漆拾陸
ラナーさんは水と一緒に、”嗅ぐと気分が良くなる”というお香を持ってきた。
しかしついさっきスパイスの香りで昏倒させられたことを考えると、馬鹿正直に吸わない方が良いだろう。丁重にお断りさせていただいた。
この牢屋はとても窮屈だ。
私の座るベッドと、側に控えるラナーさん、そして燭台と水差しの載ったこじんまりした丸テーブルで格子の中はいっぱいだ。
ラナーさんと話しながらなんとか情報を引き出そうとしたが、警戒しているのかなかなか口を滑らせてくれない。
拉致されて、一体どれほどの時間が経ったろう。
後藤さんとはぐれたのは16時過ぎ。
腹の時計に聞いてみたところ、今はおそらく19時半ごろだ。いつも通りなら豪華な夕食に舌鼓を打っているころなのに……。
出て行ったラナーさんは、がたいの良い男を連れて戻ってきた。
貴族然とした男性で、中東の上流階級の空気をまとっているが伝統衣装を着ていなかった。何もかもを手に入れてきたかのような絶対的な自信が、顔の隅々にまで行き渡っている。
そのせいか、みすぼらしいわけでもないのに普通の服が浮いて見えた。
『アムリタはいかがだったかな。君はどんな楽園を見た?』
男は英語で尋ねた。
聞き慣れない単語に首を傾げる。
「……アムリタ?」
『楽園の実で作った香辛料だ。我々はそう呼んでいる。良い香りだったろう』
あのスパイスをそんな名前で呼んでいるのか。
楽園由来のドラッグなんて馬鹿みたいだ。神様きっと怒るぞ。
『私をさらった目的は?』
『……我々は、楽園の垣間見を可能にするアムリタを世界中に広めたい。それにはラシード家が邪魔なのだよ。大陸を薬物漬けにする悪徳の一族だ』
やっぱりラシード家カタギじゃなかった……!
それにしても、”楽園の垣間見”? あの幻覚が私の楽園だというのか? あんなリオのカーニバルみたいな楽園があってたまるか!
悪い人たちが潰し合うのは大いに結構。でも私を巻き込まないでくれ。
『それで私が人質に?』
『ああ。不自由あるだろうが、このラナーを好きに使ってくれ』
『私が無事に帰れる保証は?』
『それはラシード家の出方次第だ。まぁ女を傷つける趣味はない。五体満足で帰るか、苦痛なき死かーーこの二択だ』
手足を切られることはないのか。
しかし、だからといって安心できるわけではない。
『では私はこれで失礼しよう』
『私は食事を持って参ります』
***
男とラナーさん、2人が牢から離れてしばらく経つが、どちらも戻ってくる気配がない。
いい加減お腹が減った。
牢の中の物で脱出できないかと模索したものの、まともな小道具もスキルもない私がそんなことできるわけない。ものの数分で音を上げた。
ベッドにうずくまって助けを待つ。
黒川さんが来るのは1時間後か、はたまた1日後か……黒川さんだけの問題でないとなると、交渉に時間がかかるだろう。
GPSは正常に働いているから、私の居場所は分かっているはずだ。あの人のことだから痺れを切らして武力で正面突破してくるかもしれないな。
何かしらの異変が起きたら、黒川さんが来たと思おう。
しかし聞こえてきたのは爆発音でも銃声でもなく、崖崩れのような破壊音だった。
大砲に吹き飛ばされたかのように扉が吹っ飛び、全身を真っ赤に染めた男が入ってきた。狭い室内に埃と鉄の匂いが充満した。
砂埃で侵入者の姿がよく見えない。
「ケホッ、けほっ……」
《無事か?!》
それは覚えのある声だった。
彼の正体が分かったのは、視界がクリアになった十秒後のことだった。
悪者に囚われた女の子を生身で助けに来るなんて、まるで物語の王子様みたいだ。でも王子様はそんなに血まみれじゃない。
腕から胸にかけて真っ赤に染まっている。
顔に飛び散った血がすでに黒く凝固し始めていた。
《待ってくれ。すぐに鍵を開ける》
鍵をもつ手から赤い液体が滴る。
「アーデルさん……」
『怪我はないか? すぐに逃げよう』
他人の血で染まった手を握るのに、もう躊躇はなかった。
毎日投稿(笑)です。




