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漆拾漆

 

 そうして話は冒頭へと戻る。


 外は夜の帳を下ろし、少し肌寒さすら覚える。

 場所は中心街から離れているのか、遠くの明かりばかりがはっきり目立つ。しかし月明かりは逃げるのに十分な光量で、アーデルさんは迷うことなく進んでいく。


 やがてさらに奥の路地へ入り、私は小さな家に押し込められた。


『悪いが、しばらくここで隠れていてくれ』


 私の返事も待たず彼は去って行った。

 まるで鼻血の後のような不愉快な残滓。今だけ鼻をもぎ取りたい気分だ。


 血まみれの男にしがみついていたら当然私も血まみれになる。ハーディさんにもらった純白のアパヤが殺人現場のベッドシーツさながら。

 すぐに洗ったら落とせるだろうが、あいにくここには大量の水も洗剤もお酢もない。


 まるで物置のような家だが、タンスやベッドなど必要最低限の家具はある。しかし埃が積もっていてとても横たわる気にはなれない。

 向こうのドアを開けてみたが、ただのトイレだった。

 人家に不法侵入した、というわけではなさそうだ。


 アーデルさんはいつ戻ってくるんだろうか。

 シドラの連中が私たちを追ってきているだろう。彼がいない間に奴らに見つかったら……。


「待つしかないか」


 私一人が動いてもどうしようもできない。

 ベッドの埃を払い、どうにか座るスペースを確保する。真っ赤なアパヤは脱いでおこう。



 不安を打ち消すために思案する。


 どうして黒川さんではなくアーデルさんが助けに来たのか。

 黒川さんが私の居場所を把握していたら、何がなんでも自分で助けに向かうはずだ。ラシード家と情報を共有していたとしてもアーデルさんを行かせることはしまい。


 では黒川さんが誘拐のことを知らず、ラシード家が独自に動いていたら?

 それこそ次期当主たるアーデルさんに行かせることはしないだろう。黒川に恩を売りたいなら屋敷の個人的な武力をぶつければ良い。


 アーデルさんである必要がない。




 数分もしないうちに彼は戻ってきた。


 軽く息を切らし、変わらず人の血を浴びた姿のままで。しかし私に向ける視線は優しかった。


『無事で良かった。手荒に扱ってすまない』

『大丈夫です。お怪我はありませんか?』

『心配しないでくれ。全て返り血だ』


 確かに血が出るような傷の痕跡はなかった。


『少し待っててくれ。着替える』


 タンスからいくつか服を取り出して、トイレに入って行った。


 服の擦れる音だけが聞こえる。


 早く黒川さんと後藤さんの顔を見たい。お肉をお腹いっぱい食べたい。涼しい部屋の温かいベッドで寝たい。

 今日一日の待遇を考えると、日頃の自分がいかに恵まれていたかが分かる。

 人生で一番劣悪な誘拐環境だった。

 日本の誘拐は割と丁重なんだな……おもてなし精神が関係するのだろうか。



 清潔感のある服に着替えたアーデルさんに、何が起きて、何をされたのかの子細を伝える。


『アムリタを吸ったのか?! 痺れはないか?』

『もうないです。……有名なドラッグなんですか?』


 彼の瞳に強い怒りが滲み出した。固く握られた拳が震えている。


『吸引型の強力な幻覚剤だ。最近若者の間で流行り出して、我々も対処に困っている。……頭痛や手足の震えは? 視界がチカチカしないか?』

『だ、大丈夫です』

『ああ、すまない……こんな言い方をされたら不安になるな。普通は4時間くらい昏倒するんだが、すぐ目覚めたのをみるにかなり薄めたはずだ。それほど人体に影響はない。心配するな』


 ……専門家にそう言ってもらえて安心しました。

 アーデルさんの時計を盗み見る。もう夜の9時だ。誘拐のことを黒川さんに知られたくなかったが、流石にもう隠しようがないだろう。


『どうして私の居場所が分かったんですか?』

『個人的な監視をつけていた。最近、他組織の敵対行動が激しかったから、お前にまで危険が及ぶ可能性があった。こんなことなら無理にでも護衛をつけておくべきだったのに……本当にすまない』

『いえ……』


 彼は深く頭を下げた。


 ラシード家の護衛を断ったのは私たちだ。

 監視をつけた上での誘拐だからラシード家に落ち度があると言えなくもないが、それでも彼を責める気にはなれなかった。


『でも、アーデルさんのおかげで無事家に帰れます。ありがとうございました』

『……当然のことをしたまでだ。それにあそこはシドラの本拠地だった。頭を潰したからしばらく活動できないだろう。ちょうど良かった』


 あの名も知らぬ偉そうな男は、もしかしてシドラのボスだったのだろうか。


 私の誘拐と敵対組織の壊滅でプラマイセロ……いや、私を助けたからむしろプラスか? 

 でも黒川さんはごねそうだな。ややマイナスかもしれない。



 彼は硬い床に座り疲れたのか立ち上がった。

 そして少しばかり躊躇しながら、私の顔色を窺いながら隣に座った。

 そういえばイスラム圏だと、血縁にない男女が2人きりで同じ空間にいること自体好ましくない。まあ緊急事態だし、神様もお目溢ししてくださるだろう。


『じゃあ、あそこにはアーデルさんの仲間もいたんですね。全く気づかなかったです』

『いいや。単身で乗り込んだ』

『……は?! 一人で敵の本拠地に?!』


 黒川さんでもそんなことしないぞ。


 あの人は私を助けにくるとき、必ず部下を控えさせている。彼はあくまで先陣を切っているだけで、周囲には必ず後藤さんたちがいるのだ。


 黒川さんがが”替えのきかない人間だ”というのが一番の理由だが、それを言うならアーデルさんも替えがきかない。

 だって彼は、大富豪ラシード家の跡取り息子なんだから。


『怒られませんか?』

『さあ。普段はここまで無茶をしないから、もしかしたら怒られるかもな』

『……何でそこまで』


 私の問いに、彼はフッと笑みを浮かべた。

 その横顔があまりにも綺麗で、数秒かはたまた数十秒か、時間も忘れて見入ってしまった。

 私の意識を現実に引き戻したのは彼の一言だった。



『お前だからだ』



 ……ん?

 これはもしや......?


 真意を図りかね、慌ててアーデルさんを見返す。

 するとばつが悪そうに目を逸らされた。ほんのり頬が赤らんでいるのは、きっと気のせいではあるまい。


『サリン……出会って数日の人間にこんなことを言うのはまずいしれないが、その……』

『……』


 ええ。大いにまずいです。


 この甘酸っぱい空気感。

 私は人生で何度も味わってきたし、いい加減この味には飽きた。

 分かるぞ……この告白の気配。男子に呼び出されたら大方察しがつくが、救出後とは不意打ちだった。



『俺はお前を愛している』



 その真っ直ぐな言葉を、思わず脳内で反芻してしまう。



『手に触れても、良いか?』



 ここまで純粋に思いを伝えられたことがあっただろうか。


 すっかり成熟しきった彼が、10代の少年のように照れている。

 黒川さんがしない顔だ。

 ……ほら、何でもかんでも黒川さんと比べてしまうのが私の悪い癖だ。思いを打ち明けた彼に対して失礼じゃないか。


 告白は心を露出させる勇気ある行為。

 私は誠実であるべきだ。



『ごめんなさい。私、貴方とはそういう関係になれない』

『……そうか。すまない』



 黒川さんが聞いたら怒り狂うだろうとか、サウジアラビアと日本の遠距離恋愛はちょっと無理があるだろうとか、恋愛する気がないだとか、色々と理由はある。

 ほとんど黒川さんが理由だが、誠実な告白に対してそれは言い訳がましいか。


 本当の理由を言おう。


 この人は私とは神経が違う(・・・・・)



 数十分前まで、彼は他人の血を浴びていた。今でも鉄と硝煙の嫌な匂いが残っている。


 亡き母を思う優しい青年だと思っていた。いかがわしい商売をしているのは父親で、息子の彼は純真な、普通の人間なんだと。

 そんな彼は、たくさんの人を殺して私を助けにきた。もちろん感謝している。


 しかし同時にーーついさっき人を殺めておいて普通の顔で愛の告白をする彼が、()()()()()()()()()()()()()()



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