない。後藤さんから間接的に情報を受け取る方が良いだろう。


 番号を押す手が震えた。

 柄にもなく怖い。私の一言二言で、数時間後に二つの命が失われるかもしれない。肩にのしかかる責任があまりにも重かった。


 ワンコールで後藤さんが出た。


 《もしもし、後藤です。何か分かりましーー》

「後藤さん!」


 電話相手をアーデルさんだと思った後藤さんの言葉を遮り、声を上げた。


『サリンちゃん! 何でラシードの長男の電話に……』

「私は無事です」


 私から視線に気づいたアーデルさんは、安心させるように大きく頷いた。

 胸につっかかるものを無視して、電話越しに全てを説明した。


『そうか。ラシードの長男の従者が……やっぱりな』

「”やっぱり”?」

『手引きした出入りの業者が吐いた。マフィアのトップって怖ぇな。当主だってのに直々に拷も……いや、詳しくは言えねぇけど、こっちでも目星はついてた。ただ居場所が掴めなかったから、動こうにも動けなかったんだ』


 言葉も出なかった。

 そうか、最初から誤魔化すことなんてできなかったんだ。


 電話のかける前のやりとりを思い出す。


 ーー嘘? いいや、必要ない。事実を全て話してくれ。

 ーー二人とも殺されますよ。

 ーー構わない。従者の不始末は主人の責任だ。

 ーーでも貴方がいなくなったらラシード家が……。

 ーー弟がいる。身体が弱いが、俺よりずっと優秀だ。


 何度も引き下がったが、彼は聞いてくれなかった。


 黒川さんに対する切り札でもあるのだろうか。彼を黙らせるような何かがーー。

 そんなものはないように思えたが、そうだと強く信じ込むことで自分を納得させた。


『今すぐ向かう。そこから動かないで』

「あの……」


 電話を切りたくなかった。

 切った瞬間、時限爆弾のように二人の死へのカウントダウンが始まるような気がした。

 これを引き伸ばすことが彼らの命を長引かせるのではないかと。


 深く息を吐く。

 慌てるな。大丈夫。

 黒川さんに懇願しよう。せめて殺すのだけはやめてもらえるよう、全力を尽くそう。そのためならキスだってするし喜んで靴も舐める。


「……何でもないです」



 終了の通知音がやけに大きく聞こえる。こんなに不快な音だっただろうか。

 スマホを返そうとしたが、手に力が入らず床に落としてしまった。


『大丈夫か? そんなに気に病むな』

『……逃げてください』


 消え入るような声だった。しかし彼にははっきりと届いた。


『ラシードの男が逃げるわけないだろう。俺はお前の兄に謝罪し、責任をとる。死んで許されるなら死のう』

『そんなこと言わないでください! ……私、貴方に死んでほしくない』

『お前にそう言ってもらえるなら悔いはない。俺のことを一生覚えていてくれるか?』


 当たり前だ。忘れられるわけがない。

 自ら死に歩み出す彼は、今まで見た中で一番生き生きとしていた。


『なぁサリン。もし違う出会い方だったら、もし違う立場だったら、俺たちが一緒になる未来はあったと思うか?』

『……あったかもしれませんね』

『だったら嬉しいな』


 この異国の青年に惹かれるものがなかったかと言われると、案外そうでもない。

 私も彼のことが少し好きだったし、もし私が黒川さんの妹ではない、かつての赤城佐凜()だったら彼の求愛を受け入れたかもしれない。


 しかし私の身体には彼の毒が回っている。

 脳を麻痺させる甘くて苦い毒が、時間をかけてゆっくりと全身を蝕んでいる。



 迎えがくるまでの時間。


 彼らが死んでも死ななくても、これが私たちの話せる人生最後の時間だ。

 ほとんどがアーデルさんの独白で、私とアキレスさんはそれを黙って聞いていた。

 将来この会話の内容をどれほど覚えているかは分からない。アーデルさんがトマト嫌いだという衝撃の告白さえ、きっとすべて忘れてしまうだろう。


 それでもこの穏やかな時間の記憶だけは、絶対に、忘れない。

 それが彼のためにできる唯一のことだ。



 ここは郊外にあるアーデルさんの別荘。

 ラシード邸から車を飛ばせばそれほど遠くない。

 電話から一時間も経たないうちに、別荘の外がにわかに騒がしくなった。まだ銃声は聞こえない。


 私たちは黒川さんを待ち受けるべく、別荘の玄関ホールで待っていた。

 関係のない使用人は危険が及ばないように退避させている。



 扉を突き破って侵入した黒川さんは、両手に見覚えのある武器をもっていた。

 続く数人の部下も完全な武装状態にあり、まるで軍隊が攻めてきたようだった。


 彼の血走った目が二人を捉える。



「黒川さん、ダメ!」


 私が黒川さんに抱きつかなかったら危なかったかもしれない。

 すでに銃口が二人に向いていた。


「離れなさい。俺は、そいつらを、殺さなければならない」

「私は何もされていません!」

「はっ……そういう問題じゃないだろ!」


 ただの言葉が私を物理的に突き飛ばした。驚きのあまり棒のように立ちつくすしかできなかった。


 出会って初めて、黒川さんに怒鳴られた。



 彼も自分の行動にショックを受けたようで、しばし動けないでいた。

 しかし微かに後悔にも似た表情を見せると、すぐ取り繕ってアキレスさんに銃を向けた。


 離れた私にも聞こえるほど荒い呼吸。いつもなら怒っているからだと判断するだろう。

 しかし今日はなぜだか、酷く動揺しているからのように思えた。私に怒鳴ることがそれほどまでに心を乱すことだったのか。


「まずはお前からだ」

「やめーー」


 制止の声を上げたときには遅かった。


 三発の、鼓膜が割れそうなほどに大きな爆発音。すべて命中し、服にできた穴から血液が吹き出す。

 見なければと顔を上げたのは私だが、アキレスさんの苦悶の表情に自分まで追い詰められる。

 止めなければと分かっているのに足がすくんで動けない。


 《これは慈悲だ。殺さず生かしておいてやる。せいぜい苦しみながら死の淵まで観光してくると良い。……次はお前だ、アーデル・ラシード》

 《謝罪する暇さえいただけないのかな》

 《そこまでする理由がない。お前の罪は明白だ。サリンに好意を寄せた。それだけで万死に値する》

 《死神がそう判断するなら止むない。受け入れよう》


 いつの間にやってきた後藤さんが私を強く抱きしめ、そのまま床に座り込む。

 私をこうして抱きしめるのは、慰めのつもりか、それとも私を動けないようにするためか。


 耳元で小さく、「ごめんな」と聞こえた。


 どうして彼が謝るんだ。誰も悪くないじゃないか。

 誰も悪くない。

 ……違う。

 全部私のせいだ。


 《俺は銃よりナイフの方が好きだ。殺傷性が低くて仕留めにくいが、確実に苦痛を与えられる》

 《じゃあ銃が良いな》

 《そう言われるとナイフを使いたくなるが……サリンの前でメッタ刺しは気がひける。良いだろう。主人なら従者と苦しみを分かち合うべきだからな》



 撃鉄。



 《せいぜい、あの子に目を奪われた過去の自分を恨むが良い》



 聞こえた銃声は一回だった。


 しかし続く鈍い音が、彼へ与えられる罰の生々しさを伝えてくる。

 これは聞き覚えがある。取り立てにきたヤクザに暴行される父の姿を思い出した。

 そうだ。これは人を蹴る音。


 人の尊厳を奪う音だ。



 黒川さんは何発も蹴り、殴る。

 誰かの嗚咽が、むせ返るような鉄の匂いと一緒に私にすがりついてきた。


「ぅ、ぁあ……」


 何もできない自分が何よりも憎い。

 後藤さんの腕の隙間から見えたアーデルさんの姿は、ゾッとするよほどおぞましいものだった。

 手足がおかしな方向へ曲がり、血が湖面のようになって彼の姿を反射している。黒川さんは顔を執拗に狙ったのか、美しく整った顔が大きく変形していた。


 そんな彼にとどめを刺すかのように、黒川さんは大きく足を振り上げた。


「やめーーんんっ!」


 叫ぼうとした瞬間、後藤さんに口を塞がれた。

 どうして止めるんだ。早く助けないとあのままじゃーー。


 上がった足は容赦無く振り下ろされ、アーデルさんは痛みに唸るどころかぴくりとも動かなくなった。


 後藤さんが耳元でささやく。


「サリンちゃん、ダメだ。今サリンちゃんが庇ったら二人は確実に死ぬ」


 そんなこと分かってる。下手な言い訳や庇い立ては、火に油を注ぐことになりかねない。

 じゃあ私はどうしたら……。

 まだ死んではいないだろう。けれどこのまま放置すればそれすら危うい。すぐに適切な処置をして病院に運ばなければまずい。



「……少し汚れました。手を洗ってきます」


 声だけが聞こえる。きっと返り血を浴びているだろう。

 黒川さんが奥へ行ったことを確認すると、すぐにアーデルさんに駆け寄った。

 興奮のあまり自分が過呼吸になっていることに気がついた。


『アーデルさん。私のこと分かりますか?』


 返事はないが、脈はある。

 どうやら気絶しているようだ。後藤さんはすぐ離れるように言ったが、私はどうしても動けなかった。


「大丈夫。大丈夫だから。立つんだ」


 こんな状態で大丈夫なわけがない。しかしこのときの私には、そんなことを考えている余裕がなかった。

 持ち上げられるように立たせられ、足がカカシのようにぶらりと揺れる。


「良いかサリンちゃん。組長はすぐに戻ってくる。……頼む、こいつらの命を乞うような真似だけはしないでくれ」

「でもそれじゃあ……。後藤さんは大丈夫なんですか?」

「俺は平気だ。もうみっちり怒られた」


 何でもない風に彼は答える。


「良いか、もうハーディの旦那と話がついてる。絶対に殺しはしない。だからサリンちゃんはいつも通りに過ごすんだ。こいつらを気にかけていることを悟られないように」


 うつむくと赤い足跡が目についた。

 ねっとりした質感が水飴を思わせる。



「サリン。怪我はありませんか?」


 顔や手を洗い、服まで着替えた黒川さんは、今までに見たことがないほど優しく微笑んでいた。しかし奇妙な違和感がある。

 いつもなら安心できるはずなのに、吐き気を催すような不安に襲われた。


 しかしそれを顔に出さないように、後藤さんに言う通り、いつものようにーー


「大丈夫です。心配かけてごめんなさい」

「本当に心配しました。でも貴女が無事で良かった。……さっきは乱暴な言葉を使ってすみませんでした」

「良いんです。聞き分けのない私が悪いんですから」



 私は笑い返した。



 心を殺すことが、それほど難しいことではなくなっていた。





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