漆拾玖
いつもの温かな毛布に包まれて目覚めることの何という幸福。これを当たり前のものと思ってはいけない。
年一ペースで誘拐されるもんだから、平穏で普通の日々のありがたみを半強制的に痛感させられる。
昨夜の黒川さんは妙にしおらしかった。
帰ってきた私を無言で抱きしめ、いつものようなふざけたことは言わず、眠りに落ちるまで静かに隣にいてくれた。てっきり半狂乱で暴れまくっているかと思いきや、意外と落ち着いている。
この人はやはり、私の扱い方をよく心得ている。
誰が誘拐の責任を取らされたのだろうか。
それは黒川さんとハーディさんが決めることで、私が口出しできる問題ではない。願わくば、誰も処分を受けませんように。
少なくとも今朝の後藤さんはケロッとしていて、怒られて落ち込んでいるようには見えなかった。
「サリンちゃん。これ」
空っぽの胃袋にトーストを詰め込んでいると、後藤さんが何かを持ってきた。
黒川さんは仕事で今朝もいない。本当は今日は休みのはずだったのに。
おそらくシドラの後処理に黒川さんも動かなければならないのだろう。私のせいでごめんなさい......。
「黒川さんからですか?」
受け取ったのは三本の薔薇。
ワインレッドのリボンでまとめられた美しい花束だ。
黒川さんにしては珍しい贈り物だ。「自分の贈った物が朽ちるのは不愉快です」とか情緒のないことを言っていた気がするが。
「いーや」
「えっ、じゃあ後藤さん? ダメですよ。黒川さんにバレたら大変なことに……!」
「違う違う! 俺の好みはハリウッドセレブみたいな金髪グラマラス年上美女だから!」
「......冗談ですよ」
いらん好みを聞いてしまった。
黒川さんも後藤さんでもないとなると、残る候補は一人しかいない。
「アーデルさんですね」
「よく分かったな。厨房からジャムもらってきた帰りに、サリンちゃんに渡してくれって言われてな。薔薇三本ってどういう意味だっけ?」
「……」
確か、”愛しています”だったか。
花言葉が何であれ、告白まがいの贈り物であることは間違いない。
うん、後藤さん。それ燃やしといて。
「俺が処分しとくよ。それにしても……」
後藤さんがニヤつき始めた。
まるで同級生カップルを冷やかす中学生のような、浅はかな悪の笑み。
「ラシードの長男と何かあったろ? 組長には絶対言わないし、この会話が誰かに聞かれてるってこともないからこっそり教えてくれよ」
「うーん……」
彼は黒川さんが怒るようなことをなるべく伝えない。
完全な味方ではないが、結果的に私にとって有益な言動を働くことが多い。
アーデルさんは「心変わりさせてやる」と言っていた。きっと薔薇だけじゃなくて、もっと直接的で強烈なアプローチを仕掛けてくるだろう。
そんなときに後藤さんが守ってくれたら安心だ。
「実は……」
アーデルさんに思いを打ち明けられたことを話した。彼も人には知られたくないだろうから、言葉の詳細までは言わなかったが。
後藤さんは特別驚きもせず、
「やっぱりな。長男のサリンちゃんを見る目、妙に熱っぽかったんだよ」
「諦めないって言われたので、近づいてきたら追っ払ってもらって良いですか?」
「ははっ。モテると大変だね。分かったよ」
***
私の嫌い人間ランキング堂々の一位は「しつこい人」だ。
ストーカーやらいじめやらと、何かにつけてしつこい人間が多い人生だが、絶対権力(警察、なんちゃら川さん等)によって撃退されてきた。
拒否してもまた戻ってくるなんて鳥肌ものだ。
母ライオンは子ライオンを崖から突き落とすというが、私の拒絶はそんな根性見せろ精神によるものじゃない。
「お付き合いできません」は完全なる拒絶の言葉。照れでも何でもない心からの言葉だ。私だけでなく、告白を断る女子の多くにとってそうだろう。
『えーっと……アーデルさん』
それでも、直接的な言葉でないと伝わない人がいる。
『もう関わらないでください』
『会いにくるのも……ダメか?』
『ダメです!』
いや、今のなし。
訂正しよう。直接的な言葉でも伝わない人がいる。
ジャズを聴きながら読書と洒落込む昼下がり。
後藤さんが持ってきてくれたアイスフロートを飲んで涼をとっていた。
アムリタの副作用だけが気がかりだったが、朝から目立った体調の異変はない。
しかし昨夜の異様な体験をそう簡単に忘れられるはずがなく、ふとした瞬間に恐怖の感覚が蘇る。
それでも口内を甘いもので満たすときだけは嫌なことを全て忘れられた。
そんな心の回復を図る昼下がりは、侵入者によって乱された。
『サリン。調子はどうだ?』
ノックしたからって入って良いわけじゃないからな。
鍵をかけない後藤さんもどうかと思うが、部屋の主人の返答なしにずかずか踏み込むアーデルさんも中々イカれてる。
敬虔なムスリムは女性の部屋に入ってこないという常識を覆された。
よし後藤さん、お引き取り願え。
『すみません。流石に俺が怒られますので』
「そうだそうだ。出ていけ!」
『そうだ。薔薇は受け取ってくれたか? この部屋には置いていないようだが」
「……」
「……」
2人して黙り込む。察してください。
あの薔薇たちは天に召されたが、口に出すのはあまりにも惨いということでだんまりを決め込む。
やがてアーデルさんは言い訳が返ってくるのを諦めたのか本題に入った。
『リヤドで今流行っているチョコレート菓子だ。甘いものが好きだったろう』
……スイーツなら受け取らない理由がない。
そっけなく礼を言って頂いた。受け取らないのが最善手なんだろうが、流石にそれはチョコレートが可哀想だ。
せっかく世の中に生まれ出たのだから、私が食べてあげないと。
『読書会なら俺もお邪魔しても良いかな。いつもは一人で読んでいるんだが、人の一緒なのも悪くない』
『えーっと……アーデルさん』
言いにくい。言いにくいが言うしかない。
はっきり言うんだ私! 私の脳内の婉曲回路よ、今だけ消え去れ!
『もう関わらないでください』
言っちゃった……言っちゃったよ……本当にごめんなさい。傷ついたかな? ちょっと言いすぎたかもしれない。
『会いにくるのも……ダメか?』
『ダメです!』
黒川さんにバレたら一大事だ。
ラシード家は黒川の大切な仕事仲間だ。部外者の私的な問題でそれを潰されては両者困るだろう。
『……分かった。今日のところは退散しよう。お前の兄によろしく伝えておいてくれ』
まるで嵐のような訪問だった。
ドアの隙間から見えた悲哀の表情が私の罪悪感を掻き立てる。
黒川さんも、ああいう細やかな感情表現ができるようになったら良いんじゃないかな。
無表情な人が見せる笑顔ってのは、それはもう強烈に魅力的だ。やはりギャップがなければ。
微笑み標準装備の黒川さんが笑っても、もはや何の新鮮味もない。
そういうわけで、
「黒川さん。笑顔止めません?」
「えっ? 何言ってるんですか」
何だか久しぶりにまともな会話をしているような気がする。
最近彼は仕事につきっきりで、私と過ごせるのは夕食から就寝までの数時間。
疲れの解消が優先で、こうやってゆっくり座っておしゃべりする機会はそうそうなかった。
「言い方が悪かったな……ギャップ萌えって知ってます?」
「不良が猫を拾う、みたいなことですよね?」
「そうです! さあ黒川さんもやってみましょう! 普段は無表情にして、ふとした時に笑顔!」
「普段は笑顔で優しくて、ふとした時にナイフを取り出す。おっ、ギャップ萌え」
それは違う……!




