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漆拾伍

 

 意識を取り戻すと同時に、激しい頭痛にみまわれた。

 頭蓋骨の裏で何かが暴れているような痛みだった。おかげで思考がおぼつかない。


 視覚、聴覚、嗅覚は徐々に戻ってきたが、身体の感覚だけがどうしても掴めなかった。まるで幽霊になって浮いているみたい。

 自分の足がどこにあるのかも分からなかった。


 ただ確かなのは、ここが狭い牢屋の中で、私がベッドに横たわっているということだけだ。



『お目覚めですか』


 英語が聞こえた。

 黒いニカーブで目だけを出した女が牢の鍵を開けて中に入ってきた。逃げるなら今しかないと分かっているのに、身体がぴくりとも動かない。


『身の回りのお世話をさせていただきます。ラナーと申します』


 私は返事すらできない。


『あの薬には筋肉を弛緩させる副作用があります。あと30分もすれば良くなりますよ』

「……ぁ」


 あ、声が出た。

 するとラナーさんは目元だけでも分かるほどに笑顔をにじませた。そこには微かな憐憫が見えた。


 彼女の言う通り、次第に身体の感覚が戻ってきた。

 ラナーさんは私が身体を起こすのを手伝ってくれた。親切にしてもらったのに申し訳ないが、いざとなったらそこの椅子で彼女を気絶させて逃げるつもりだ。


 それにしても、ここは遺跡の地下牢みたいに古ぼけている。

 壁は劣化した煉瓦でできているし、格子は赤く錆び付いている。触れたら手にびっしり汚れがつきそうだ。全体的に埃っぽくて、天井の角には大きな蜘蛛の巣がある。

 ベッドシーツやマットは新しくて清潔だが、この環境はお世辞にも整っているとは言えない。


『ここはどこですか?』


 痺れを消そうと手足を揉みながらラナーさんに尋ねる。


『言えません』

『では貴方たちは何なのですか? 私を誘拐した目的は?』


 彼女は回答を迷っているようだった。

 私を意識を奪ったのは、あの焼き鳥のスパイスだ。一体何の薬を使ったかは知らないが、幻覚と幻聴、そして意識の喪失、副作用に筋弛緩……麻薬の一種と考えるのが妥当だ。

 私はずっとあの露店の真横にいて、スパイスを吸い込み続けていた。後遺症がなければ良いが。今のところ残った副作用は頭痛と手足の痺れだけだ。


『私たちは『シドラ』。貴方が誘拐された理由は知りません。私は世話役を命じられただけですから』


 聞き覚えのない名前だ。

 しかし組織による犯行、かつ世話役がわざわざつけられるくらいだから、ただの人攫いではないだろう。

 最初から私を誘拐するつもりだったはずだ。


 理由は何個も思いつくが、こちらの組織の名前が出てきたということは、ラシード家絡みの可能性が高い。

『シドラ』がラシード家に敵対する組織で、客人である私を誘拐したーーと考えると筋が通る。

 問答無用で殺されないで良かった。

 単純にラシード家を煽る目的なら、私は見せしめに殺されてもおかしくない。

 私が生かされ、丁重に扱われている(牢はクソ汚いけど……)ということはつまり、私に人質としての利用価値があるということ。

 交渉か脅しの材料に使われるんじゃないかな……五体満足で日本(おうち)に帰れるだろうか……。



 そんな考えが頭によぎり、不安が波のように押し寄せてきた。


 これまでの誘拐の多くが”黒川”でなく”私個人”を目的とした誘拐だった。だから誘拐犯は私を傷つけようとはしなかったし、殺されそうになったこともない。


 しかし今回は違う。

『シドラ』にとって私はただの人質だ。

 足の一本、指の二、三本は失う覚悟をしておいた方が良いかもしれない。


『サリンさん、気分が悪いですか? お水をお持ちしましょうか?』

『お願いします』


 ラナーさんが去って行く。

 鍵をかけ忘れないかと期待して見守っていたが、そんなドジは踏まなかった。


 自分の四肢が失われる想像をしただけで、急に身体の芯が冷えてきた。

 この臆病者。もっと気をしっかり持て。

 確実に生き残りたかったら『シドラ』の人間に気に入ってもらうしかないが、私に色じかけの才能はない。


 大丈夫。大丈夫。

 きっと黒川さんが、すぐに助けにきてくれる。


 そう自分に言い聞かせるだけで精一杯だった。





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