捌
「と、そういうわけで私は、夜の9時に帰ってきたのです」
家に着いた頃にはもうすっかりお夕飯の時間が過ぎていた。
波角さんがおしゃべり上手で夢中になってしまったいたのも、彼の歩調に合わせて家まで送ったのも遅くなった理由の一つ。
いや、私は悪くないと思う。人として当然のことをしたまでだし。多少危なかしかったけれど……。
腕を組んで、目だけ笑っていない黒川さん。明らかに怒っている。
いやはや、家に帰るや寝室に連行されて押し倒されたもんだからびっくり。
というか、黒川さんは事情を知っているはずでは?
後藤さんがずっと隠れて私の護衛しているんだから。
「後藤にも聞きましたが、貴女の口から直接聞きたかったんです」
左様ですか。
「人を助ける精神は褒められるべきことですが、肩まで組んで……羨ましい……。あまり知らない人間には近づかないでください。何があるか分かりやしませんからね。それに別の男の匂いが不愉快だ……。さて、そういうわけで、今夜は気の向くままに抱かせてもらいますからね」
ここで一つ留意しておいてもらいたいのが、この「抱く」という言葉が、決してやましいものではないという点だ。
いや、十分やましいけれど……。
***
「ああ〜、昨日はほんっと酷い目に遭った」
翌日の放課後。
私は昨夜のブラック黒川さんの悪夢を思い出しながら、重い足取りで校門を出た。この学校は部活が盛んなこともあって、前にいた中学と比べると帰宅部が少ない。
今日は終わったら真っ直ぐ帰ってこいとのお達しなので、仕方なく私は家路についた。本音を言うと、黒川さんと顔を合わせたくない。
ああもう、体が痛いったらありゃしない。
変なところを触られたりお説教されたりで、昨日は本当に疲れた。自分に非がないだけあって余計に恨み辛みが募る。
人通りの少ない通りに差し掛かると、目の前に大きな黒いバンが止まった。
何事だろうと足を止めた瞬間、車内から複数のサングラスをかけたスキンヘッドの男たちが出てきた。
「え、あの、ちょっと……」
何を言っているのか分からないと思うが、私も分からない。
もしや誘拐?と走って逃げようとしたが、すぐさま口にハンカチを押し当てられた。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
これは本当に、ドラマとか……で、ありがち、な、やつ……。
***
「知らない天井だ」
一度は言ってみたい台詞ナンバーワン。でもこの台詞を言うってことは何かしら良くないことが起こっているのは間違いない。
気がつくと私は全く見知らぬ場所にいた。
黒服たちに襲われたところまでは覚えているがーーうん、本格的に誘拐されたな。とりあえず自身の状態を確認する。
怪我を負わされた様子はない。
落ち着いて辺りを見回してみる。
私が寝かされていたのは冷たい床でも、硬いソファでもなく、天蓋付きの豪華なベッドだった。黒川邸でもここまでの代物はない。
窓はなく、ドア以外に外部へと繋がる道はない。
今までにも何回か誘拐されたことがあるが、随分と拘束が優しい。普通、もっとガチガチに縛りつけたり、声を上げさせないために猿轡をつけるものだ。
手首に鎖付きの拘束器具がつけられている。つまり、私はベッドに大の字に拘束されているわけだ。
この拘束を優しいと言い切るにはそれなりの経験を積む必要がある。まず幼少期から誘拐に慣れなければならない。まあ、この話はまた今度にしよう。
「おや、起きましたか」
どこかで聞いた声。
部屋に入ってきたのは若い男だった。
長い前髪を横に流し、黒川さんに負けず劣らずの美貌を露わにしている。
あれ、どこかで見たことがあるような……一体誰だろう?
「あの、どちら様ですか?」
すると男は顔をしかめる。
「誰って……まさか覚えていないんですか?」
「申し訳ないんですけど……」
何で私、誘拐犯に謝っているんだろう。
「昨夜お会いしたばかりですが」
昨夜? 昨夜会ったのは不良集団と波角さん……。
「な、波角さん?!」
「はい! 忘れられてしまったのかと思いましたよ」
「いや、雰囲気がかなり違うというか」
誘拐犯の癖に嬉しそうに笑うな!
でもそれにしても……。
「どうして誘拐なんて」
「笑わないでくださいね。僕、貴女に一目惚れをしてしまったんです。美しくて、優しい貴女に。でも貴女ほどの人に僕が相手をしてもらえるとは思わなかったので」
いや、全く笑えないんですけど。
一目惚れしたから誘拐って……。確かに彼みたいな人は少なくないが。
くそ……昨日の今日で誘拐されるなんて。
人から好意を向けられるのは嫌じゃない。
でも恋慕だけは別だ。
こんな方法で愛を表現しないでください。せめて花とか手紙とか、何か私に害のない範囲にしてくれ……。
拘束器具までつけてるんだ。
きっと彼も、私を手込めにするつもりなのだろう。あの人たちみたいにーー
だけど私はもうただの子供じゃない。
抗えるだけ抗ってやる。
「お願いします。早く帰してくれないと、黒川さんが……」
「その黒川さんというのは、一体何なんですか? 昨日の話にも出てきましたが」
「兄です。義理ですけど。えっと、そんなことはどうでも良いんです。波角さん、私、貴方のことを結構好ましく思っているんです。だからこんなことは止めて、まずは親しいお友達から始めませんか」
「いや……」
「お願いします。早く家に帰らないと、また説教されてベッドの中で……い、いや、今のはナシ」
「ベッドの中で?!」
この人は今、壮大な勘違いをしている気がする。
もう良いや、面倒臭い。どうせ訂正しても聞いてくれないでしょこの人。
話を聞いてみると、実はこの人、あの有名な波角財閥のお坊ちゃんらしい。道理で高級住宅街に家があるわけだ。
ーーと、今はそれどころじゃない。
「許せません! 義理の兄という立場を利用して……ちょっと、お兄さんを殴ってきます」
「だ、ダメです! 行っちゃダメ!」
「え?」
「兄は黒川組ーーヤクザの組長なんです。行ったら殺されますよ」
いくら誘拐犯でも、死んだら寝覚が悪い。
いや、殺された方が私が助かるのか……? いやいや、殺されて良い人なんていないし……。
彼は私の言葉に驚いた様子だったが、すぐに微笑んだ。
「大丈夫。貴女は無理やり従わされているだけだ。僕が助けてあげるよ」
ああ、ダメだ……この人。