漆拾壱
小鳥の鳴き声を目覚ましに黒川さんの腕の中で目覚め、爽やかな朝日に包まれながら一日を迎えたーーとはならなかった。
どうやら彼は朝っぱらから仕事に行ったらしく、机の上には書き置きがあった。
『愛するサリンへ
本当は朝のイチャイチャタイムを満喫したかったのですが、早くも仕事が入ってしまいました。夕方まで戻れないので何か不便があったら後藤に言いつけてください。
ところで、勝手にベッドを抜け出したことに私が気づかないと思いましたか? クッションで誤魔化せるわけがないでしょう。後で後藤と一緒に説教です。楽しみにしていてください。
分かっているとは思いますが、ラシード家の者とは接触しないように。
黒川真人』
バレてた。
朝っぱらから頭が痛くなるような手紙だ。
ぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に投げ捨てたい衝動に駆られる。でもそんなことしたら、「私の愛の手紙になんてことを!」と強制キスの刑が執行される......。
時刻は午前11時過ぎ。
なんてこった。早寝早起き健康優良児サリンちゃんがこんな時間に起きるなんて。
夜更かしはやはり良くない。
「おはようサリンちゃん。こんな時間に起きるなんて悪い子だな」
ブランチを運んできた後藤さんは、挨拶早々おちょくってきた。
「そういう後藤さんは何時に起きたんですか?」
「んー。組長を見送ったから6時くらい?」
「そんな早い時間に出かけたんですね」
サラダによく分からないドレッシングをかける。
何やらオレンジがかったピンク色のドレッシングだ。オーロラソース? それかトマトか人参か……西アジアの食文化はよく分からないが、まずいってことはないだろう。
「昨夜はありがとうございました。黒川さんは気づいていたみたいですけど」
「そんなに怒ってなかったよ。まぁ俺は……腕立て伏せ500回を命じられたけど」
「えっ」
「俺ムキムキマッチョだから大丈夫だよ。そうだ、数えてて〜」
そういうとジャケットを脱ぎ、そこの床で腕立て伏せを始めた。
彼は上半身の鍛え方が並みではなく、腕がまるで丸太のように太い。時々私を背中に乗せて筋トレするくらいだ。
私も成人女性の平均体重くらいはあるんだけどね……。
「14、15、16」
「サリンちゃんッ、今日の予定は?」
「なーんにもないです。20、21」
記録はあっという間に100に達する。
「外に出るのは怒られそうだな。まッ、屋敷の中くらいなら出歩いて良いんじゃないか? ラシードの連中も、日中は仕事で出てるしなッ」
「良いのかな……119、120」
「怒られそうだったら、ホラ、サリンちゃんが色仕掛けして俺を助けてよ」
「絶対ヤでーす」
本日のブランチはサウジアラビア料理の「カブサ」。
米、肉、野菜を炊き込んだ料理だ。この国はイスラム教徒ばかりだから、この肉はきっと豚じゃない。
イスラム教といえばアルコール類も禁止だ。だから昨夜の食事会ではお酒が出なかったみたい。
黒川さんに「アルコールを摂取したい」と愚痴られたそう。それを受けた後藤さんは、黙ってアルコール消毒液をぶっかけたらしい。絶対いつか殺されるぞ。
しかし、拳銃を突きつけられただけで済んだらしい。
いやそれで”済んだ”と言うのもおかしいかな……。私もこの人たちとそこまで変わらない。
「よーしサリンちゃん。俺と探検に行こう! 食器返しにいくついでにね」
太陽光の差し込むラシード邸は、昨晩とはまた違った雰囲気を醸し出していた。
高い天井には無数のシャンデリアがぶら下がっており、ワインレッドのカーペットを明るく照らしている。肌触りの良さが靴の裏から伝わってきた。
こんなに広いのに均一に涼しい。
庶民だから電気代ばかり気になってしまう。
やはり夜中より使用人や警備の姿をよく見かける。
ブランチの食器とカートを返しにいくついでにラシード家の執事長に挨拶し、屋敷を出歩く許しを得た。西館は主人のプライベートな場所だから行くなと言っていたそうな。
何がしたいかと聞かれると、個人的には庭園にいる孔雀を近くで見てみたい。
餌やりとかしてみたいんだけど、そんな動物園みたいなゲストサービスはないよな......。
「プールあるの知ってる?」
「家にプールがあるんですか? 暑すぎて入る気にならなさそう……」
「いやいや、室内プールだよ。外だとメンテするの大変なんだぜ。今の黒川邸を建てるときも屋外プールつけようかって話だったんだけど、維持費が馬鹿みたいにかかるから止めたんだよ」
確かに黒川の家の裏庭はがらんどうだ。
今は桜の木や植物、よく分からないオブジェが置いてある謎の空間になっている。やけに広いと思っていたが、プールを設置する予定だったのか……。
使っていないのに固定資産税を取られるのはもったいないので、いづれ家庭菜園にでもしようと思う。
「泳ぎたい? 水着は用意してくれるって言ってたぞ」
「泳ぐかは分かりませんけど、ちょっと見てみたいです」
実は私は泳ぐのが好きだ。
今まで通っていた小中学校には水泳の時間があったが、玲海堂でそれがあるのは小等部だけらしい。立派な室内プールがあるっていうから楽しみにしていたのに、西園寺君に「水泳したいなら部活入れ」と言われてしまった。少し残念だ。
家にプールがあったらどれほど楽しいだろう。浮き輪に乗って、水の上で冷たいジュースを飲んでみたい……。
そんな夢を語ったら、
「リゾートみたいで良いね。今度家の風呂でやる?」
「お風呂ではちょっと……」
確かに浮き輪でふわふわできる広さはあるが、そんな虚しい夢の叶え方したくない。
ラシード邸の室内プールについた。
傾斜した壁は天井で三角形に収束しており、西側の壁はすべて窓になっており太陽が燦々と部屋を照らしている。そのせいか水が少し温い。
脇にはプールベッドが並んでおり、誰かの忘れ物か本が放って置かれていた。
ふと見上げるとミラーボールがぶら下がっている。ラシード家にはパーリーピーポーがいるようだ。
「すっげー広いな」
「ですね。……あの本、誰か使用人の人に預けた方が良いですかね?」
アラビア語の表紙を遠くから眺めていると、強い光がちらと目に差し込んだ。何かが太陽光に反射しているみたい。
しかしプールベッドは金属製じゃないし、他に反射するようなものが見当たらない。
不審に思って近づいてみると、プールベッドの足のところにシルバーの指輪が落ちていた。
女性ものらしい小さなサイズの指輪にチェーンが通してあり、ネックレスのような形態を取っていた。しかしチェーンの留め具が壊れている。
「LL……」
イニシャルだろうか。しかし、内側に彫ってあった文字はアーデル・ラシードのそれではなかった。
「もしかしてそれ、ラシードの長男が探してたやつか?」
「かもしれません。本と一緒に届けましょう」




